2010.02.09

【エッセイ】どうして日本人は質問しなくなるのか

日本では、大学の大人数講義で「質問はありますか?」と聞いて手をあげる学生はほとんどいません。たまに手をあげる学生がいると、好奇の目で見られます。
これは世界共通の現象ではなく、欧米では多くの学生が積極的に質問するのが普通です。
不思議なことに日本の小学校の授業では活発な質疑応答があり、グループ学習でも議論がもりあがりますが、中学校に入ると、ぴたっと誰も質問をしなくなります。
限られた経験からではありますが、欧米の学校では、むしろ小学校の方が静かで、中学校・高校と進むに従ってしっかり自分の意見を言う学生が増えるように思います。
だからといって日本の学生が考えていないわけではなく、その証拠にレポートを書かせると非常によく練られたものが提出されて舌を巻くことがあります。このような文化差はどちらが優れているというものではありませんが、協調学習やワークショップなどを考える上で、重要な条件としてあらわれてきます。

このような傾向がどこから由来しているのかについて、現在の研究で決定的な説明はありません。ここでは仮説レベルで検討してみたいと思います。

・社会に埋め込まれた文化的コード
日本社会においては、「目立つことや人と違うこと」を「恥ずかしいこと」であると解釈する文化的コードが存在しています。このことが歴史的にどう形成されてきたかは議論の余地がありますが、現状そうなっていることに疑義はありません。

・自己概念の発達と社会との関係性構築
中学校に変わるタイミングでの変化ということから、自己概念の発達が何らかの役割を果たしていることも推測できます。自己概念を形成する際には社会の中での自分の位置づけも意識せざるをえなくなりますので、その際にさきほどの文化的コードが内面化されるということも考えられます。

・学校教育の影響
ただ、自己概念の発達だけが要因なのであれば、中学校に入って「一気に」変わることの説明がつきません。発達には個人差があるので、全員が一斉に変化するのは不自然です。中学校に入る際に、複数の小学校から合流し、いったん人間関係がリセットされる際に、中学校独自の文化的コードが内面化されている可能性もあります。

仕事柄小学校や中学校の先生方に研修の機会を持つこともあるのですが、おもしろいのは先生も学生と同様の反応をすることです。40人を相手にして「質問はありますか?」と聞くと手があがることはほとんどないのですが、ワークショップ形式にして4人で話をしてもらうと、制止しても止まらないほど議論がもりあがります。

このようなことから、小学校6年間グループで話し合う経験から、小集団(特に4人)までのコミュニケーションスキルは発達するが、中学校・高等学校の6年間相互作用が活発でない授業を受けている間に、質問することは恥ずかしいという文化的コードが内面化された結果が大学の授業に現れているのではないかと考えています。

[山内 祐平]

2010.02.05

【ylabと私、この1年】やりながら考えること(大城)

皆様、こんにちは。
メンバーがそれぞれの目線で4月からの1年間を振り返るシリーズ【ylabと私、この1年】第2回はM2の大城がお送りいたします。

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修士1年の間、私は「大学生」「講義」「ノートテイキング」というキーワードにこだわり、先行研究の調査を行いました。そのうちに、バックチャネルという、学会等のプレゼンテーションの裏で行われる、聴講者間や聴講者―発表者間のコミュニケーションの存在を知り、大学講義でのバックチャネルの利用に関心が移って行きました。

修士2年の4月の段階で、研究タイトルは「大学の講義型授業においてデジタルバックチャネルの利用を学習に結びつける方法の提案」となりました。そして、ここから「バックチャネル」と「ノートテイキング」とが混在したまま迷走する日々が続きました。

今年1年を振り返って最もまずかったな、と思うことは、「まず試しにやってみる」ということに対するフットワークの"重さ"です。

フットワークが軽い例を出すと、たとえば同じく修士2年の池尻さんの場合は、カードゲーム教材を作っては、身の回りの学生、あるいは対象である高校生に実際に使ってみてもらってフィードバックをもらい、教材を作り直すということを、かなり早い段階から何度も何度も繰り返していました。

私の場合、実際に模擬講義のコンテンツを作って、周りの仲間に頼んで協同ノートテイキングなりバックチャネルなりを試してもらい、自分がノートテイキングやバックチャネルでやりたいこと、実際にできること、できないことを、1つ1つはっきりさせていくべきだったのですが、なかなか腰を上げられずにいました。試しの段階なので、「まずやってみる」ということが一番大事な時期だったのに、勝手に「難しい」と思ってハードルを高くしていたのは自分の頭の固さだったと、今は思います。

時間はどんどん無くなっていって焦る。でも、どうにも足を踏み出せない。そうしてまた時間が無くなっていく。そんな時、山内先生はずっと「立ち止まって考えてはいけない。やりながら考えること。」とアドバイスしつづけてくださいました。

「やりながら考えること」

これは、この1年で最も印象に残っているアドバイスの1つです。特に、修論提出まで2か月を切った時点での本実験の前後は、ずっと頭の中を回り続けていた言葉でした。

実験で用いるシステムにしても、模擬講義の内容にしても、文字通り「やってみて初めて分かること」がたくさんありました。

たとえば、3回行ったプレ実験のうち1回では、ありがたいことに実際に大学の授業で、既存のオンラインワープロを使って受講者にノートをとってもらうという取り組みをさせていただけたのですが、システムトラブルで受講者のほとんどすべてのノートの保存に失敗するというショックな出来事もありました。自分の準備や下調べが足りなかったことで、実験がうまくいかなかったことに悔しさを感じる以上に、受講者の書いたものが失われてしまったことに対しては、本当に申し訳なく思いました。結局、実験で使用するシステムを変更するという大幅な方針転換を決めました。

また、3回のプレ実験では、全て異なる分野・内容の講義を使って実験を行いましたが、参加者の専攻や背景知識を考慮しながら実験に用いる講義内容を検討することの難しさを感じました。最終的には、プレ実験の1つで用いたテーマ「インストラクショナルデザイン」を本実験で採用することに決めました。

このように、次の方針を決める時に、その決め手になるのは、「やってみてわかったこと」でした。文献調査はもちろん大事ですが、実際にやってみてわかる手ごたえは、それに負けないものだということを強く感じました。

これからは、もっとチャレンジ精神を持って「まずやってみる。やりながら考える」ということを実行していきたいと思います。

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先月、「講義における外的関連づけを支援する協同ノートテイキング方法に関する検討」というタイトルで修士論文を執筆することができました。
実験参加にご協力いただいた学生の皆様、研究相談に乗っていただいた先生方、研究室の皆様に心より御礼を申し上げます。

[大城 明緒]

2010.02.02

【エッセイ】マニュアル作成の教育的意義

昨日、冬学期の教育部授業「ワークショップのファシリテーション」が終了しました。この授業は、学部生を対象として、情報学環・福武ホールで開催されている子ども向けワークショップ (CAMP主催 クリケットワークショップ) にファシリテータとして参加することによってファシテーションに関する考え方や実践的スキルを学習することをねらいにしています。

授業は、CAMPの人材育成プログラム「あちこちCAMP」とコラボレーションする形で展開され、ファシリテーターマニュアルを参照しながら、実践を行う形で進みました。

今年は新しい試みとして、CAMPで作成・提供しているオフィシャルマニュアルに「追補版」を作るという活動を最後に組み込みました。

マニュアルは通常、「状況Aにおいて、主体Bが、行動Cを為す」という命題で記述されます。ワークショップやファシリテーションにおいては、Aの状況判断とCの具体的行動が難しいことはわかっており、その選択肢を増やす活動によってリフレクションをはかるというのがもともとのカリキュラム構成の意図でした。
しかし、昨日行われたCAMPファシリテータへの発表会で興味深かったのは、「主体B」によってAとCのリアリティが違うことから、ファシリテーションに関する本質的な議論が誘発されたことでした。例えば、「子どもがプログラミングに対して援助を求めてきたとき、方法がわからなかったらどう対応するか」という論点については、ファシリテータの専門性はプログラミングではないので、わからないと言って一緒に考えるというスタンスと、なんらかの支援ができるように、事前に準備しておくべきだというスタンスの違いがそれにあたります。

主体Bが熟練者であるか、初心者によっても違いがありますが、同じ熟練者でも立場や信念によって微妙な差があります。マニュアルを制作し検討するという活動は、ワークショップの普及やマネジメントにとって重要であると同時に、暗黙知を可視化することによってファシリテーションの本質をあぶりだす教育的に価値ある活動であることを実感しました。

最後になりましたが、ご協力いただいたCSKホールディングスの田村さん、北川さんCAMPファシリテータの村田さん、内記さん、増田さん、大学院生の森さんにお礼申し上げます。

[山内 祐平]

2010.01.29

【ylabと私、この1年】「面白い」を目指して(池尻)

大好評だった【山内研の食卓!】も一回りし、
このメンバーでblogを更新するのも今年度最後になりました。

そんな今年度最後のテーマは【ylabと私、この1年】
メンバーがそれぞれの目線で4月からの1年間を振り返ります。
トップバッターは毎度おなじみ、M2の池尻がつとめさせていただきます。

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修士1年は「現代に役立つ歴史の学習方法を作るぞ!」から始まり、
「歴史の因果関係を現代に言い換える」学習方法をデザインする、
というところまで決まりました。

そうして修士2年を通して完成したのが、
2人対2人で歴史を現代に置き換えていき、
現代の因果関係を作るのを競い合うカードゲーム、"historio"です。

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修士2年は「歴史の因果関係を現代に言い換える」のコンセプトを
どうしたら「面白い」教材にさせるかを考えた1年でした。
そして、この"historio"をきっかけに色んな人と出会い、
色んなことを学ぶことができました。

ここではそれを紹介したいなと思います。


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■「面白い」と「学習効果」の両立(4月〜6月)

「一見矛盾しているように聞こえるかもしれないけどよく聞いてね。
学習効果が上がるロジックを保ったまま、それとは別に魅力あふれる、
面白いゲームを作って下さい。」

山内先生のこの言葉が、僕の教材作りに課せられたテーマでした。

4月〜6月はこの両立を目指し、教材を改良しては大学院生にやってもらう、
を繰り返していたのですが、ゲーム的な面白さを優先すれば学習内容が歪み、
学習内容を優先すれば「これ、面白いと思う?」と言われ、
大スランプに陥っていた時でした。
 
「面白いって何だ?」
考えても考えてもいいアイデアは浮かびません。
気分はまるで売れない芸人のよう。
「もう思いつかない...面白さって捨てたらダメなのか...」
そう思うこともありました。

そんなスランプを乗り越えるきっかけが、
大先輩でもある立命館大学の八重樫先生の研究室へのデザイン修行でした。
学部生と一緒に3日間みっちりイラストレーターの使い方や、
そもそもデザインとは何かを教えてもらいました。

この修行を経て、「ゲームっぽい要素」や「見た目がきれい」から
面白さを生み出すのではなく、「面白い学習活動をデザインして、
それをまっすぐ教材のデザインに落とす」ことが大事なんだと学びました。

これをきっかけに、頭の中で高校生が楽しくゲームしている様子が
イメージできるようになり、ようやく"historio"に学習と矛盾することのない
「面白い」を加えることができるようになりました。


■「面白い」のパワーを実感する(7月〜)
そんな"historio"をご厚意で初めて実践させていただいたのが佼成学園高校でした。
実践自体は反省点も多く、改善の余地だらけだったのですが、
高校生がとても笑いながらゲームをしてくれ、
先生にもとても喜んでいただけたのが本当に嬉しかったのを覚えています。

そして、「面白い」のパワーを実感できたのはこの後からでした。

高校生が楽しそうにゲームをし、白熱した議論をしている写真を
見せられるようになってからは、約2時間かかる活動にも関わらず、
高校や大学の先生から「面白そうだからうちでもやらせてみたい」と
言っていただく機会が増えたのです。

また学会発表の時や他の色々な場面で、まだまだ未熟な研究にも関わらず
多くの人が興味を持ってくれたのにも驚きました。
 
「ああ、笑顔って広まっていくんだなあ」と感じた瞬間でした。


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僕はずっと、教育で大事なのは筋の正しさだと思っていました。
どんなに勉強が辛くてもどんなに苦しい勉強でも、
それが生徒のためになるのであれば必ず教育に反映されるべきだと考えていました。

でも、

楽しそうな生徒の写真を見たときの先生の表情、

学習効果があるかわからなかった時でも
他校の生徒の笑顔を見て「やってみたい」と言ってくれたこと、

反省点だらけの実践でもニコニコしながら「彼らがこんなに楽しそうに、
うるさいくらい議論するなんて知らなかった。それだけでも良かった。」
と言ってくれたこと、

陳腐な表現かもしれませんが、
教育で一番大事なのは生徒への「愛」なんだなと思いました。

もちろん学習効果や教育の筋の正しさは大事ですが、
きっとその学習に生徒への愛がなければ、
先生方をはじめ、人の心に届くことはないんだろうなと実感した1年でした。

そして教材が愛を引き出す鍵は、先生方が大切にしている生徒の笑顔を作れる
「面白さ」があるかどうかなんだろうなとしみじみ感じました。


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馬鹿みたいな発見かもしれませんが、社会のシステムとしてしか
教育を考えられなかった僕には、すごく実りの多い1年でした。
この1年、「面白さ」を追究し続けて良かったです。
山内先生、ありがとうございました。

また、協力いただいた先生や生徒以外にも、
多くの人からアドバイスをもらい、論文を書くことができました。
お世話になったみなさんも本当にありがとうございました。


今後も公教育で笑顔を生み出せる「面白い」教材を作れる研究者を
目指して頑張りたいと思います。

今後ともよろしくお願いします。


(追記)
ちなみに僕自身は眉間にしわを寄せっぱなしの1年でした(笑)
ただその分、笑顔になれた瞬間は格別でした。
もう一生研究はやめられないと思います。

[池尻 良平]

2010.01.26

【エッセイ】開かれた討論の場としてのゼミナール

修士1年の伏木田さんが、「ゼミ」を研究テーマに選び、様々な文献をレビューしています。現在修士2年の岡本さんが「研究室」について研究していますが、ゼミも研究室と同じく身近でありながらあまり研究が行われていない領域です。

もともとゼミナールという授業の形式は、中世において口述と記憶が中心だった教育を改革するためにドイツで生み出された方法で、19世紀に普及しました。1812年当時のベルリン大学の「言語学ゼミナール」は以下のように運営されています。

ゼミナールの目的
 :古典学研究の準備をしている者に対して、学問の基礎に至るための多面的訓練を与えること

学生の採用
 :8名(後に10名に増加)に限定、厳格な選考試験の実施

ゼミナールの活動:演習と報告検討会の2種類、ゼミナール専用の文献資料室で行われた

演習
 :毎週2時間ずつ
 :ギリシャ・ラテンの作家の作品についての批判的解釈を行う

報告検討会
 :2週間に1回、夜間に開催
 :学生がラテン語で論文を作成→事前にゼミナール構成員全員に配布(全員読んでおく)
 ※論文作成には8週間があてられ、威厳を正確に遵守することがゼミナール参加者の義務
 ※報告、討論はすべてラテン語で行われることを通じて、ラテン語の会話能力が訓練される

ここにあげられているように、ゼミは人文領域のエリートのための厳しい訓練と実習の場でした。その後、学部の多様化によって理系に広がり、研究や論文執筆の指導も行われるようになりました。最近ではプロジェクト学習的な自由ゼミも増えてきています。
この200年でゼミの形は大きく変わりましたが、いまだにゼミは多くの人たちをひきつけています。その理由はいろいろあげられると思いますが、個人的にはゼミが「正答」を前提にしない開かれた討論の場であることが大きいと考えています。
正答を前提としない討論の場は、感情を揺り動かす知的な対決が行われます。意見のぶつかりあいを解釈するためには批判的思考が必要になり、相手を説得するためには高度な論理的思考とコミュニケーション能力が求められます。そういう意味では、最近はやっている「アクティブラーニング」の源流といってもよいかもしれません。

ゼミは大学教育において重要な役割を果たしているにも関わらず、講義に比べて教育方法や評価に関する研究が少ない領域です。200年の間に形態が多様に分化していることや複合的な能力育成を目標としていることが背景にあります。

いずれにせよ、今後100年の大学教育を考えたとき、ゼミや実習を発展させた形態の授業がより重要になってくるのは間違いありません。ゼミの新しい形を想像することは、大学の未来をデザインすることなのです。

[山内 祐平]

2010.01.24

【山内研の食卓!】金魚坂

金魚坂は、金魚屋と喫茶店・レストランが併設されているめずらしい店です。



http://www.kingyozaka.com/


この店が面している路地はもともと金魚坂とよばれており、本郷界隈の古い路地の一つで雰囲気があります。
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先日、ゼミが終わった後に院生・スタッフ・山内先生というメンバーで、遅めの夕食を食べました。

人数が多い場合は2階のスペースでゆったり過ごすことができます。

豚の角煮、だしまきたまごなどベーシックなものから、ちょっと個性的なものまで。こだわりの一品料理が楽しめます。
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〆はとろろ付きのご飯セットがおすすめです。上品な出汁のきいたとろろと、赤出しの味噌汁。家庭的でありながら洗練された、シンプルさがそこにあります。

10人程度の団体でも席がとれますので、パーティなどにもおすすめです。

屋根裏部屋のような、不思議と落ち着いてしまうその空間。
いつしか、学年や年齢をこえ、学内ではできないような本音トークが繰り広げられていたりもします(笑)

研究室での生活も5年になり、実はこういったインフォーマルな時間とそこでの会話が、研究を続けていく中で案外ボディーブローのように効いてくることもあるなあと思っています。

食事をすること。それは、山内研究室にとっては、重要な文化を担っていると思います。
ご飯をみんなで食べることで、とても深いつながりがつくりだされている気がします。

100年も昔、デューイスクールにも食堂があったそうですが、今でも、食を通じ人の会話が学びにつながっていくのだなあとを実感する今日このごろです。

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お昼ご飯だったら、ビーフ黒カレーがおすすめです。少し贅沢なランチですが、こくと少し酸味が混じっているカレーで、深い味わいに優雅な気分を味わえることでしょう。
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デザートのアップルパイも甘すぎずおいしいです。

個人的には・・・
難点と言えば、レジ横の金魚グッズは、ついつい衝動買いしたくなるのが玉に傷、といったところでしょうか。
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(担当:博士課程3年 森玲奈)

2010.01.19

【エッセイ】ノートをとること

大学でノートをとっているのは日常的な風景ですが、歴史的に見ると、大学生がノートを使うようになったのは近代以降のことです。中世の大学では、教育活動のほとんどが口述で行われていました。教師の語りを記憶し、面接で確認するのが授業の典型だったのです。

「(中世における)大学での教育はもっぱら口述でなされていた。このことは討論を持ち出すまでもないだろう。教師は「購読」内容を書き取らせてはならなかった。当時の学生はノートもとらずに教師の説明を追いかけていたのである。」

ークリストフ・シャルル/ジャック・ヴェルジェ著「大学の歴史」白水社, 2009 p.45

近代になって大学生がノートをとるようにになった理由は大きく二つあげられます。まずはインフラが整ったことです。近代的な産業の興隆を背景に、工場で大量のノートを生産することが可能になりました。現在利用されている形状のノートが流通するようになったのは19世紀初頭です。また、鉛筆が工業製品として本格的に普及し始めたのも同時期です。大量生産による価格低下がなければ、貧しい学生はノートや鉛筆を購入することはできなかったでしょう。

次に大学の変化があげられます。中世の大学は法学・医学・神学を対象としたもので、限られた人たちしか行かない特別な組織でした。産業革命による社会の変化に対応するため、19世紀から20世紀にかけて、現在のような学部構成で社会に卒業生を送り出す近代的な大学が整備されたのです。大学教育の目標の変化に伴って、専門的な知識を記憶したり、手続きを記録し再生するスキルが重視されるようになりました。

現在我々が当たり前だと思っている大学教育の姿は、100年後には大きく変わっているでしょう。学生全員がネット接続デバイスを持ち、大学教育の目標が知識創発にシフトすれば、記憶のためにノートをとるのではなく、コミュニケーションのためにノートをとる時代が来るかもしれません。教育におけるメディアの利用形態は、その時代における学びと社会の関係の縮図なのです。

[山内 祐平]

2010.01.16

【山内研の食卓!】た喜ち

 

シリーズ「山内研の食卓!」第7回は,修士1年の伏木田が担当いたします。


今回ご紹介するのは,イタリアンと串焼きのお店「た喜ち」です。

場所は本郷三丁目の駅からすぐ,大通りから1歩入った,静かな場所にひっそりとあります。

普段は歓迎会やお祝いの席として夜に利用することが多いのですが,ランチもまた絶品!ということで,お昼におじゃましました。

 

ランチは,パスタ,お魚,お肉,スペシャルの4種類が用意されており,すべてにサラダ・スープ・パンorライス・デザート・ドリンクが付くという贅沢さ。

修士の方々の"修論おつかれさま!"も兼ねて,スペシャルランチを頼んでみました。

 

お料理が出てくるのを待つ間,しばし眺めるのはランチョンマットと箸袋。

イタリアンのお店でありながら,落ち着いた藍色,やわらなか和柄,達筆な文字・・・。

舌で味わうお食事を,影でそっと支えるセンスの数々。

目で愛でる要素がきらりと光る,とても素敵なお店なのです。

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さて,お料理が運ばれてきました。

まずはサラダから。

緑,赤,白,彩りあざやかなお野菜が,しゃきしゃきとみずみずしい一品です。

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次にスープ。

今日のスープは,えのきだけとキャベツがくたっと煮込んである,お腹にやさしいお味。

ぽってりとしたカップを両手で包み一口,ほうっと安心するひとときです。

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そしてメインは,鴨のロースト,赤ワイン風味のソース添え。

ソースをたっぷりつけたお肉を口に入れると,何とも言えない香りがふわっと広がります。

付け合わせのナス,じゃがいもの甘みが,きりっとしたソースによく合います。

こっちりと厚みのあるお肉をしあわせと一緒に噛みしめて・・・あっという間に完食。
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ちなみにお肉ランチのメインは,チーズがとろりとかかったハンバーグ。

食べ応え満点,鴨肉に勝るとも劣らない一品です。

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〆はお待ちかねのデザート。

爽やかな甘みのフルーツが一口大にカットされ,目にもうつくしい盛り合わせ。

そこに添えられた,淡白な生クリームと濃厚なガトーショコラがいいコンビ!

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いかがでしょう?行きたい気持ちがくすぐられましたか?

本郷にお越しの際はぜひ,空腹と疲れを癒しに訪れてみては。

ただし,お昼はとても込み合いますので,グループで行かれる際は事前にお電話をしておいた方がよいかなと思います。

 

伏木田稚子

2010.01.10

【山内研の食卓!】レストラン・アブルボア

2010年2回目の「山内研の食卓!」は、テイが担当させていただきます。
今回ご紹介するのは農学部に昨年新しくできた東京大学向ヶ岡ファカルティハウスにあるレストラン「アブルボア」です。

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静かな弥生地区の隅にできたこの新しい建物は宿泊施設とレストランとラウンジバーを一体化したユニークな構成になっています。

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建物から入って、いきなり目に入ってくるのはアフリカ的なイメージです。

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玄関にもいろいろ面白そうな小物が棚に並べてあります。

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このような写真をご覧になったら、きっと洋食のイメージを持たれたのではないかと思います。
実は、違います!木の香りを匂わせながら、和食を楽しませる「おこわ」の専門店なのです。今回はランチに行きました。
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私が注文したのは五目おこわと豚の生姜焼きです。おいしかったですよ。お薦めです。

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ちょっと気になったのはこの店のお箸です。先がとても尖っています。おこわ一粒まで扱えるようにこうなっているそうです。

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二階には、GINZA Sの姉妹店「S」University of Tokyoというラウンジバーもあります。

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研究室からは、歩いて10分ぐらいかかりますが、軽井沢のような別世界が楽しめます。贅沢なひと時の思い出にひたりながら、紹介を終わります。

【程琳】

2010.01.04

【オピニオン】Twitterでのなりすまし行為

Twitterでの鳩山首相なりすまし事件について記憶があたらしいところですが、正月には建築家の安藤忠雄さんのなりすましがありました。(既にアカウントは削除されています)

情報学環・福武ホールの建築の際に、安藤さんと事務所スタッフの方々に大変お世話になりました。安藤さんは密度の高いコミュニケーションを大事にしており我々とのやりとりもメールすら使わないようにしていましたので、このアカウントはなりすましであると判断しました。

実際のところ、こういったケースでは本人かどうかの判断は難しいと思います。タイムラインでも、不自然な点は多いが、真偽はよくわからないという反応が多かったようです。なりすましについては一般に不自然な点を批判的に読み解ければわかるはずだという論調もありますが、そういった能力がない人はだまされてもよいということにはならないはずです。

名前と肖像の組み合わせは人格の基本であり、それを剽窃する行為*1は人格権の侵害にあたります。人格の多様性とアイデンティティを認めることは、教育をはじめ様々な文化的行為の基盤です。これらが守られなければ、ネットワーク上で新しい価値が生まれることはなくなるでしょう。
思考やコミュニケーションの過程にできるだけ人工物を介入させないというのは安藤さんの思想であり、なりすましによってその思想は踏みにじられたことになります。
私は安藤さんと違った考えを持っていますが、少なくとも本人の顔と名前においてそれを主張し実行することは保護されなければなりません。

なりすましにどう対応すればよいか、現状考えていることを書き記しておきます。

▼Twitterユーザーができること
・なりすましと疑われるアカウントがあったら、フォローしないこと。
(なりすましの最大の動機は、有名人と同じように大切に処遇されたいという欲求です。フォロワーが増えると、欲求が充足されるので行為の持続を間接的に支えることになります。)
・なりすましと疑われるアカウントに関する不自然な点を指摘して注意を喚起すること。
(なりすましをする人は、自分がどう受け入れられているか気になっているので、名前で検索したり、クライアントで自分のアカウントをモニターしている可能性が高いと考えられます。疑われていることがわかれば、自発的にやめる可能性もあります。)
・なりすまされている人が知り合いであれば、連絡して真偽を確認し、なりすましであることが判明した場合は運営会社に連絡すること。
・知名度がある重要な役職に就いており、なりすましによって社会的混乱が予想される場合は、認証済みアカウントにしてもらうよう運営会社に要望すること。

▼運営会社がすべきこと*2
・ヘルプやTwinaviに、なりすましに関する対応窓口の情報を記載すること。
・ヘルプやTwinaviに、認証済みアカウントの申請方法や審査基準などを記載すること。

▼教育・マスコミが行うべきこと
・高等学校情報科において、教員がこの問題を教えること。
・ニュースや番組においてこの問題を紹介すること。

▼法律で対応すべきこと
・不正アクセスを経由しないなりすまし行為に対応する法令を整備すること。
(現状でも名誉毀損は適用できると思いますが、より明示的にすべきだと考えます。)
・なりすましに限らず、肖像権やプライバシーなど、インターネット時代に対応した人格権関連の法令整備を行うこと。

Twitterをはじめとするソーシャルメディアは、今後の情報化社会に欠かせない重要な存在であり、過剰に規制することなく発展できるよう様々なレイヤーで努力を重ね、成熟した存在へ脱皮して欲しいと願っています。

*1 ここでいう剽窃は、明示的に本人であると認識させる行為をさします。名前の一部を変えたり、本人でないことを断った上で行う批評行為は、この中に入っていません。
*2 運営会社にはこの要望をメールで送っております。

[山内 祐平]

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