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2022.12.14

自分の研究に影響を与えた書籍の紹介 (M1田中冴)

みなさまこんにちは。M1の田中です。

2022年度後期のブログテーマは「自分の研究に影響を与えた書籍の紹介」となりました。
これから山内研メンバーが持ち回りで執筆していきます。お楽しみに!

自分の研究に影響を与えた書籍ということで、複数候補が思い浮かび非常に悩んだのですが、人間の思考の道具としてのコンピュータへの興味に最初に私を駆り立てた本ということで、学部時代に出会ったこちらの一冊を選びました。

思想としてのパソコン(1997) 西垣通
(この本は山内研がある福武ホール内の学環コモンズの本棚にも置かれているのですが、そちらは西垣通先生ご本人のサイン入りでした。入学早々見つけてぶち上がりました)


この本は、西垣先生がパーソナル・コンピュータの歴史におけるキーマンとして取り上げた、ヴァネバー・ブッシュ/アラン・チューリング/J・C・R・リックライダー/ダグラス・エンゲルバート/テッド・ネルソン/テリー・ウィノグラード/フィリップ・ケオーの7人の言説から「パソコンという思想」の成り立ちを追いかけていくというもので、西垣先生による序章と、7人のキーマンの主要な論文の日訳で構成されています。なのでこの本のメインは日訳された7本の論文になるのですが、学部時代の私が大きく影響を受けたのは、その論文の前に掲載されている序章部分でした。

序章前半では、7本の論文を時系列で概観しパソコンの歴史をコンパクトに解説してくれています。
パソコンが主流になる前の1970年ごろまでは、コンピュータといえばもっぱら”メインフレーム”と呼ばれる汎用大型コンピュータでした。それは恐ろしく高価で、部屋いっぱいを占めるほど大きくて、動かすのに人が何人もいるような大層なものでした。そのため、メインフレームを所持できるのは大企業や軍隊といったエリートのみでした。これが、戦時中は弾道計算なんかに使われたということです。
パソコンは、このメインフレームに対抗して、1960年〜80年代のアメリカで誕生しました。「エリートたちが使ってるアレを俺たちも使うぞ!」という感じでしょうか。中央管理や権威を嫌い、反戦を訴えるカウンターカルチャーとしての側面が強かったため、その基底には「一般市民のための安くて使いやすいコンピュータ」という思想がありました。
こういった歴史を追いかけていくと、コンピュータという機械自体の可能性を問い続けるメインフレーム・コンピュータと、コンピュータをヒトの道具としていっそう洗練させていこうとするパーソナル・コンピュータという2つの大きな流れが見えてきます。本で紹介される7人のキーマンは、まさにこれらの流れが混交する時代(1940~1990)を生き、「パソコンという思想」の基盤をつくっていった人物たちと言えるでしょう。

序章後半では、これらの歴史を踏まえ、パソコンを”思想”として見つめ直していきます。この本、そして序章のタイトルがともに「”思想”としてのパソコン」である理由とも言えるパートだと思います。パソコンに何かを期待する人たちの思想を形作っているのはどんなものかについて、機械製作により自分の中の獣性を克服しようと努力する西洋の宗教的情熱や、統御支配できる領域を拡大していこうとするアメリカのフロンティア精神などを引用しつつ論考されています。序章の最後では、パソコンという思想はまだ未完のものであり、その中枢はこれから我々がつくっていくものであると締めくくられます。


それまでは、ただ”技術”として見つめていたコンピュータを、”思想”として見つめるきっかけをくれたという意味で、私にとっては大事な一冊です。この本を起点にして、特にネルソンやウィノグラードの思想に興味を持ち出し、人間の道具としてのパーソナルなコンピュータとその思想に次第に嵌まり込んでいくこととなりました。学部時代は計算技術そのものに関心を寄せていた時期もありましたが、こういった本や思想と出会い、「人間はコンピュータをどう使えばいいのか、人間はコンピュータに何を期待するのか、人間とコンピュータはどう異なるのか」といったことばかり考えるようになり、気づいたら人間のことばかり考えていました。人間とコンピュータはどう異なるのかを考えれば考えるほどそのコントラストが強くなり、人間のやっていることの複雑さや面白さが気になり始めたんです。その結果、今は大学院で人間の学習を扱う研究室にいます。

最後に、本書序章内の、私が大好きな一節を引用して終わりにしようと思います。
「電脳批判派は機械を自然に対立するものとして位置付けるが、それは正鵠を得ているだろうか。とくに問題となるのは「ヒト(人間)」と「コンピュータ」との関係である。ヒトがコンピュータに期待することは本質的に何なのか。ヒトとコンピュータとは異質な存在なのか。もし相違点があるとすれば、それは何なのか。そういう、ヒトとコンピュータの関係の深層にメスを入れないかぎり、情報化社会の未来図を描くことはできない。情報化社会をデザインするとは、ある意味では、ヒトとコンピュータのあらゆる関係をデザインしていくことだからだ。」

【田中冴】

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