2012.03.02

【今年を振り返る】思っている事を形にする

 皆様、こんにちは。修士2年の柴田アドリアーナと申します。
 学生がこの1年間について振り返る、【今年を振り返る】シリーズの第2回をお送りいたします。

 ちょうど一年前に書いたブログの記事を再読し、なぜか「HardFun - 苦楽しい」という言葉が何回も書いていました。修士の一年は確かに授業や研究、いくつかの活動に取り組んで、楽しく一年を過ごしました。修士2年はどんな一年だったかと振り返ると、「HardFun」というキーワードが再び登場します!


思っている事を形にする

 この一年間で、多分、一番苦労したステップは教材のコンテンツを決める事だったと思います。修士一年で調べた「複言語・複文化主義」「Fifth Dimension」などの概念をデジタル日本語教材にどのように活用できるかについて長く悩んでしまいました。
日本語を教えるだけではなく、子どもたちの母語(ポルトガル語)とブラジルの文化を保ち、日本の文化を理解させることが目的でした。また、幼稚園年長から小学校一年生に対して、どんな内容がふさわしいか、どんなものに興味を引かれるのでしょうと思いながら教材をデザインしました。
 このプロセスを達成するために、研究ファシリテータの高橋薫先生と教材のスクリプトを何回もやり直しながら、進みました。また、幼児に関する学習環境デザインを研究している助教の佐藤朝美先生からも沢山のアドバイスを頂き、11月にやっと教材を完成させました。そして、11月の終わり頃に茨城県にあるブラジル人学校でユーザーテストを実施しました。
 12月になると論文の執筆で精一杯でした。この2年間で調べて来たこと、観て来た事、やって来た事などの情報を整理し、研究のロジックに意識しながら執筆を進み、「在日ブラジル人児童を対象としたデジタル日本語教材の開発」という題目で一月に修士論文を提出しました。


〜*〜*〜


 教材の開発を進むと確かに「楽しい!」「もっとやりたい!」と言う気持ちになります。 教材の完成が遅くなって、急いでユーザーテストを実施したことに反省しています。ユーザーテストを実施していたとき、いくつかの改善点が明らかになり、デジタル教材としていくつかの使用方法の可能性もみることができました。
修士論文の最後に書いたように、在日ブラジル人児童は、日本とブラジルの社会の架け橋となる可能性を持っていると思います。そのためには、言語や文化の違いを超えて、両者に習熟していく基盤を幼い頃から育む必要があると思います。教材の開発だけではこれを果たすことはできないものの、現在のデジタルテクノロジーは両者のコミュニティーをつなげる可能性を秘めていると思います。本研究がそのつながりとなる一つのデジタル教材になればと思います。
 この研究を可能にしてくれたのは指導教員の山内先生のおかげです。3年前、外国人研究生として初めて山内研に入ったとき、学習環境デザインについて何も知りませんでした。はじめての飲み会、先輩に「ConstructivismとConstrucionism」の違いについて聞かれたとき、びっくりしました。
*あの時「Constructivism =ソ連における芸術運動」のことしか思い浮かべなかった。
 このように山内研に受け入れてくれて本当にありがとうございます。
 そして、山内研究室のみなさま、いつも貴重な意見やアドバイスをいただいて、本当に感謝しています。

 来月、ブラジルに帰国する事になりました。これからは新しい道を歩み、この3年間に得た経験を宝にして、学んだ事を生かしたいと思います。

 皆様、ありがとうございました。


 【柴田アドリアーナ】

2012.02.28

【エッセイ】創造性と専門性

企業のイノベーションブームに触発された教育における創造性育成論議について、重要にもかかわらずあまり検討されていないテーマがあります。創造性と専門性はどう関係しているのかという問題です。

教育の文脈では、専門性と創造性は対置的に使われることがあります。特に大学教育では、従来の専門教育に対する教育形態として創造的活動を含むプロジェクト学習に言及する時もあり、転移可能性の高い「新しい教養教育」として位置づけられています。

確かに、教科書に記述できるレベルの専門知識についてはアップデートが激しく、逆に変わらないものは、流通することで価値が下がるという現象が頻繁に見られます。ただ、だからといって創造的活動に専門性が必要ないかというと、そんなことはないのではないかと考えています。

イノベーションに関する議論でよく引き合いに出されるiPadを例に考えてみても、生み出したAppleという企業は情報技術に関する専門家集団です。他の企業と目の付け所は違いますが、全く違う領域の専門家集団やアマチュアが作り上げたものではありません。

価値創発的な事例についてプロセスを見てみると、教科書レベルを超えた経験知が多様な刺激によって異化され、そこからブレイクスルーが生まれている例が多いように思います。

人間はなんでもいいから新しいアイデアを出せと言われれば、色々話すことはできます。実は、出たアイデアが価値につながるか直感的に判断することが難しいのです。

このプロセスを支えているのが、さきほど述べた「教科書レベルを超えた経験知」であり、エキスパートが持っている暗黙知ではないかと考えています。アイデアの検討の際には、それが現実にうまく機能するかどうか頭の中でシミュレーションすることが必要ですが、エキスパートは本人にも理由は説明できないけど、「これはうまくいく」「これはうまくいかない」と感じることができます。そういう意味で高いレベルの専門性と創造性は密接に絡み合っているのです。

創造的な活動を含む授業やワークショップは、このことに十分配慮しないと、「ままごと」に終わってしまう危険性があります。子どものうちは、専門性と接続していなくても、創造的活動の楽しさややりがいを知ること自体が目標でもいいと思いますが、大人になれば、社会に出てから何を生み出せるかについて問われるようになってきます。さきほど述べたようなエキスパートの専門知はすぐに身につくものではないので、学生以外に活動に直結した専門性を持った社会人やその専門性を相対化できる別の専門性を持った社会人を含めてチームを構成するなど、専門的知識と創造的活動をつなぐ仕組みが必要なのではないでしょうか。

山内 祐平

2012.02.26

【今年を振り返る】1つのことに集中して取り組むということ

みなさま、こんにちは。修士2年の菊池です。
今週からブログのテーマが変わり、学生がこの1年間について振り返る、【今年を振り返る】をお送りいたします。

この、【今年を振り返る】というテーマは、山内研ブログで年度の終わりに必ず扱われるテーマです。もちろん、昨年度のこの時期にも同じテーマでブログを書きました。修士1年の一年間は、自分の研究以外にも多くの授業や共同研究プロジェクトなどがあり、複数のプロジェクトを並行して進めた年でした。修士2年の今年は昨年とは大きく異なり、1つのことに集中して取り組む年となりました。

熱心に取り組んだ1つのこととは、もちろん修士研究です。「今までに、こんなに多くの時間をかけて1つのことに取り組んだことはない!」とはっきり言えるくらい、十分に時間をかけて取り組みました。

どのようなことをしたのかと言いますと、観察調査に関わる一連の手続きを最初から最後まで経験しました。具体的には、研究の目的を定め、調査の方法を決定し、会場を押さえ、参加者を募集し、調査の手続きを決め、調査を実施し、集めたデータを分析し、修士論文を執筆しました。これらのプロセスは、実際にはより小さなプロセスへと分割できますが、大枠で説明すればこのようなことを行ったと言えると思います。2年前に卒業論文を書いたとはいえ、これらのプロセスの中にあるほとんどことは、自分が今までに経験したことがないことでした。いま振り返れば、「こんなに多くのことを自分で決めて実施することができて、本当に良い経験をしたなあ。」と言えてしまいますが、実際にやっていた当時は、「これ、どうすればいいんだろう。僕にできるのかなあ。」などといったことを毎日のように考えながら、1つ1つのプロセスを自分の頭と体を最大限活用しながら進めていました。

それでは、修士論文を書き終えたいま、このような「1つのことに取り組むこと」について、僕がどのように考えているのかということを記して、この記事をまとめたいと思います。いま修士論文について振り返るとすれば、やはり先ほども書いたように、「必死に集中して取り組んでよかったな。」という思いが頭の中に浮かびます。しかし、1つのことに集中するということは、逆に言ってしまえば、他のことにはまったく集中しないということです。ほとんどのことに自分の意識を割かないという意思決定は、ある意味では立てていたアンテナを一旦すべて壊してしまうということでもあるため、怖くてなかなかできないことです。それでも、ある程度の期間を使って、1つのことを集中してやらなければできないことがあるのだということが、なんとなくですが、この1年間の経験を通してわかるようになりました。このような、1日や1週間という短い期間ではない、自分をコントロールしながら行う必要のある中長期間の集中が、物事の取り組み方に対する新たな経験を僕に与えてくれたと思います。

話は変わりますが、この記事が、僕が書く最後の山内研ブログになります。驚くほど早く過ぎていったこの2年間は、本当に多くの方々のご支援によって成り立っていた日々でした。最後に感謝の言葉で締めさせていただきたいと思います。みなさま、ありがとうございました。

2012.02.18

【読書感想文】ダーウィンの議論方法

みなさまこんにちは。
【読書感想文】シリーズのラストは博士課程2年の池尻 良平がお送りします。

 僕が紹介するのはダーウィンの『種の起源』に見え隠れする、ダーウィンの議論の姿勢です。説明するまでもないですが、この本ではかの有名な「自然選択」という、当時としてはキレッキレの仮説を提唱しています。僕は生物学はド素人なのでその仮説の是非はわかりませんが、読んでいて彼の議論方法がとても僕には新鮮だったので紹介したいと思います。


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 この本では最初の方で自然選択説を説明した後、6章の「私の学説の難点」と7章の「自然選択説に対するさまざまな異論」という章において、自分の仮説に対する他者の批判をきっちり引用した上で深く議論しています。例えば7章では、博物学者のマイヴァート氏が唱えた自然選択説に対する異論やダーウィンの考えとはそぐわない突然変化説を紹介しています。


 「ほう。確かに他の仮説もごもっともだ。さて、ダーウィンはどう切り返すんだろうか」とワクワクしてページをめくると、彼は持ち前の「豊富な実例」をこれでもかと突きつけていき、自身の説では説明できるけども異論を唱える他の研究者の説ではうまく説明できないことを書き連ねているのです。


 そもそも彼の自然選択説自体、かなりの数の生物を実際に調査し、比較検討した上で出した仮説なのです。つまり、かなりの高クオリティの帰納法で生み出し、演繹的にうまく筋が通るかを何度も検討した上での仮説なので、ちょっとやそっとの批判や異論を出されてもビクともしないわけです。逆に生半可な仮説を出してしまうと、その豊富な実例の前に論破されてしまうわけです。


 この点に関してはリーキーという解説者も、「『種の起源』を読んで感心してしまうことは、ダーウィンが自分の説では説明はつくのだが、当時の従来の仮説では説明のつきにくい数々の事実や観察結果を集めてまとめあげていくというやり方の研究を積み重ねてきたことだ」と評価しています。


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僕の専門は歴史の学習方法の開発なので、自然の摂理を解き明かすアプローチとは異なるのですが、良い仮説や良い理論を作っていきたいという気持ちは同じです。実際、高校の授業を観察させてもらい、そこから帰納的に仮説や理論のヒントを得ることはあるのですが、ダーウィンに比べると見ている実例の数は全然少ないです、その上、他の高校生にも当てはまるのかを考察できる程高校の歴史学習の世界を知らないな〜と、読後に反省した思い出があります。


 頭でっかちな仮説や理論ではなく、足を使ってよく観察した上で、何百年後でも人をひきつけるような良い仮説や理論を提唱できる研究者になりたいなと思います。


[池尻 良平]

2012.02.14

【エッセイ】耳に残る研究計画

研究者にとって秋から冬は次年度の研究計画を立てプレゼンするシーズンです。
職業柄、学生を含め他の研究者の研究計画を聞く機会も増えます。
以前、「人をうならせる研究計画書」というエントリーで、よい研究計画は「おもしろく」て「できるかも」と思わせることが大事だということを書きました。
研究計画書がこの条件を満たしているのに、プレゼンが上手くないため人に伝わらないこともあります。人によって受け止め方は違うと思いますが、個人的な経験則では、

「最初に、研究の意義を、具体的な例を交えながら主張する」プレゼンは耳に残ります。

プレゼンを開始したらできるだけはやいタイミングで、この研究でどれだけすごいことができるのかを主張しましょう。「風邪を引いていてお聞き苦しくてすいません。」など言い訳で始まると注意がそがれます。

研究の意義については、社会的な影響と学術的新規性が考えられますが、社会的な影響であれば誰もが重要であると同意できる問題の解決に寄与すること、学術的新規性の場合は、明らかになったらすごいという夢を持つ話であることを情熱を持って述べることが大事です。重箱の隅をつつくようなことについて「今まで研究されていないからやるのだ」と主張されても興ざめです。研究の価値について話しましょう。

最後に、「具体的な例をあげながら」話すことが肝です。世界を変えるような大風呂敷を広げたとしても、それが抽象的だと説得力がありません。「身近にあるこういう問題が解決されるのです。」「日常にあるこういう現象の認識が変わってしまうのです。」など、専門外の人にもわかる具体的な例をあげると、記憶に残ります。

研究計画のプレゼンは、数年間をかけようと望む場合が多いはずです。内容が評価されないのはともかく、話し方で損をするのは悔いが残るでしょう。自戒も含めてメモとして記してみました。

山内 祐平

2012.02.10

【読書感想文】傍に置いておきたい5冊


 博士課程1年の伏木田です。底冷えの残る毎日ですね。
 読書感想文を書くにあたって、「初めて読んだときに響いたもの」、「その後何度読み返しても酔い続けられるもの」を5冊選びました。そして、その本たちを読む中で感じたうれしさだったり、ゾクリとした感動だったりを、どうにか1つのストーリーとした形にしたいと思い、それぞれの本に対する想いを紡いでみることにしました。
 このblogを見た誰かが、電車の中で揺られながら、自分の部屋でゆっくりとくつろぎながら、ここに載せた本のどれからを読んでみたいと思ったとき、まっさらな気持ちで本を手にとれるよう、それぞれの本のあらすじは割愛します。

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   「なんだろう、このパン」
   「そうなのよ、変なパンでしょう?」
   「ひと口めより、ふた口めの方がおいしいけど」
   「そうなのよ。でも、よく考えてみると、本当においしいものって、そういうもんじゃないの?」
   (吉田篤弘『それからはスープのことばかり考えて暮らした』p.155)

 毎日の暮らしの中で、本当に○○なものに思いを馳せる。本当のやさしさ、本当のつらさ、本当の可愛らしさ、本当の...。ひと目ではわからない、かといって味わい尽くしてからわかるというのでもなく、ひと口めよりもふた口めの方がおいしいという「本当においしいもの」。それは何も、日々に口にする食べ物のおいしさだけでなく、人、風景、想い出など、あらゆる中にある「おいしさ」にもあてはまることはないのだろうか。
 自分にとって、周りの誰かにとって、吉田篤弘が描くところの「本当においしいもの」に近づきたい、そういう中身をもった人になりたいと、実はひっそりと、心の底で望んでいたりする。では、どうしていくのかよいだろうか?

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   大丈夫に見えて、薄汚れているもの。それから、だらしなく見えて実はきちんとしたもの。古びて見えるのに、まだ真珠みたいにそっと輝いているもの。(中略)
   それをひとつひとつひろいあげて、自分で見て、触って、嗅いでみてはじめて自分にとってどういうものか考えること。
   (よしもとばなな『なんくるない』pp.224-225)

 まずは、「正しい目をもつ」ということだろうか。物事の裏と表の両方を見る目、見過ごしてしまったことに気づくことのできる目、もう1度見直すことができる目。そして、五感を使って見つめ続けることができる目。
 "それが自分にとって白か黒かわからなくても、受け入れていいんだよ。大丈夫、グレーのものもあるかもしれないけれど、自分にとって白か黒からはじっくりひとつずつ確かめて、最後に答えを出せばいいんだよ。"と励まされている気持ちになれる、大好きな文である。そして、"世の中は自分が思っているよりもずっと、複雑怪奇で見過ごしてしまうことばかりなんだけど、そんなに悲観しなくて大丈夫"と背中を押してもらったところで、次のステップ。

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   「もの」に出会って自分の生活に引き入れたら、あとはそれを育てる。
   (堀江敏幸『もののはずみ』p.213)

 正しい目をもつことと並行して、「育てるこころ」も大切にしたい。自分の中の引き出しに入れるものをみつけたら、咀嚼して咀嚼して、自分のものにしたい。考え方も、もちろん物理的なモノも、どちらも育てていけるこころがほしい。何かを大切にするということは、その何かの傍らで、その何かがよりより何かに育っていくまでを、じっくりゆっくり守っていくことなんじゃないかと思っている。
 その一方で、「潔いこころ」も失いたくない。

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   持つより持たない方が楽だ、と、ある日ふいに気がついた。すべてを持つことはできないのだから、比較的いろいろ持っている、と思うより、何も持たなくていい、と思う方がずっと安心ではないか。
   (江國香織『とるにたらないものもの』pp.22-23)

 なんという潔さ。自分が欠けていることをカバーしようとせず、欠けているのだと言い切る凛とした構え。そうした「潔いこころ」も「育てるこころ」と一緒に持っていたい。だって、比較的いろいろ持っているのだと言い訳をしないことは、かっこいい。それに、何も持たなくていい、とはさみしくてなかなか思えないことだから、そう思う方が安心だと考える潔さは、まだわたしには足りないからこそ憧れる。

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 わたしが「本当においしいもの」に近づくために、「正しい目」と「育てるこころ」と「潔いこころ」をもったとして、でも本当に要しているのは、「飄々とした風情」かもしれない。例えばそう、こんなやり取りをできてしまうような。

   -どうした高堂。
   私は思わず声をかけた。
   -逝ってしまったのではなかったのか。
   -なに、雨に紛れて漕いできたのだ。
   高堂は、こともなげに云う。
   (梨木香歩『家守綺譚』p.13)

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 わたしにとって珠玉の5冊。ことばのひとつひとつや、ことばの連なり、そして本から香り立つあれこれが、とても好きなものばかりです。

● 吉田篤弘 『それからはスープのことばかり考えて暮らした』
● よしもとばなな 『なんくるない』
● 堀江敏幸 『もののはずみ』
● 江國香織 『とるにたらないものもの』
● 梨木香歩 『家守綺譚』


伏木田稚子

2012.02.08

【エッセイ】講義ノートの権利は誰のもの?

大学の授業でとったノートの著作権は誰のものなのか?

カリフォルニア大学でこの問題が議論になっています。きっかけになったのは、カリフォルニア大学バークレイ校がまとめた「授業におけるノートと教材利用に関するポリシー」の策定でした。この文書では、学生にノートをとることを推奨するとともに、教員の知的努力の結果である講義内容の公表について、教員がノートや録音に対し許可や制限を与える権利を保有することが明記されています。同じクラスを履修している学生間ではノートを共有してもかまわないとされていますが、その範囲を超えて教員に無断でノートを共有もしくは販売した場合にはこのポリシーに違反することになります。

このようなポリシーが策定された理由には、オンラインのノート販売サイトに対して大学側が苦慮していることもあるようです。カリフォルニア州の教育コードではノートの販売が禁止されていますが、ノートの販売行為は止まることがなく、訴訟も起きています。
ノートの共有は昔から行われてきた行為ですが、インターネットの登場により、共有範囲が教室から全世界に広がったことや、簡単に不特定多数の学生に販売できるようになったことが、この問題の背景にありそうです。

山内 祐平

2012.02.02

【読書感想文】ドラゴンボールとワンピース

博士課程1年の安斎です。僕は、気に入った漫画を何度も何度も読み返すのが好きです。漫画は、小説ほど文字情報が多くなく、映画ほど映像情報が多くなく、僕にとって色々な読み方で何度も読みたくなる、バランスの良いメディアなのかもしれません。

色々な漫画を読みますが、中でも僕はドラゴンボールが大好きです。ワンピースも好きですけど、やっぱりドラゴンボールが好きです。ところが、最近の小学生はワンピースは好きだけど、ドラゴンボールを全然知らないのだそうです...。時代は移りゆくのですね...。


●個人主義からコラボレーション主義へ

それも、ある意味仕方が無いことなのかもしれません。ドラゴンボールとワンピースを比較してみて思うのは、ドラゴンボールはきわめて「個人主義」的な漫画だと感じます。強大な敵にぶちあった時に、その問題を解決する方略はたいてい「修行をして個人の能力を高める」ことです(たまに、元気玉のような奥の手にも頼りますが)。しかも、多くの戦闘は1対1です。いろいろ苦戦するけれど、最終的に敵の戦闘力を上回った悟空が登場して、一時的に共闘した仲間は用無しになり、タイマンで悟空が相手を倒す、というパターンで物語が展開されていきます。ラストバトルでの悟空の「一対一で勝負してえ...待っているからな...オラももっともっと腕をあげて...またな!」という台詞からも、個人主義的な信念が読み取れます。

一方で、ワンピースはとても「コラボレーション主義」的な漫画ですよね。海賊という設定がゆえ、船長、航海士、コック、船医...など、役割分担が明確であり、仲間との助け合いや絆が重視されており、コラボレーションしながら問題を解決していくことが前提になっています。ドラゴンボールとは対照的に、個人が修行をするシーンもほとんど出てきません(最近になってようやく出てきましたね)。

近年主流である、創造性や問題解決を「天才的な個人」によるものではなく「コラボレーション」を前提に考えるキース・ソーヤーのグループジーニアスの考え方を想起させます。


●個人のパフォーマンスは社会的に評価される

また、この2つの漫画の違いは、個人の能力の評価方法についても読み取る事が出来ます。

ドラゴンボールの場合は、おなじみの「スカウター」を用いて、個人に内在する「戦闘力」を数値で測定する形で個人の能力が可視化されています。戦闘においては相手との相性とか時の運とかもあるだろう...と思うのですが、それでも戦闘力という絶対の基準があり、それを高めることがドラゴンボールというゲームで勝つ唯一の手段になっている。戦闘力42000では、戦闘力53万のフリーザには絶対に勝てないわけです。そこがシンプルで面白くもあるのですが。

一方でワンピースはというと、「悪魔の実」という個性的で特殊な能力をベースに世界観が設定されており、戦闘において相性や連携の要素が重要になっています。だから、戦闘力のような絶対的な基準で個人の能力を評価しにくい。そこで、「懸賞金」という指標で個人の能力が間接的に評価されているのがワンピースの特徴です。その個人がどれだけ強かろうが、社会的に何もしなければ懸賞金はゼロです。ところが、3億ベリーだった海賊が、大きな事件をやらかすと、実力に関わらず途端に懸賞金が4億ベリーになったりする。つまり、その海賊がどれだけ強いかではなく、どれだけの事を成したのか、という観点から社会的に評価されるシステムなのです。

創造性は個人に内在するものではなく社会的な相互作用の中でしか判断できない、というチクセントミハイの創造性のシステムモデルを想起させますね。


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そういうわけで、創造性や学習について研究している観点から比較しても、ワンピースはドラゴンボールに比べてとても現代的な価値観で構築されている漫画だなあと思うのです。

僕はコラボレーションの研究者なのに、なんでドラゴンボールの方が好きなんだろう...と、ここまで書いて疑問に思ってしまいましたが笑、たまにはそんなことをあれこれ考えながら漫画を読むのも、一つの読書の方法ではないでしょうか。

[安斎 勇樹]

2012.01.29

【読書感想文】学び、生きること

みなさま、ごきげんよう。
修士1年の早川克美です。今週の記事を担当させていただきます。


「旅において出会うのはつねに自己自身である。自然の中を行く旅においても、我々は自己自身に出会うのである。旅は人生のほかにあるのでなく、人生そのものの姿である。」

これは哲学者・三木清の言葉です。この言葉の意味を最近あらためて考えています。すべての出会いや分岐点は、決して受け身ではなく、自らが選び定めてきたことなのだと感じます。自己効力感はもとより、後悔や反省も弱い自分の選択に他ならず、どんな道をどのような足跡を残してきたかは、まさに自己自身であります。そして、私は、どう生きていくべきか、について幼い時から何故か(笑)ずっと悩んでいます。

ここに、これまでの人生で何度となく読み返した本があります。最初に三木清を引いておいて、節操がないと思いますが、ずっと憧れている人間の生き方があります。あくまでも作品の中のその人物の生き方です。

司馬遼太郎著「花神」の主人公、大村益次郎、その人です。

大村益次郎は、日本近代兵制の創始者であり、高杉晋作の没後に、奇兵隊を倒幕に向け再編成し、大政奉還後に発足した官軍における事実上の総参謀を務め、戊辰戦争の勝利に貢献し明治維新確立の功労者といわれた人です。
周防国吉敷郡(現在の山口県山口市)の百姓に生まれた村田蔵六(後年大村益次郎と改名)は、新しい蘭学・洋学を学びたい一心で郷里を発ち、大坂適塾に緒方洪庵らを師として研鑽を積み、抜群の成績を上げ塾頭にもなりました。医師として故郷防長に戻った蔵六でしたが、ずば抜けて洋書を解読し、著述もできた彼は、様々な出会いによって、四国宇和島藩の軍艦建造に招かれ、それを機に洋学普及のため、江戸で私塾「鳩居堂」を開き、幕府の研究教育機関(蕃書調所のち開成所)でも出講するようになります。ただ、人と交わるのが不向きな蔵六は、出世をしても自らを売り込むことはせず、その45年の一生を愚直なまでに「技術者」でありつづけました。彼の一生はまさに技術者としての旅そのものだったと感じます。

自らの出来ること、なすべきことのみを見据え、芯を持って生き抜くこと、初めてこの本を読んだ高校生の時、その貫ききった生き方に美しさを見、震えたことを今でも覚えています。少し先の未来を予見しながら、ひたむきに学び続けた益次郎の生き様を、潔く美しいと感じたのです。と、同時に、多感な年頃の自分には、どうして男に生まれなかったのだろう、女でどこまで貫ききることができるのだろうか?と不透明きわまりない将来に絶望したりしたのは懐かしい感傷です。もちろん、今は女性として生まれたことに後悔はありません。(男女雇用機会均等法施行初年度の年代なので、現在20代の方達には想像もしないことかもしれません。苦笑)
話がそれましたが、とにかく、美しい生き方に憧れ、何か迷うたびに大村益次郎を思い返すという奇妙な癖がついてしまったほどです。なのに、益次郎の年齢を超えた自分は、まだまだ迷い多き道にいます。優秀でもない平凡な自分にとって、大きな功績を残すことは大それた望みであり、もちろんそこに目標を置いてはいません。ただ、自分の芯を持ち、貫いて生ききることができれば、そうありたいと、日々を重ねています。

もうひとつ、この本で私がワクワクしたのは、大阪「適塾」のさわりでした。
適塾とは、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾です。後に現在の大阪大学へと発展していく適塾、元来は医学、医療を教育する塾でしたが、とても学際的な学びの環境にあったようです。青雲の志熱き若者である塾生たちにとってはオランダを通じてもたらされる最新の知識、技術には一々驚くものがあったのでしょう。関心の赴くままに、医学によらず各種の本を貪欲に読んだようで、判らぬ言葉の意味を探して、適塾に一冊しかなかったヅーフ辞書を奪いあうように利用したため、辞書をおいた部屋はヅーフ部屋と呼ばれ、明かりが消える間がなかったそうです。塾生たちの勉強ぶりはすさまじかったようで、福沢諭吉にして、自伝の中で「凡そ勉強ということについてはこのうえにしようもないほどに勉強した」と述懐しているほどです。こうした自由闊達な塾風が、幕末から明治初期にあって日本の近代化の各分野で活躍する多様な塾生を数多く輩出し、その塾生には、福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内などがいます。
東北から九州まであらゆる地域の若者達がめざし、学んだ適塾。どんな対話がなされていたんだろう、それぞれの塾生はどのように成長していったのだろう、どんなシステムだったんだろう。あぁ、行ってみたいなぁ、観察したいなぁと夢想します。

私が大学院に入り、最初に感じたことは「あ。適塾だ」。そう、今、自分がいる環境はまさに現代の適塾といえるべきものでした。多様な興味・関心を持った学問の徒がそして師がそこにはありました。とてもうれしかった。

もうすぐ私の大学院生としての最初の1年が終わろうとしています。想像以上に厳しく辛かった。でも、それ以上に楽しく興奮することが数え切れないほどにありました。学びをあきらめないで精進しようと思います。
思考は柔軟に。これは益次郎が技術を積み上げていく過程で、とてつもなく柔軟に様々なことを吸収していたことを、凝り固まった自分の思考への戒めとしたいと考えます。
志は強く貫けますように。逆境にびくりともせずに歩み続けた益次郎の生き方を、私なりに追っていきたいとのぞんでいます。

「人はそのひとそれぞれの旅をする。人生そのものが実に旅なのである。」
最後にふたたび三木清の言葉を。

学び、生きる私の旅はどうやら相当鈍行のようです。そして、かなり美しくない。納得するのにいちいち躓きますが、憧れを胸に、一歩一歩進んでまいりたいと思っています。


読書感想文?ではないような内容になってしまいましたが、1年を振り返る節目でもあり、自分を奮い立たせるために書かせていただきました。

寒い日がまだまだ続きますが、みなさまにはくれぐれもご自愛くださいますよう。
拙文におつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
"人生論ノート"三木清、新潮文庫
"花神"司馬遼太郎、新潮文庫

2012.01.25

【エッセイ】電子「教科書」という呪縛

AppleからiBooks2とiBooks Authorが発表され、教育の情報化が本格的に進展するのではないかという期待もでてきていますが、アメリカの専門家の中には異論もあるようです。

教育技術の専門家は(教科書というコンセプトが古い、価格的に課題がある、ソーシャルでないなどの理由から)AppleのiBooksに懐疑的

確かにiBooks Authorはよくできたツールですし、iBooksでマルチメディアを埋め込んだ教科書が安価に流通すれば市場は活性化すると思います。これによりiPadの中等教育への普及は進むでしょうし、Apple製品を人数分そろえられる財政的に豊かな学校には魅力的な発表でしょう。
その点をふまえた上で、さきほど紹介した記事の最初のパラグラフにある「これは以前流行したCD-ROMのインタラクティブマルチメディア教材と何が違うのか」ということについては考えておく余地があります。
今から20年ほど前、パーソナルコンピュータが本格的に映像や音声を扱えるようになったときに、CD-ROMにおさめられたマルチメディア教材が作られました。これらの教材には一定の教育的効果があることは研究により確認されていますが、「教科書の再発明」というほどのインパクトが残せなかったことも事実です。
一般ユーザーがタイトルを制作できるようになったり、流通システムが確立することには意義がありますが、それだけでは力不足なように思います。
記事にもありますが、我々はそろそろ近代教育システムの中核を担った「教科書」というメタファーについて再検討してもよいのではないでしょうか。分散したリソースを有機的につなぎ、ソーシャルな対話の中で学べるようになった現代の情報環境の中で、本当に現在の電子書籍的な形が教材として最も優れた姿なのかどうか、考えるべき時期に来ているのかもしれません。

山内 祐平

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