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2012.03.24

【M2の研究計画】PBLにおけるチームパフォーマンスを向上させる座席のレイアウトに関する研究

皆様こんにちは。今週のブログを担当させていただきます。いよいよ修士2年目に入りますので、研究の大体の方向・構成を決める時期になりました。早速ですが、研究について少しご説明いたします。
タイトル
PBLにおけるチームパフォーマンスを向上させる座席のレイアウトに関する研究

アブストラクト
近年、大学教育においてPBL(プロジェクト学習)が注目されている。本研究はPBLの核となる「製作」セッションに着目し、製作を行う同チームの各役割を担当するメンバーがよりよく各自の役割を果たし、優れたチームパフォーマンスを達成するために、チーム内の座席のレイアウトについて研究を行う。具体的には、PBLの「製作」セッションを実験を通して行い、他条件をコントロールした上で、異なったパターンの座席のレイアウトを試すことを通して、各パターンでのチームパフォーマンスを評価しながらPBLを支援できる座席のレイアウトに関して提案をすることを目的としている。

【背景】
近年、PBL(project based learning)は大学教育で色々と注目されています。PBLに関する具体的な操作方法やそれが順調に進めるための教員おいび学生が注意すべき点についても、文献と実践の両方で盛んに研究されてきました。しかし、PBLは比較的に新しい教学形式として、その核となる「製作」セッションまでに注目し、「製作」セッションで起こった「学び」を向上させるような研究はまだまだ少ないです。本研究は、PBLの「製作」セッションにおけるチームパフォーマンスを向上させるために、物的環境のデザインにフォーカスすると設定している
【研究の着眼点】
このような背景を踏まえ、本研究ではPBLの「製作」セッションにおけるチームパフォーマンスを向上させるための家具のレイアウトに着目しています。
【目的】
PBLの「製作」セッションにおけるチームパフォーマンスを向上させるような家具のレイアウトを提案することを目的としています。
【研究の方法】
PBLの「製作」セッションを実験を通して行い、他条件をコントロールした上で、異なったパターンの座席のレイアウトを試すことを通して、各パターンでのチームパフォーマンスを評価しながらPBLを支援できる座席のレイアウトに関して提案をする。
【今後に向けて】
4月に予備実験を行う予定です。それまでに予備実験の詳細をデザインし、様々な準備をしておく予定です。予備実験の結果を踏まえて、さらに研究のコンテンツを修正し、本実験に向けて、蓄積すべきデータ、情報と知識をきちんとマスターします。

今年もよろしくお願いいたします。
M1 呉重恩

2012.03.15

【M2の研究計画】親のメディアの育児情報活用に関する研究

皆様こんにちは。今週はM1の河田承子が担当させていただきます。

早いもので入学から1年が経とうとしています。私にとってこの1年は怒濤の年でした。課題に追われる毎日に、自分は乗り越えられるのだろうかと不安に思う事が度々ありましたが、諦めなかったお陰で精神的にも肉体的にも大きく成長できたのではないかと思います。
研究についても大きな変化がありました。入学当初は育児情報に対する親のメディア・リテラシーを高める研究がしたいと考えていましたが、研究を進めるうちに、親の育児情報活用の現状を明らかにすることに興味が移り、これを研究のテーマとすることにいたしました。

では、どのような研究をしていくのかをご説明させていただきます。

研究テーマ
親のメディアの育児情報活用に関する研究

背景
育児情報は、かつては近親者や近隣の人々を通じてパーソナルに入手されるものであった。しかし、1969年に育児情報誌「ベビーエイジ」が創刊されて以降、1980年代頃からは育児雑誌が主な情報提供源となり、さらに2000年頃からはネットが情報の入手先として大きな役割を果たすようになってきました(外山ほか 2010)。中でも、早期教育がメディアで頻繁に取り上げられており、それらの情報を集めて子育てに活用する親は増加している。このような、メディアのメッセージが親の行動に影響を与えることは明らかになっている一方、親が育児情報をどのように子育てに活用しているのかに関する研究は行われていないのが現状です。

研究の着眼点
このような背景を踏まえ、本研究では親の育児情報の活用に注目します。これまでに行われている研究では、親の育児情報源について調査したものはあります。しかし、収集した情報を子育てにどのように活用しているのかまでは明らかにされていません。

目的
メディアの早期教育情報を、どのような親がどのように活用しているのかを明らかにする。

研究の方法
量的調査を行い、情報源・情報活用・心理的要因・社会的要因について調査します。そして、親が情報活用を「継続したのか」「継続しなかったのか」の二つのケースに分け、どういうタイプの親が「継続しているのか」「継続していないのか」要因を分析したいと考えています。

今後に向けて
研究方法などの課題は山ほどありますが、親に育児情報の上手な使い方を提案できるよう、1つ1つ丁寧に向き合って研究を進めていきたいと思います。
今年もよろしくお願いいたします。

M1 河田承子

2012.03.13

【今年を振り返る】暗黙知の壁:自転車に乗れない私


みなさま、ごきげんよう。修士1年の早川克美です。
今回のテーマは【今年を振り返る】。

実はこのテーマ、憂鬱です。うーむ。むしろ振り返りたくない。
しかし、それでブログを閉じるわけにはまいりません!
憂鬱の理由を明らかにし、1年を総括することで、前に進めるというものです。
苦々しい思いで、社会人大学院生の修士課程初年度をふりかえりたいと思います。

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この1年は、大学院という研究の共同体に存在する「暗黙知」との闘いであったといえます。ご存知の通り、「暗黙知」とはハンガリーの哲学者マイケル・ポランニーが提唱した概念で、主観的で言語化することができない知識、言語化して説明可能な知識(形式知)に対し、言語化できない、または、たとえ言語化しても肝要なことを伝えようがない知識のことです。「暗黙知」の例としては「自転車の乗り方」があります。つまり、自転車を乗りこなすことはできるけれど、その乗り方について、どのように操作するのか、明示的に言葉で語ることはできない、というものです。個人がもつ知識には、言葉で表現できる部分と、言葉で表現できない部分とがあり、前者よりも後者のほうが多くを占めています。ポランニーはこの後者を「暗黙知」とよびました。

研究を進めていく上での作法と言いましょうか、その思考法は、学部から学んできた他の方には体得した「暗黙知」でした。ゼミナールでみなさんから様々なコメントをいただいても、言葉は確かに聞き取れるのに、意味として自分の中にストンと入ってこない。そう、まさに私は「自転車に乗れない人」であり、転びまくる日々を重ねてしまいました。

誤解があってはいけないので、ここではっきりさせておかなければいけないのは、山内研究室のゼミナールにおいては、研究における「暗黙知」を形式知化して、共同体全体で共有していくことによって、より創造的な知を育むしかけがたくさん用意されています。先輩のファシリテーターによる研究の方法論についてのサポートや、春・夏に開催される合宿での学習プログラムなど、他にも日常の様々な場面で充実しています。このブログもそのひとつですね。

話を戻しますと、この恵まれた環境とシステムの骨格に感動し、なるほど!と理解できるのに、自分のこととなると「?」マーク満載となる始末。山内先生をはじめ、みなさんの貴重な時間を使わせていただいているのに、なかなか理解できない自分が悔しく、申し訳なく、仕事でも泣いたことがなかったのに、何度も涙が出てしまう情けない時間が流れていきました。

原因を探していくと、実にシンプル。
私は研究への思考法を今までの人生で経験したことがなかったのです。遙か昔の美術大学のデザイン科では、卒業に際しては作品制作のみで、みなさんが乗り越えた論文執筆という関門をスルーしてきたわけです。デザイナーとしての多くの時間は、別の暗黙知を自分に授けてくれましたが、創造性のブラックボックスを容認されているデザインの世界では、根拠を曖昧にしたままでも問題解決は実現できるわけで、研究の思考法とはおよそかけ離れていた思考が染みついてしまっていたのでした。ただ、デザインの思考プロセスと研究の組み立てには相通ずる部分も多々あり、その同異を明確にできなかったことも原因を深刻化させてしまったと思います。

しかし、しかしです。

大学院に進学し、研究の道に進みたいと望んだのは、まさにこの根拠、原理を追究したかったからに他ならず、自分の既定の枠を乗り越えない限り、先には進めないのです。

こうして、いつまでも自転車に乗れないという状況は、さらなる悪循環を生み出します。わからない、ということがわかっても、それをうまく質問に転化させていくことが出来なくどんどん硬直化していきます。硬直化した頭は、倫理的思考を持ち得ず、コミュニケーション能力も低下し、相談ベタになっていく始末。やりたいこと、知りたいことが山ほどあるのに、同じところをぐるぐるしている非生産的な状況を半年近く続けてしまいました。


...と、ここまで書いて...はたと。
振り返るほどに息苦しい独白が続いており、読みづらいかと思われます。
もうしばらくの間おつきあいください。


そして、1年が経とうとする今、頭と身体を動かし続けることでしか、この苦境を乗り越えられないのだということをやっと実感を持って理解しつつあるところです。
おいおい、1年かけてそんな基本的な事を言っているのかい?と自分で突っ込みたくなりますが、正直に「基本のき」がわかってきたところなのです。
一つ一つの可能性を丁寧に検証し、つぶしていくことで見えてくるもの。やっと、そのプロセスの重要性に気づいた、その入口に立てたように感じています。ひどい1年でしたが、ここを通る必要があったのでしょう。

とはいうものの、まだまだ大きな補助輪がないと自転車を走らせることができません。そう、自覚しています。なんてバカなんだろう、と我が事ながら笑いがこみあげてきます。でもきっと、もう泣かないで(笑)進めることができるようにも感じています。
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懺悔のような記事となってしまいました。
どれだけわからなかったのかを記録しておくことも意味があると考え、このような内容となりました。お見苦しい点、ご容赦くださいませ。

内省ばかりしていますが、一方で、ワクワクする気持ちは少しも失われていないことを最後に記したいと思います。自分が明らかにしていきたいこと、そしてそれが社会の役に立つことにつながっていくこと。残された人生の時間はそう多くはけいけれど、それにかけるだけの喜びがあると信じています。


この1年、辛抱強くご指導、支えてくださった山内先生、ファシリテーターの八重樫さん、佐藤朝美さん、助教の方々、研究室の先輩方、そして同期のみんな、ありがとうございました。
次の1年は、懺悔ではなく、みなさんと様々なことを共有し、自らも発信・実践し、その成果をここで述べられるようになりたいと思います。

拙文におつきあいいただきありがとうございました。
春はもうすぐです。
しばらくは振り返らないで歩んでまりたいと思います。

みなさまにおかれましても、良き春が訪れますことを。。

早川 克美

2012.03.11

【今年を振り返る】playfulな紙すきの時間

こんにちは、卒業間近の修士2年、土居由布子です。

山内研究室は総勢13名で香川県直島にゼミ合宿に行って参りました。

さて、【今年を振り返る】シリーズ第3回目ですが、私にとってこの修士2年目は「playfulな紙すきの時間」と言えます。

1年生の頃は、やりたいことや疑問が白いモヤのようになっていて、形にすることができませんでした。2年生の6月になって、NHKクリエイティブライブラリーの利用者(投稿者)の方をインタビュー調査することになり、そこから少しずつ紙すきのように、私なりに一生懸命に、そしてできるだけ楽しみながら形にしていったという感じです。

自身の研究で一番楽しかったことは、やはり15名の方のインタビュー調査でした。
NHKクリエイティブライブラリーでの制作体験を通してどういった学びが起きているのかを調査するのが私のミッションでした。インタビューからは予想以上に「気づき」や「学び」を見つけることができ、更には、NHKクリエイティブライブラリーを自身のリハビリに活用されたり、入院中の子どものための訪問教育に活用されていたり、宇宙の勉強会に活用されていたりといった事例、ドラマを聞かせて頂くことができました。またNHKクリエイティブライブラリーで映像制作を体験したことがきっかけで、コマ撮り映画に挑戦するようになった少年や百人一首の句をイメージした作品を何十作品も作るようになった少女が語ってくれたことは、私に元気をくれました。


修士論文の執筆は確かに大変でしたが、大まかな章立てから始まり、どこに何を書くのかが見えてくると、パズルのような感覚で嬉しく感じました。自信はなかったけれど、それでもアンケート、インタビューで協力して頂いた方々の声や、この1年ファシリテーターとして支え続けてくれた佐藤さん、山内先生はじめ、山内研究室の皆さんのおかげで、楽しく最後まで執筆することができました。

4月からは社会人になり、研究の世界から少し離れてしまいますが、研究の課程にいなくても、今いる環境のもとで、「見出すこと」「学ぶこと」を大切にしていきたいと思います。
大学を卒業し、1年の留学を経て、東大に入り、山内研究室という素敵な環境、人に恵まれてきました。そういった環境に感謝しながらも、どこにいてもやはり「自分次第」なんだということをつくづく感じました。

この紙すきは、修論だけでは終りません。今後も、紙すきのごとく、「今」を楽しみながら、学び続けて行きたいと思います。

皆様この2年間本当に有難うございました。

【修士2年 土居 由布子】

2012.03.06

【エッセイ】マルチタスク環境と学習

2月末にミレニアル世代(1980年から90年代生まれで2000年代に社会参画する世代)の認知スタイルの未来に関する、アメリカの識者の予測についてのレポートが公開されました。

ほとんどの識者が、2020年には多種多様なインターネットデバイスによって同時に多数のことを行う「マルチタスク」が当たり前になる未来を予測していますが、そのことが肯定的な未来をもたらすのか、否定的な未来をもたらすかについては意見が分かれています。

肯定派はマルチタスクによってより幅広く深く学べるようになると考え、否定派は情報に振り回されて終わるだろうと予測しています。

マルチタスクが学習に与える影響に関する研究は今までにも行われてきました。脳機能的にマルチタスクを苦にせず行う能力を持つ人たちは2%程度しかいません。残りの人たちは、シングルタスクを切り替えることによってマルチタスク的な行動を行っていると考えられます。
人間の注意資源や作業記憶には限界がありますので、負荷の高いマルチタスクを行うと個別の課題遂行が妨げられます。

例えば、宿題をやっているときにFacebookで友達と会話すると、成績が下がるという研究があります。この研究では宿題とFacebookでの会話を別の時間にすると成績が下がらないことも明らかになっていますので、Facebookに問題があるのではなく、高度な思考とコミュニケーション行為という認知的負荷の高いマルチタスクを行うことによって、個別の課題遂行がうまくいかなくなったと考えられます。

これだけ見るとマルチタスクはやめた方がよいように見えますが、事態はそう単純でもありません。同時に行う課題によっては相互作用が正の方向に働く可能性があるからです。
Facebookの事例で言えば、Facebookでイベントを作ったりコメントをつける活動は高い成績、ゲームやチャットは低い成績と関係することが明らかになっています。

Facebookで宿題と全く関係のない活動をすればマルチタスクは負荷として働きますが、関連する質問をしたり議論をする活動であれば、学習を加速する方向に働きます。オンラインで一種の協調学習が起これば、学習に対してはポジティブに働きます。

これからマルチタスクをすることが当たり前の時代が来るのであれば、新しい世代にマルチタスクに関する学習方略を教えることも選択肢に入ってきます。例えば、次のようなものです。

・集中しても乗り越えられるかどうかわからない高度な課題に対しては、マルチタスクはしない。
・マルチタスクをする場合には、学習課題に関係しない負荷の高いタスクを避ける。
・別のチャンネルを学習課題の遂行に有効に活用する。(質問をして帰ってくるまでの間を仮説の検討に使うなど)

情報爆発によって、情報量に対する個人の時間は慢性的に不足しています。このような状況では、個別課題のパフォーマンスが0.7に落ちても同時に行うことによって1.4のアウトプットを確保したい時もあるでしょう。ミレニアル世代がそういう時代に生きていくことを考えると、自分の限界を知りつつ、マルチタスクと上手につきあうことを学ぶことが必要になってきているのではないでしょうか。

山内 祐平

2012.03.02

【今年を振り返る】思っている事を形にする

 皆様、こんにちは。修士2年の柴田アドリアーナと申します。
 学生がこの1年間について振り返る、【今年を振り返る】シリーズの第2回をお送りいたします。

 ちょうど一年前に書いたブログの記事を再読し、なぜか「HardFun - 苦楽しい」という言葉が何回も書いていました。修士の一年は確かに授業や研究、いくつかの活動に取り組んで、楽しく一年を過ごしました。修士2年はどんな一年だったかと振り返ると、「HardFun」というキーワードが再び登場します!


思っている事を形にする

 この一年間で、多分、一番苦労したステップは教材のコンテンツを決める事だったと思います。修士一年で調べた「複言語・複文化主義」「Fifth Dimension」などの概念をデジタル日本語教材にどのように活用できるかについて長く悩んでしまいました。
日本語を教えるだけではなく、子どもたちの母語(ポルトガル語)とブラジルの文化を保ち、日本の文化を理解させることが目的でした。また、幼稚園年長から小学校一年生に対して、どんな内容がふさわしいか、どんなものに興味を引かれるのでしょうと思いながら教材をデザインしました。
 このプロセスを達成するために、研究ファシリテータの高橋薫先生と教材のスクリプトを何回もやり直しながら、進みました。また、幼児に関する学習環境デザインを研究している助教の佐藤朝美先生からも沢山のアドバイスを頂き、11月にやっと教材を完成させました。そして、11月の終わり頃に茨城県にあるブラジル人学校でユーザーテストを実施しました。
 12月になると論文の執筆で精一杯でした。この2年間で調べて来たこと、観て来た事、やって来た事などの情報を整理し、研究のロジックに意識しながら執筆を進み、「在日ブラジル人児童を対象としたデジタル日本語教材の開発」という題目で一月に修士論文を提出しました。


〜*〜*〜


 教材の開発を進むと確かに「楽しい!」「もっとやりたい!」と言う気持ちになります。 教材の完成が遅くなって、急いでユーザーテストを実施したことに反省しています。ユーザーテストを実施していたとき、いくつかの改善点が明らかになり、デジタル教材としていくつかの使用方法の可能性もみることができました。
修士論文の最後に書いたように、在日ブラジル人児童は、日本とブラジルの社会の架け橋となる可能性を持っていると思います。そのためには、言語や文化の違いを超えて、両者に習熟していく基盤を幼い頃から育む必要があると思います。教材の開発だけではこれを果たすことはできないものの、現在のデジタルテクノロジーは両者のコミュニティーをつなげる可能性を秘めていると思います。本研究がそのつながりとなる一つのデジタル教材になればと思います。
 この研究を可能にしてくれたのは指導教員の山内先生のおかげです。3年前、外国人研究生として初めて山内研に入ったとき、学習環境デザインについて何も知りませんでした。はじめての飲み会、先輩に「ConstructivismとConstrucionism」の違いについて聞かれたとき、びっくりしました。
*あの時「Constructivism =ソ連における芸術運動」のことしか思い浮かべなかった。
 このように山内研に受け入れてくれて本当にありがとうございます。
 そして、山内研究室のみなさま、いつも貴重な意見やアドバイスをいただいて、本当に感謝しています。

 来月、ブラジルに帰国する事になりました。これからは新しい道を歩み、この3年間に得た経験を宝にして、学んだ事を生かしたいと思います。

 皆様、ありがとうございました。


 【柴田アドリアーナ】

2012.02.28

【エッセイ】創造性と専門性

企業のイノベーションブームに触発された教育における創造性育成論議について、重要にもかかわらずあまり検討されていないテーマがあります。創造性と専門性はどう関係しているのかという問題です。

教育の文脈では、専門性と創造性は対置的に使われることがあります。特に大学教育では、従来の専門教育に対する教育形態として創造的活動を含むプロジェクト学習に言及する時もあり、転移可能性の高い「新しい教養教育」として位置づけられています。

確かに、教科書に記述できるレベルの専門知識についてはアップデートが激しく、逆に変わらないものは、流通することで価値が下がるという現象が頻繁に見られます。ただ、だからといって創造的活動に専門性が必要ないかというと、そんなことはないのではないかと考えています。

イノベーションに関する議論でよく引き合いに出されるiPadを例に考えてみても、生み出したAppleという企業は情報技術に関する専門家集団です。他の企業と目の付け所は違いますが、全く違う領域の専門家集団やアマチュアが作り上げたものではありません。

価値創発的な事例についてプロセスを見てみると、教科書レベルを超えた経験知が多様な刺激によって異化され、そこからブレイクスルーが生まれている例が多いように思います。

人間はなんでもいいから新しいアイデアを出せと言われれば、色々話すことはできます。実は、出たアイデアが価値につながるか直感的に判断することが難しいのです。

このプロセスを支えているのが、さきほど述べた「教科書レベルを超えた経験知」であり、エキスパートが持っている暗黙知ではないかと考えています。アイデアの検討の際には、それが現実にうまく機能するかどうか頭の中でシミュレーションすることが必要ですが、エキスパートは本人にも理由は説明できないけど、「これはうまくいく」「これはうまくいかない」と感じることができます。そういう意味で高いレベルの専門性と創造性は密接に絡み合っているのです。

創造的な活動を含む授業やワークショップは、このことに十分配慮しないと、「ままごと」に終わってしまう危険性があります。子どものうちは、専門性と接続していなくても、創造的活動の楽しさややりがいを知ること自体が目標でもいいと思いますが、大人になれば、社会に出てから何を生み出せるかについて問われるようになってきます。さきほど述べたようなエキスパートの専門知はすぐに身につくものではないので、学生以外に活動に直結した専門性を持った社会人やその専門性を相対化できる別の専門性を持った社会人を含めてチームを構成するなど、専門的知識と創造的活動をつなぐ仕組みが必要なのではないでしょうか。

山内 祐平

2012.02.26

【今年を振り返る】1つのことに集中して取り組むということ

みなさま、こんにちは。修士2年の菊池です。
今週からブログのテーマが変わり、学生がこの1年間について振り返る、【今年を振り返る】をお送りいたします。

この、【今年を振り返る】というテーマは、山内研ブログで年度の終わりに必ず扱われるテーマです。もちろん、昨年度のこの時期にも同じテーマでブログを書きました。修士1年の一年間は、自分の研究以外にも多くの授業や共同研究プロジェクトなどがあり、複数のプロジェクトを並行して進めた年でした。修士2年の今年は昨年とは大きく異なり、1つのことに集中して取り組む年となりました。

熱心に取り組んだ1つのこととは、もちろん修士研究です。「今までに、こんなに多くの時間をかけて1つのことに取り組んだことはない!」とはっきり言えるくらい、十分に時間をかけて取り組みました。

どのようなことをしたのかと言いますと、観察調査に関わる一連の手続きを最初から最後まで経験しました。具体的には、研究の目的を定め、調査の方法を決定し、会場を押さえ、参加者を募集し、調査の手続きを決め、調査を実施し、集めたデータを分析し、修士論文を執筆しました。これらのプロセスは、実際にはより小さなプロセスへと分割できますが、大枠で説明すればこのようなことを行ったと言えると思います。2年前に卒業論文を書いたとはいえ、これらのプロセスの中にあるほとんどことは、自分が今までに経験したことがないことでした。いま振り返れば、「こんなに多くのことを自分で決めて実施することができて、本当に良い経験をしたなあ。」と言えてしまいますが、実際にやっていた当時は、「これ、どうすればいいんだろう。僕にできるのかなあ。」などといったことを毎日のように考えながら、1つ1つのプロセスを自分の頭と体を最大限活用しながら進めていました。

それでは、修士論文を書き終えたいま、このような「1つのことに取り組むこと」について、僕がどのように考えているのかということを記して、この記事をまとめたいと思います。いま修士論文について振り返るとすれば、やはり先ほども書いたように、「必死に集中して取り組んでよかったな。」という思いが頭の中に浮かびます。しかし、1つのことに集中するということは、逆に言ってしまえば、他のことにはまったく集中しないということです。ほとんどのことに自分の意識を割かないという意思決定は、ある意味では立てていたアンテナを一旦すべて壊してしまうということでもあるため、怖くてなかなかできないことです。それでも、ある程度の期間を使って、1つのことを集中してやらなければできないことがあるのだということが、なんとなくですが、この1年間の経験を通してわかるようになりました。このような、1日や1週間という短い期間ではない、自分をコントロールしながら行う必要のある中長期間の集中が、物事の取り組み方に対する新たな経験を僕に与えてくれたと思います。

話は変わりますが、この記事が、僕が書く最後の山内研ブログになります。驚くほど早く過ぎていったこの2年間は、本当に多くの方々のご支援によって成り立っていた日々でした。最後に感謝の言葉で締めさせていただきたいと思います。みなさま、ありがとうございました。

2012.02.22

【審査結果】Microsoft 教職員 ICT 活用実践コンテスト

第4回Microsoft 教職員 ICT 活用実践コンテストで審査員をさせていただきました。
受賞された皆様、おめでとうございます。

このコンテストの受賞者はニュージーランド・オークランドで開催されるマイクロソフト Partners in Learning Asia & Pacific Forum の国際教育イベントへの参加旅費が支給され、アジア・太平洋各国の教育関係者と経験を共有・交流する機会が得られます。

このような教員の経験に資する社会的支援が今後も増えていって欲しいものです。

http://www.microsoft.com/ja-jp/education/ict/mtl/common/mobt04.aspx

山内 祐平

2012.02.18

【読書感想文】ダーウィンの議論方法

みなさまこんにちは。
【読書感想文】シリーズのラストは博士課程2年の池尻 良平がお送りします。

 僕が紹介するのはダーウィンの『種の起源』に見え隠れする、ダーウィンの議論の姿勢です。説明するまでもないですが、この本ではかの有名な「自然選択」という、当時としてはキレッキレの仮説を提唱しています。僕は生物学はド素人なのでその仮説の是非はわかりませんが、読んでいて彼の議論方法がとても僕には新鮮だったので紹介したいと思います。


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 この本では最初の方で自然選択説を説明した後、6章の「私の学説の難点」と7章の「自然選択説に対するさまざまな異論」という章において、自分の仮説に対する他者の批判をきっちり引用した上で深く議論しています。例えば7章では、博物学者のマイヴァート氏が唱えた自然選択説に対する異論やダーウィンの考えとはそぐわない突然変化説を紹介しています。


 「ほう。確かに他の仮説もごもっともだ。さて、ダーウィンはどう切り返すんだろうか」とワクワクしてページをめくると、彼は持ち前の「豊富な実例」をこれでもかと突きつけていき、自身の説では説明できるけども異論を唱える他の研究者の説ではうまく説明できないことを書き連ねているのです。


 そもそも彼の自然選択説自体、かなりの数の生物を実際に調査し、比較検討した上で出した仮説なのです。つまり、かなりの高クオリティの帰納法で生み出し、演繹的にうまく筋が通るかを何度も検討した上での仮説なので、ちょっとやそっとの批判や異論を出されてもビクともしないわけです。逆に生半可な仮説を出してしまうと、その豊富な実例の前に論破されてしまうわけです。


 この点に関してはリーキーという解説者も、「『種の起源』を読んで感心してしまうことは、ダーウィンが自分の説では説明はつくのだが、当時の従来の仮説では説明のつきにくい数々の事実や観察結果を集めてまとめあげていくというやり方の研究を積み重ねてきたことだ」と評価しています。


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僕の専門は歴史の学習方法の開発なので、自然の摂理を解き明かすアプローチとは異なるのですが、良い仮説や良い理論を作っていきたいという気持ちは同じです。実際、高校の授業を観察させてもらい、そこから帰納的に仮説や理論のヒントを得ることはあるのですが、ダーウィンに比べると見ている実例の数は全然少ないです、その上、他の高校生にも当てはまるのかを考察できる程高校の歴史学習の世界を知らないな〜と、読後に反省した思い出があります。


 頭でっかちな仮説や理論ではなく、足を使ってよく観察した上で、何百年後でも人をひきつけるような良い仮説や理論を提唱できる研究者になりたいなと思います。


[池尻 良平]

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