2017.09.22

【印象に残っている本の一節】職業としての小説家(D1 杉山)

 D1杉山昂平です.私にとっての「印象に残っている本の一節」は,村上春樹『職業としての小説家』にあります.村上がいかに小説を書いているのかその方法論を述べた本です.私は「日常生活」を描くところに彼の小説の良さがあると思っていますが,『職業としての小説家』ではその点についてこんな持論―自伝が展開されています.

「僕は親の世代のように戦争を経験していないし,ひとつ上の世代の人たちのように戦後の混乱や飢えも経験していないし,とくに革命も体験していないし(革命もどきの経験ならありますが,それはとくに語りたいようなものではありませんでした),熾烈な虐待や差別にあった覚えもありません.比較的穏やかな郊外住宅地の,普通の勤め人の家庭で育ち,とくに不満も不足もなく,とくに幸福というものでもないにしても,とくに不幸というのでもなく(ということはおそらく相対的に幸福であったのでしょうが),これといって特徴のない平凡な少年時代を送りました.」

村上は,前世代の文学者たちのようには,時代の転換による大きな悩みや,戦争のような強烈な体験をしていません.兵庫県西宮市・芦屋市の「良いところ」の子弟として日々生活してきた.だからそうした「軽い」日常生活しか自分には書けない.でもそれのどこがいけないんだ.それも小説になって良いだろう,というのが村上の意見です.


 彼の偉いところは,日常生活を書くために,それに適した文体を練り上げた点にあります.

「戦争とか革命とか飢えとか,そういう重い問題を扱わない(扱えない)となると,必然的により軽いマテリアルを使うことになりますし,そのためには軽量ではあっても俊敏で機動力のあるヴィークルがどうしても必要になります.」

そのために彼は,あえて語彙力で劣る英語でいったん執筆してから日本語に翻訳するというやり方をとり,シンプルで直截な文体を築きあげました.もし,戦争や革命を語るような文体で日常生活を描いていたとしたら,とてもちぐはぐで質の低い小説になっていたことでしょう.


 この一節に私はとても共感しました.村上と同郷で生活環境も似通っている私は,貧困や格差といった大きな社会問題にはあまり興味がもてないでいました.むしろ日常生活のリアルとして感じられたのが「アマチュア」や「趣味」であり,今はそれを深めるような学びを研究対象にしています.そんな私にとって,『職業としての小説家』は「いわゆる社会問題ではないものについても論文が書かれるべきだ」という信念を裏付けたり,「しかし,そのためには社会問題を論じるのとは別の問題設定や文体が必要だ」という技術への志向をもたらしたりしてくれました.端的に言って,この一節から勇気づけられたのです.
 日常生活のなかで人々のささやかな可能性の種をまき,発芽させていくような学び.それに注目するための理論や概念,それを支えるための学習環境デザインの実践論.こうしたものについて書いていくためには,それに適した「ヴィークル」を用意する必要があります.『職業としての小説家』にならいつつ,研究・論文においてそんな「ヴィークル」を用意することを目指していきたいと思います.

【D1 杉山昂平】

2017.09.20

【印象に残っている本の一節】貞観政要(M1 中野生子)

こんにちは。M1の中野生子です。だいぶ季節が秋らしくなってきました。大学の夏休みも今週で終わり、来週からまた後期授業が始まります。
今回も引き続き「印象に残っている本の一節」というテーマでお送りします!

■ 私が選んだ一節
私が選んだのは「貞観政要」という、唐の太宗と臣下達との政治に関する言行を記録した書物です。北条政子や徳川家康の愛読書だったとも言われています。尊敬する経営者に「貞観政要は最高のビジネス書である」とオススメいただいたのがきっかけで、苦手な漢文の書に目を通してみました。もちろん、解説付きで笑。
中でも一番印象に残ったのは、三鏡と呼ばれる一節です。

「太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可し。古(いにしへ)を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過ちを防ぐ。今魏徴徂逝し、遂に一鏡を亡へり、と。・・・其の逝きしより、過つと雖も彰すもの莫し。朕豈に獨り往時に非にして、皆茲日に是なること有らんや。故は亦庶僚苟順して、龍鱗にふるるを難る者か。・・・言へども用ひざるは、朕の甘心する所なり。用ふれども言はざるは、誰の責ぞや。斯れより以後、各々乃の誠を悉くせ。若し、是非有らば、直言して隠すこと無かれ、と。」

少し長い一節ですが、意味は「太宗はあるとき侍臣たちに語って言われた『いったい銅を鏡とすれば(姿を映して)人の衣冠を正すことができる。昔を鏡とすれば(歴史によって)世の興亡盛衰を知ることができる。人を鏡をすれば(その人を手本として)善悪当否を知ることができる。我は常にこの三つの鏡を持って自己の過ちを防いでいた。ところが今、魏徴が死んで、とうとう一つの鏡をなくしてしまった』と。・・・『彼が死んでから後は、たとい過っても明らかにしてくれるものがない。我は、なんで(魏徴が生きていた)往時にだけ非があって、今日はすべて是であるということがあり得ようか。そのわけは多くの役人たちが、むやみに順従して天子の御機嫌を損なうことをはばかるからであろう。・・・臣下が言っても天子が用いないからであるという非難があるならば、我は甘んじてその責任を負うものである。しかし、我が用いても言わないのは、いったい誰の責任であるか。今後、各自がその誠意を尽くせよ。もし、悪いことがあれば、はばからずに直言して隠すことがあるな』と。」

■ なぜ印象に残っているのか
特に三鏡の三つ目、自分の行動の是非は人に言ってもらわないと分からない、人間は自分のことが一番わからないから、耳が痛いけれど正しいことを言ってくれる人をどれだけ持てるかが重要というメッセージに、どの時代も人間の本質は変わらないのだなと思ったのが印象に残っています。
魏徴のように何百回も言い続けてくれる人(友人・仲間・同僚等)を得るには、常に耳の痛いことを謙虚に受け入れる姿勢を持ち続けなければいけないなと痛感した一節でもありました。

■ まとめ
この一節のみならず、貞観政要の中での太宗と臣下のやり取りは、言葉は違えど似たような、そして重要なメッセージが様々な表現で収録されています。人間は同じことを何回も何回も言われなければ分からない、月に1回良いことを言われても伝わらない、しかし同じ表現で言われても飽きて聞かなくなるから色んな表現で具体例を出しながら伝えていく必要がある、そんな学びを得た本でした。
また太宗と臣下の会話は、唐の時代のものなのに、現代の人間が読んでも通じるものばかりです。人間の本質は古代よりあまり変わらない、だからこそ昔から良本と言われる本を読む価値は多分にある、と思い知らせてくれて一冊でもあります。
人の学びについて考える時、どうしても自身の経験から語ってしまうことがありますが「人間は古代より本質的に変わらない」という点を踏まえると、自分が研究しようとしている「学び」について、その分野の論文レビューのみならず100年単位で人間がどういう思想のもとにどういう学びを得ようとしてどういう失敗をしてきたのか、そういう観点で見ていかなければいけないんだろうな、と思いました(遠い目笑)。
貞観政要は一節一節読み進めるだけでもためになる本です。古典に興味がある人はぜひ読んでみてください。

【M1 中野生子】

2017.08.27

【印象に残っている本の一節】 スイートリトルライズ (M1 宮川 輝)

こんにちは。山内研究室・修士1年の宮川です。
蒸し暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
今回のブログテーマは「印象に残っている本の一節」になります。


■ 私が選んだ一節

私が取り上げたいのは江國香織さん『スイートリトルライズ』の一節です。

この作品は、それぞれが秘密の恋をしている主人公の瑠璃子と夫の聡(さとし)が、小さな嘘を積み重ねながら進行させていく夫婦生活・そして彼女たちの心の機微をとらえた小説です。その中でも特に印象深いのは、瑠璃子が不倫相手の春夫の部屋で共に過ごすシーンです。

「今付き合っている彼女(美也子)と別れるかもしれない」と告白する春夫に対し瑠璃子は、自分と春夫は互いに「嘘をつけない関係」であることを指摘します。そしてその後に瑠璃子が発するセリフが、多くの読者にとって心に残っているであろう次の一節です。


「なぜ嘘をつけないか知ってる?
人は守りたいものに嘘をつくの。
あるいは守ろうとするものに。」


■ なぜ印象に残っているのか

この表現を初めて目にしたとき、私は「なんて人間の心の本質を捉えた言葉なんだ!」と思いました。しかし少し経ってから考えてみると「本当にそうか?」という気持ちも出てきました。

その後に瑠璃子は「あなたが美也子さんに嘘をつくように。私が聡に嘘をつくように。」と続けるのですが、これは素朴な発想をすれば「夫婦の間であっても嘘がないに越したことはないし、不倫相手にも嘘はつけるんじゃないか...?」といった考えにも辿りつきます。

とはいえこの瑠璃子のセリフにはどこか不思議な説得力があり、何度も自分の頭の中を行き来していくうち、気付けば忘れられない言葉になっていました。


■まとめ

解釈の開かれた表現というのは文学作品における一つの魅力で、何度もその言葉を咀嚼していくうちに今まで思いもしなかった考え方に出会ったりすることがあります。こうした経験がある種の「学習」であることは間違いないでしょう。

たとえば数学の問題が解けるようになるといった文字通りの「学習」ばかりでなく、開かれた意味を解釈するといったような、さまざまなタイプの学習を育むことにも目を向けていきたいと思いました。

2017.08.19

【印象に残っている本の一節】盲ろう者として生きて(M2 根本 紘志)

【印象に残っている本の一節】、今回は東大初の盲ろう教授となった福島智氏による『盲ろう者として生きて 指点字によるコミュニケーションの復活と再生』をご紹介します。


■私が選んだ本と一節

福島氏は小学生時代に視覚を、そして高校生時代に聴覚を失いました。視聴覚両方を失いながらも試行錯誤をしながら、筆者は指を重ね合わせてタイピングする「指点字」(→動画)というコミュニケーション手段を手に入れます。もちろん支援者の手伝いを得ながらですが、そのおかげであまり不自由ない形でコミュニケーションが取れているといいます。
もともと見えて、聞こえていた状態からそれらが失われていく間には様々な出来事があり、様々なことを考え感じてきたはず。本書では日記などの資料を元にその過程が描かれ、考察されます。

盲ろう者としてよく引き合いに出されるのはヘレン・ケラーですが、ヘレン・ケラーと自身の体験は異なると福島氏は言います。

「ヘレン・ケラーの人生は、『覚醒』と『成長』の歩みであるのに対して、私は『喪失』と『再生』の人生を経験した」(著者まえがきより)

ヘレン・ケラーは2歳頃に視聴覚を失ったため、そこから言葉を獲得していく過程に注目が集まりました。一方で福島氏の体験は一度手に入れたコミュニケーションの手段をほぼ失い、その後別の手段を手に入れていく過程と言えます。
そんなことを考えながら本書を初めて読んだのは2012年でした。今回ブログの題材に挙げるに当たって改めて読み直したのですが、5年経つと印象に残る一節が大きく異なっていました。


・2012年に印象に残っていた一節
「人はみな、それぞれの『宇宙』に生きている。それは部分的には重なり合っていたとしても完全に一致することはない。時にはまったく交わらないこともある。このように、ばらばらに配置された存在であるからこそ、その孤独が深いからこそ、人は他者との結びつきに憧れるのではないか。智の盲ろう者としての生の本質は、この根元的な孤独と、それと同じくらい強い他者への憧れの共存なのではないだろうか。」(p.336 12-4.孤独と憧れのダイナミズム)


・2017年(今回)印象に残った一節
「『M: I君はいつおうちに帰るの? I:うーんとね、22日に帰ろうと思うんだけどね』その瞬間、私の内部で何かがスパークした。」
(p.247 10−1. 喫茶店での出来事 「指点字通訳」の始まり)


2012年の自分は盲ろう者の視点を通じて「人のあり方」のようなものに関心を抱いていたのかな、と振り返ってみて思います。この部分は谷川俊太郎氏の『二十億光年の孤独』も引用しながら力強く書かれており、自分にとってインパクトが大きかったのかもしれません。

一方で、今回気になった部分に引っかかった理由は「メディアを用いた学習やコミュニケーションをデザインすることを考える時にヒントになるのではないか?」と思ったからです。(特に意図はしていないのですが、結局学習に関する話になりますね...)


■なぜ印象に残っているのか
私たちは日々、大量の情報を用いてコミュニケーションを取り、学びます。視覚や聴覚が主ですが五感をフルに使って学ぶことの重要性も指摘されています。しかし、それらの一部が制限されたとしたら...コミュニケーションや学びの質は大きく変わるはずです。
障がいを抱える方の学習については言わずもがなですが、メディアを用いた私たちの学習でも同じことが言えるのではないか、と本書を読んでいてふと思いました。

今回取り上げた一節で福島氏は「スパーク」を感じたと言います。実はそれ以前から指点字という方法を用いて会話の通訳をするという試みは行われていました。しかし、福島氏はその通訳方法ではコミュニケーションが取れないと感じていたのです。この問題点について、取り上げた一節に続く部分では以下のように説明されています。


「盲ろうとなって私がぶつかった第一の壁は、コミュニケーション手段の確保だった。第二の壁は、そのコミュニケーション手段を実際に用いて、持続的に会話する相手を作ること。つまり、他者とのコミュニケーション関係を形成することだ。そして、第三の壁は、周囲の"コミュニケーション空間"に私が能動的に参加できるようにすること。言わば、"開かれたコミュニケーション空間"を私の周囲に生み出すことだったのである。」(p.248 10−1. 喫茶店での出来事 「指点字通訳」の始まり)


「スパーク」が起きる前に行われていた通訳は「I君は22日に帰るらしいよ」といった具合でした。この通訳と先に挙げた通訳では、受け取り手の情報が大きく異なります。実際、台本のようなやり取りとして通訳を受けることで福島氏は「そうか、I君まだ帰る日を決めてないんか」とツッコミ役として能動的に会話に加わっていくことが出来たと言います。一方で伝聞系の通訳ではそうはいかず、「ああそうか」以外の返事はしにくくなってしまいます。

ここで書かれている記述が「よくわかる(かも?)」と感じた経験が僕自身、複数回あります。
それは、スカイプなどのオンライン通話ツールを使ってグループワークに参加している時です。大学で友人数名が議論をしている際、所用で大学に行けなかった僕はスカイプを使って議論に参加していました。大体の議論は何となくついて行けるのですが、大学にいる人たちがその場でちょっと盛り上がった話題やそこに通りがかった友人との会話などが混じると途端に会話からおいて行かれてしまうことがありました。また、議論に欠席した場合は議事録などを後ほど共有してもらうことになります。その場合も議論に入っていけるようになるまで少し時間がかかります。


■まとめ
こうした時に自身が感じていた課題は「周囲のコミュニケーション空間に自身が加われていなかった」ということだったのだと思います。ICTツールが発達したおかげで「全くコミュニケーションが取れない、相手がいない(福島氏の言う第一・第二の壁)」ということはなくなったものの、その代わりに「コミュニケーション空間に能動的に参加する(第三の壁)」ということは起こり得る、むしろそれが今後メインの課題になるのではないか、とぼんやり考えています。

そうした壁は実は視覚・聴覚が不自由な方にとっては以前からあったものなのかもしれません。また、その壁を越えて日常的に人と関わり、学ぶために様々な工夫がなされてきたのかもしれません。


「盲ろうという極限にまで制約された情報のもとで生きる智にとって、最終的に智の認識とコミュニケーションを支えたものは、『感覚的情報』と『言語的情報』という二つのカテゴリーの情報による『複合的な文脈』の提供ではなかったかと筆者は考える。そして、この複合的な文脈を、新たな概念で把握し、『感覚・言語的情報の文脈』と筆者は命名する。」(p.301 11-5.視覚・聴覚を代替する複合的文脈 「感覚・言語的情報の文脈」)


視聴覚を使うことのできない福島氏にとってコミュニケーションのために使える主な手段は指先(触覚)です。しかしその手段で伝える情報を工夫することにより、限られた情報伝達手段でも能動的にコミュニケーションに加わっていくことができるということを氏は実体験をもって紹介しています。

障がいを持つ方々が...というだけでなく、私たちの日常の振る舞いにとって学びが大きい一節だと、読み返してみて改めて感じました。


本書は福島氏の博士論文を元に書かれた本でやや取っ付きにくいかもしれませんが、冗談も混じる軽快な語り口で書かれていて面白く読めますので、ぜひお手に取ってみていただければ幸いです。また、本書以外にエッセイなどの著作もあります。

【根本 紘志】

2017.08.12

[Memorable Passage from a Book] Zen Mind, Beginner's Mind (M1 Tetsuya Hasegawa)

Hi! Today I'd like to introduce a passage from my bible "Zen Mind, Beginner's Mind" by Shunryu Suzuki.

Shunryu Suzuki is a Japanese Monk who was one of the first to go to California and teach the art of Zen. Steve Jobs was one of his famous followers. Along with the philosopher D. T. Suzuki, they are understood as the "Two Suzukis" who introduced Zen to the western world.

It is the last part of this book that gave me a slight shock of enlightenment. It ends like this.


"We must have beginner's mind, free from possessing anything, a mind that knows everything is in flowing change. Nothing exists but momentarily in its present form and color. One thing flows into another and cannot be grasped. Before the rain stops we hear a bird. Even under the heavy snow we see snowdrops and some new growth. In the East I saw rhubarb already. In Japan in the spring we eat cucumbers."


How was it? You might have felt. "Cucumbers!? What cucumbers?" Yeah, that really made me blow as I was so immersed in this book and all of a sudden the book ended with きゅうり. Besides, the best season for cucumbers is Summer!

Anyway, I love this ending passage. It shows an insane level of sincerity and sensibility to the world as it goes. The flow of the Mind and the cycle of the Earth. The sadness and gratefulness towards being are miraculously crystallized here.


So, this was my selection of a memorable passage. What is yours?

M1 Tetsuya Hasegawa

2017.07.28

[Book Passage That Left an Impression] Nakagami, Japan: Buraku and the Writing of Ethnicity (M2 Lian)

Konnichiwa! This is M2 Lian Castillo, this will be my final blog entry as a master's student for University of Tokyo/Yamauchi Laboratory. Time flies and parting is such sweet sorrow. My book excerpt will be of personal significance, but may also be relatable to people from all walks of life.

Last year on my second semester as M1, I took some number of elective courses to cover for delaying 2 of my major subjects for the succeeding school year. With this, I took on ITASIA125: South and East Asia Compared, wherein we discussed various "caste type" systems within India and Japan. That of which is the Burakumin community- the untouchables, if you will. As such, in a very academic manner, one passage that appropriately describes /left an impression/ to me is the following from which I took a photo of on said date:

[05/21/2016] Time of Reading:

Nakagami would describe how his family spent the money for school supplies "given by the city, or the prefecture, or the country" for their daily needs. He describes being asked at school to draw a picture with a crayon and realizing his mother didn't know that was part of the school curriculum. He raced home to get money to buy crayons, and, when it came up short at the stationary store, the elderly shopkeeper let him have the crayons at a discount. He writes that from that day forward, the "cheap crayon" is the stuff his literature consists of, even to the present day.

Wherein I respectively captioned: Struggle is beautiful.

This passage is an excerpt from one of my assigned readings on Japanese Buraku author, Nakagami Kenji. It is quite a long passage in itself, but I deeply appreciated how a simple narrative could draw together a very vivid account of how we should not play victims to circumstance. Rather, the constant and upward progress towards a better standing is something that is truly even more so, deeply admirable.

I would like to supplement this stance with a famous quote from Pokmon: The First Movie, quoting Mewtwo:

I see now that the circumstances of one's birth are irrelevant. It is what you do with the gift of life that determines who you are.

In the context of the movie, it relates less on a person's socio-economic status, birthright, or any of the seemingly worldly attributes. It was a basic trope on an entire race (Pokmon) versus the humans, who are at their worst are cruel, vicious, and malicious. However, in their humanity and imperfections, they are unpredictable with the other end spectrum: kindness, empathy, and altruism- all complement the darkness that encompass the world.

From the utterly real unfairness of things, the burakumin, down to the representation through anime, my point goes down to embracing the colorfulness of our experiences. There will be ups and there will be downs, but the contrast between the two will makes the ups all the more worthwhile. Being born with privilege might make one not want for much, but throughout my studies coupled with rich life experiences, I find that people who have something to yearn for are at their maximum fulfillment.

Conclusively, dear reader, I leave with the message that whatever your dreams and aspirations may be, keep peace with yourself. Never compare your progress with that of others, and be proud of the little things that you have accomplished- for one day, we will look back and see that they were the big things.

For one last time, signing off
Lian Sabella Castillo

2017.07.23

【印象に残っている本の一節】星の王子さま(M2 林怡廷)

こんにちは。M2の林怡廷です。
暑い日が続いていますね。花火大会の季節が来ましたが、みなさんはどこの花火大会に行きますか?
さて、今回のブログテーマは、【印象に残っている本の一節】になります。

■私が選んだ本と一節

私が選んだのは、1943年4月6日に出版されたフランスの作家・アントワーヌ・サン=テグジュペリの小説「星の王子さま(Le Petit Prince)」です。 言うまでもなく、「星の王子さま」は世界中から愛されている名作で、今までは250以上の言語に訳されてきたそうです。私自身も星の王子さまが大好きで、いろんな言語の星の王子さまの本を集めています。ちなみに現在は台湾華語版、英語版、フランス語版、日本語版を持っています(笑)

この本の中では、心に沁みるの名言がたくさんあります。

「おとなって、はじめはみんな子どもだったのだから。(でもそれを忘れずにいる人は、ほとんどいない。)」

「ものごとはね、心でみなくてはよくみえない。大切なことは、目に見えない。」

印象に残った節がたくさんありましたが、一番胸に響いたのはこの節でした。

「きみはまだ、ぼくにとっては、ほかの十万の男の子となにも変わらない男の子だ。だからぼくは、別にきみがいなくてもいい。きみも、別にぼくがいなくてもいい。きみにとってもぼくは、ほかの十万のキツネとなんの変わりもない。でも、もしきみがぼくをなつかせたら、ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる。きみはぼくにとって、世界にひとりだけの人になる。ぼくもきみにとって、世界で一匹だけのキツネになる......」
(サン=テグジュペリ「星の王子さま」新潮文庫 河野万里子訳)

キツネと仲良く遊びたい王子さまに対して、キツネはなついていないからできないと言いました。 なつくってどういうこと?と王子さまは聞きました。 するとキツネが「『絆を結ぶ』ということ」と答えました。なつかせることで、王子さまはキツネにとって特別な男の子になり、キツネも、王子さまにとって唯一のキツネになるのです。

■なぜ印象に残っているのか

この一節が印象に残っているのには、自分自身の経験と強く結びついています。なつかせたりはしないですが、人とのつながりをいつも大切にしています。

人と人のつながりはどういうことでしょうか?人間はいつでも、「意味付け」をしていると思っています。 子どもの頃から、私たちの周りには様々な人間関係が存在しています。それは、人々が互いに意味付けているからです。そうすることで、同級生、知り合い、友達、親友、恋人......もともと関わりのない人は、付き合う中で意味付けをすることで、自分にとって大切な存在になってきます。また自分も、異なる人にとって異なる存在になります。お母さんにとってはただひとりの娘であり、先生にとっては数多くの生徒の中のひとりであり、同期にとっては一緒に戦う仲間であり......。

絆を結ぶ、つまり、意味付けをすることで、人間関係が成り立つのです。そしてその絆は、時の移り変わりと共に変化していきます。強くなったり、弱くなったり、新しくできたり、消えたりします。そのような変化の中で、私たちは成長し、おとなになるだろう。

もちろん、人に対するだけではなく、物に対しても意味付けをします。意味付けをせずにものごとを理解するのは不可能です。そうすることで、自分なりの世界を構成していくのです。ただし、それぞれの環境が異なるから、この世界を違うふうに解釈するだろう。

■まとめ

この本は、何年前かはじめて読みました。今回はブログを書くために読み直しましたが、また目がうるんできてしまいました。

本の中の王様、実業家、点灯人など、様々な職業の人がいるように、みんなにとって人生の意味が違います。時々は、意味を見失ってしまいます。訳者によると、作者の分身だと考えることができるし、パイロットも作者の分身であるはずですから、星の王子さまは、作者と子どもだったころの自分との対話かもしれないです。王子さまが言ったように、人間は特急列車を乗っているのに、なにを探しているかわからないのがとても悲しいことです。そうならないため、時々初心を振り返って自分と対話するのが大事でしょう。

自分は何のために国を離れ、日本に来たのか?何のために大学院に進学したのか?叶えたい夢は何か?ちゃんと自分の目標に向かって努力しているのか?これからも、自分にとって大切な人と大切なことを忘れずに前に進みたいと思います。

今回もご覧頂きありがとうございました。

【M2 林怡廷】

2017.07.12

【印象に残っている本の一節】注文の多い学びの支援(M2 原田 悠我)

皆さん,こんにちは
山内研究室 修士2年の原田です.
いかがお過ごしですか?

 今回から新しいブログのテーマ「印象に残っている本の一節」になります.どうしてその一節を選んだのか,どんな切り口でその理由を語るのか,研究室のメンバーが選ぶ一節から山内研のメンバーの関心や思いを感じて頂けたら幸いです.

■ 私が選んだ一節

 トップバッターの私が選んだのは,宮沢賢治 「注文の多い料理店」のクライマックスで登場する一節です.この短編は猟に出かけ疲れきった2人の若い紳士が,山奥で1件の西洋料理店を見つけるところから始まります.2人の紳士はお腹も空いていたため料理店に入ることにしました.入ると扉には「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」と書かれていました.2人はこの文章の意図を「きっと流行っているから注文が多くて支度が手間取るのだ」と解釈し次に進みました.すると今度は「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落してください。」と書かれていました.2人はこの文章の意図を今度は「偉い人が来るから作法が厳しいのだと」解釈しました.このように2人は不思議な指示を次々とこなしていきます.

 そして,いよいよ今回の印象に残っている一節です.

だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家とこういうことなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが......。(宮沢賢治 「注文の多い料理店」 )

 2人は西洋料理店で西洋料理を食べさせてもらえると思っていましたが,実は自分たちが料理にされ食べられる立場だったのです.つまり,これまでの2人が従ってきた指示は,2人が思っていた意図とは文字通り180度違ったものでした.

■ なぜ印象に残っているのか

 この一節が印象に残っているのには,私の「学ぶとき」と「学びを支援するとき」の苦い経験があります.もちろん宮沢賢治が描くような180度違ったものではありません.しかし,ちょっとしたしかし重要な,指示とその意図のすれ違いです.

 私は今までに数多くのアドバイスをもらいながら学んできました.例えば高校時代の現代文の授業では,「原田くん.現代文を読むときはね.接続詞に丸をつけるといいんだよ.」「先に問題文をチェックして本文に入ろう」などです.高校生の私は,丁寧に鉛筆で接続詞に丸をつけ,始まるとすぐに問題文をチェックしました.さすがに回答が不正解の時に時に丸の濃さが足りないからだとは考えませんでしたが,なぜ先生が接続詞に丸をつけるといいと教えてくれたのか,なぜ問題文を先にチェックしなさいと教えてくれたのか,その意図が何となくでも分かってきたのはその何年も後のことでした.高校時代の私は手法を形だけ覚えて,その意図はおそらく聞いてすらいなかったのだと思います.これだけではありません.学校やアルバイトそしてゼミ,そのなかで学んできたことや頂いた助言,私がその意図を本当に理解するのは,多くの場合けっこうそれも多くは大失敗した後になってなのです.

 一方で,教育工学という分野を選んだこともあり,人の学びを支援する方法を考えることも多くなりました.例えばコンピューターを様々な問題を解決するツールとして使えるようになって欲しいと思い,様々なゲームや問題,システムを作り試しています.うまく遊んでくれたな,思ったように使ってくれたなかなと思ってインタビューをすると,「とりあえずやりましたが,なんかよく分かりませんでした」「えっそんなことなんですか」と答えられてしまうことが多々あります.わかりやすく伝わるように細かく小さな目標や支援にしたつもりなのに,まったく伝わらないもしくは意図しない学習目標が伝わっていたのです.

■ まとめ
 注文の多い料理店に出てくる2人は指示を自分なりに解釈し,そして指示に従い行動しました.しかし,実際にはその指示の意図は思っていたものとは異なり,2人は望まない結果に導かれてしまいました.

 では,私が誰かにアドバイスを頂いた時,

 ・私はアドバイスの意図を本当に理解できているだろうか?
 ・自分が解釈したいように曲げて,解釈してはいないだろうか?

 また,私が何かを伝えたいと思い支援を試みた時,

 ・本当に伝えたいことが伝わる支援方法になっているだろうか?
 ・仮に伝えたい内容が学習者に伝わった時,本当に学んで良かったと思ってくれるだろうか?

 何年も前に読んだ注文の多い料理店の一節は,私が学ぶときそして学びの支援を考えるときそんな問いが思い出される,私の印象に残っている一節なのです.

 今回もご覧頂きありがとうございました.

原田 悠我

2017.07.06

【今年度の研究計画】幼児のNarrative Skill習得のための物語行為支援システムに関する研究(D4佐藤朝美)

 たて続けですが、今回のブログ、D4佐藤が担当します。
 早いもので博士課程に再入学し、3年目に突入してしまいましたが、進捗は亀の歩みの如くです。今回のブログテーマ「今年度の研究計画」は、昨年のブログから殆ど進捗が無いことを改めて確認し、愕然としてしまいました・・・

 2016年7月7日【今年度の研究計画】(D3佐藤朝美)

 が、何もしていなかった訳では決してありません!上手く表現できないのですが、博論の骨子となる理論を探す旅を続けてきたという感触です。私の研究はICTを用いて支援を行う開発研究です。この「支援」というキーワードと格闘しながら、ヴィゴツキーの最近接発達領域からブルーナーの足場かけ、学習科学における足場かけのデザインに関わる研究の旅をして参りました。

 効果的な「足場かけ」とは、学習者が自分の力で理解するための助けとなるようなヒントやきっかけを与えることを意味します[1]。

 支援方法のメカニズムを考える時に学習科学の「足場かけをデザインする」という視点は、これまで見えなかった仕組みに気づきをもたらせてくれます。例えば、ブルーナーが示した積み木課題の足場掛けでは、言葉かけから思考を促し、1つ1つの動作を制御しながら支援を行うチューターの役割に着目しています[2]が、学習科学ではブルーナーの理論を拡張し、「いかにして、スキャフォルディングは学習環境に埋め込まれるか?」という視点で、教示だけでなく、活動や人工物・道具にも分散していく手法で検討しています[3]。

 このような学習科学研究における学校教育現場での学習に関する知見は、インフォーマルな場での、教員ではなく親の立場での、子どもの支援にも有効と考えます。

 以下、これまでの変更点を意識しながら研究計画を書いてみようと思います。


【タイトル】
幼児のNarrative Skill習得のための物語行為の足場かけデザインに関する研究

【研究の背景】
 人にとって「物語」を伝える事、読む事、語ることは重要な営みである。発達途上にある幼児にとっての物語行為にも、いくつかの重要な意味がある。発達心理学の領域で着目されているNarrative Skill(話す力)は、言葉をうまく使う力にとどまらず、体験や自分の考えを一連のまとまった物語として他者に伝える力であり、幼児期に著しく発達するという。そして、幼児期の物語る行為は、Narrative Skill(話す力)の習得のための活動として重要な役割を果たしている。いっぽう、これらの習得は、思考の道具、自己の確立、文化への参入方法の理解等の要素があり、支援の意義は大きいものの、語彙習得や文法獲得の支援など従来の支援方法では難しい。さらに、「語り」は社会・文化・歴史的な状況を反映するもので、物語を導く大人の役割が大きく、その関係性を保ちながら支援する道具を検討していく必要がある。「子ども」・「親」・「道具」の3点を踏まえたNarrative Skill(話す力)習得のための物語行為の支援を検討することが求められている。

【目的】
 本研究では、「物語る行為」の発達が著しい段階にある幼児を対象に、Narrative Skill(話す力)習得のための物語行為支援システムを開発する。物語行為を支援するために、足場かけをデザインするという観点で、「言葉(教示)」、「活動」や「道具」などの足場がけを埋め込む方法を検討する。開発した支援システムを評価実践し、検証により得られた知見から、物語行為を通したNarrative Skill習得のための足場かけデザインの原則を導き出すことを目的とする。

【方法】
 「研究の背景」で物語行為の支援要素として導き出した「子ども」・「親」・「道具」の3点に対し、足場がけを埋め込む方法として、ミクロ(即時的な支援)的・マクロ(長期的な支援)的視点で支援方法を検討する。ミクロ的には子どもが直接操作しながら物語産出を促されるよう、物語スキーマや登場人物の目標・感情の足場かけとなる絵情報の要素を埋め込み、デザインを行う。マクロ的には、子どものNarrativeSkillの発達につながるよう長期的な視点で、親の「言葉」による引き出しが向上されるよう足場かけのデザインを行う。以上により、2つの支援形態(開発研究1と2)が導出される。

■開発研究1:
 「幼児の物語行為を支援するソフトウェアの開発」

 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006792153/

■開発研究2:
 「幼児のNarrative Skill 習得を促す親の語りの引き出しの向上を支援するシステムの開発.」
 
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007520570/

【進捗状況と予測される結果】
 2つの支援形態である開発研究1・2は、開発・実践・評価が完了しており、効果は検証されている。足場かけがデザインされたシステムを用いた実践により即時的な支援だけでなく、長期的な環境要因である親の支援が可能であることが示唆され、子どもの「Narrative Skill」習得の足場かけのデザインが有効であることが明らかとなった。一方で、定義された目標以外の教育効果やいくつかの課題も残されている。それらも考慮した上で知見をまとめ、幼児のNarrative Skill習得のための物語行為を支援する足場かけの要件を整理し、デザイン原則を導き出す予定である。

【研究の意義】
 幼児期において、社会や文化への参入方法を理解する上で、物語は重要な役割を果たすとともに、物語の産出の過程で大人のやり取りを通じで意味形成を行っていくことも重要な活動である。そのような背景を踏まえ、物語の産出スキルであるNarrative Skillについて、その発達段階やメカニズムの解明を試みる数多くの研究が行われている。いっぽう、言語獲得の支援を超えた学習の支援原理が要求されるNarrative Skill向上の支援に関する先行研究は少ない。
 本研究では、発達段階やメカニズムに関する発達心理学、認知心理学の研究の知見をもとに、教育工学的なアプローチでシステムを開発している。支援方法として、ミクロ(即時的な支援)的・マクロ(長期的な支援)的視点で足場かけのデザインを検討し、新たなテクノロジーを用いてこれまでにない支援方法を実現している点で意義があると考える。

[1] Wood, D., Bruner, J. S., & Ross, G. (1976). The role of tutoring in problem solving. Journal of Child Psychology and Psychiatry, 17, 89-100.
[2] Sawyer Keith (ed)-The Cambridge Handbook of the Learning Sciences-Cambridge University Press (2014)
[3] Guzdial, M. (1994). Software-realized scaffolding to facilitate programming for science learning. Interactive Learning Environments, 4(1), 1-44.

佐藤朝美

2017.07.03

【研究計画】中学生の作文活動を題材とした自己調整学習支援システムの開発(M1 宮川 輝)

はじめまして。山内研M1の宮川です。
この4月に大学院生となってから3ヶ月が経過しました。
ようやくいろいろなことが落ち着き、研究に集中できる状態になりつつあります。

突然ですが、皆さまには「計画性」はありますか?
たとえば試験勉強やレポートなどの課題に対して「ついつい先延ばしをしてしまう」というのは多かれ少なかれ経験のあることだと思います。
そして私自身、人に比べて計画性がないと感じることが多くあります。

計画的に物事をこなせる人とこなせない人の違いは何なのか、そもそもどうして計画的にこなしていくことは困難なのか。
そのような素朴な疑問に対して、教育心理学における「自己調整学習」という分野の研究が対応していると知り、修論のテーマとして取り扱いたいと考えました。

以下が現状の研究計画です。

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テーマ
 中学生の作文活動を題材とした自己調整学習支援システムの開発

社会的背景
 文部科学省による2017年3月の学習指導要領の改訂にあたっては「主体的・対話的で深い学び」という観点が重視されているように、教育における主体的・自律的な学習といった考え方は、今後より広く一般的に認知されていくことが予測される。

先行研究
 学習の主体性に関する理論として、教育心理学における「自己調整学習理論」が挙げられる。その代表的な定義の一つは「学習者が自分の学習の目標を設定し、その目標に役立つように自分の認知、動機付け、行動をモニターし、制御し、コントロールして、個人的な特徴と環境の文脈的な特徴の両者によってガイドされ制約される、能動的で構成的なプロセス」(Pintrich, 2006) というものである。
 自己調整学習を支援するシステム開発の試みはすでに多く行われており、一定の成果を上げている。それらの研究は高校生以上を対象としているものがほとんどであるが、一方でStoeger(2011)は小学生への宿題遂行のトレーニングによる自己調整学習スキルの獲得を報告しており、従来より年齢の低い学習者における主体的な学習スキルの獲得可能性も示唆されている。

研究方法
 中学生を対象として、自己調整学習スキルが求められるような課題を実施する。支援システムを使用する実験群とシステムを使用しない統制群を設け、得点の比較による量的な検討と質問紙への回答による質的な検討の両側面からシステムを評価する。

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自己調整学習における最新の知見に追いつくため、先行研究のレビューを進めている状態です。もしも近い興味をお持ちの方がいればぜひお話をしてみたく思います。
どうぞよろしくお願いします。

【宮川 輝】

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