2017.08.19

【印象に残っている本の一節】盲ろう者として生きて(M2 根本 紘志)

【印象に残っている本の一節】、今回は東大初の盲ろう教授となった福島智氏による『盲ろう者として生きて 指点字によるコミュニケーションの復活と再生』をご紹介します。


■私が選んだ本と一節

福島氏は小学生時代に視覚を、そして高校生時代に聴覚を失いました。視聴覚両方を失いながらも試行錯誤をしながら、筆者は指を重ね合わせてタイピングする「指点字」(→動画)というコミュニケーション手段を手に入れます。もちろん支援者の手伝いを得ながらですが、そのおかげであまり不自由ない形でコミュニケーションが取れているといいます。
もともと見えて、聞こえていた状態からそれらが失われていく間には様々な出来事があり、様々なことを考え感じてきたはず。本書では日記などの資料を元にその過程が描かれ、考察されます。

盲ろう者としてよく引き合いに出されるのはヘレン・ケラーですが、ヘレン・ケラーと自身の体験は異なると福島氏は言います。

「ヘレン・ケラーの人生は、『覚醒』と『成長』の歩みであるのに対して、私は『喪失』と『再生』の人生を経験した」(著者まえがきより)

ヘレン・ケラーは2歳頃に視聴覚を失ったため、そこから言葉を獲得していく過程に注目が集まりました。一方で福島氏の体験は一度手に入れたコミュニケーションの手段をほぼ失い、その後別の手段を手に入れていく過程と言えます。
そんなことを考えながら本書を初めて読んだのは2012年でした。今回ブログの題材に挙げるに当たって改めて読み直したのですが、5年経つと印象に残る一節が大きく異なっていました。


・2012年に印象に残っていた一節
「人はみな、それぞれの『宇宙』に生きている。それは部分的には重なり合っていたとしても完全に一致することはない。時にはまったく交わらないこともある。このように、ばらばらに配置された存在であるからこそ、その孤独が深いからこそ、人は他者との結びつきに憧れるのではないか。智の盲ろう者としての生の本質は、この根元的な孤独と、それと同じくらい強い他者への憧れの共存なのではないだろうか。」(p.336 12-4.孤独と憧れのダイナミズム)


・2017年(今回)印象に残った一節
「『M: I君はいつおうちに帰るの? I:うーんとね、22日に帰ろうと思うんだけどね』その瞬間、私の内部で何かがスパークした。」
(p.247 10−1. 喫茶店での出来事 「指点字通訳」の始まり)


2012年の自分は盲ろう者の視点を通じて「人のあり方」のようなものに関心を抱いていたのかな、と振り返ってみて思います。この部分は谷川俊太郎氏の『二十億光年の孤独』も引用しながら力強く書かれており、自分にとってインパクトが大きかったのかもしれません。

一方で、今回気になった部分に引っかかった理由は「メディアを用いた学習やコミュニケーションをデザインすることを考える時にヒントになるのではないか?」と思ったからです。(特に意図はしていないのですが、結局学習に関する話になりますね...)


■なぜ印象に残っているのか
私たちは日々、大量の情報を用いてコミュニケーションを取り、学びます。視覚や聴覚が主ですが五感をフルに使って学ぶことの重要性も指摘されています。しかし、それらの一部が制限されたとしたら...コミュニケーションや学びの質は大きく変わるはずです。
障がいを抱える方の学習については言わずもがなですが、メディアを用いた私たちの学習でも同じことが言えるのではないか、と本書を読んでいてふと思いました。

今回取り上げた一節で福島氏は「スパーク」を感じたと言います。実はそれ以前から指点字という方法を用いて会話の通訳をするという試みは行われていました。しかし、福島氏はその通訳方法ではコミュニケーションが取れないと感じていたのです。この問題点について、取り上げた一節に続く部分では以下のように説明されています。


「盲ろうとなって私がぶつかった第一の壁は、コミュニケーション手段の確保だった。第二の壁は、そのコミュニケーション手段を実際に用いて、持続的に会話する相手を作ること。つまり、他者とのコミュニケーション関係を形成することだ。そして、第三の壁は、周囲の"コミュニケーション空間"に私が能動的に参加できるようにすること。言わば、"開かれたコミュニケーション空間"を私の周囲に生み出すことだったのである。」(p.248 10−1. 喫茶店での出来事 「指点字通訳」の始まり)


「スパーク」が起きる前に行われていた通訳は「I君は22日に帰るらしいよ」といった具合でした。この通訳と先に挙げた通訳では、受け取り手の情報が大きく異なります。実際、台本のようなやり取りとして通訳を受けることで福島氏は「そうか、I君まだ帰る日を決めてないんか」とツッコミ役として能動的に会話に加わっていくことが出来たと言います。一方で伝聞系の通訳ではそうはいかず、「ああそうか」以外の返事はしにくくなってしまいます。

ここで書かれている記述が「よくわかる(かも?)」と感じた経験が僕自身、複数回あります。
それは、スカイプなどのオンライン通話ツールを使ってグループワークに参加している時です。大学で友人数名が議論をしている際、所用で大学に行けなかった僕はスカイプを使って議論に参加していました。大体の議論は何となくついて行けるのですが、大学にいる人たちがその場でちょっと盛り上がった話題やそこに通りがかった友人との会話などが混じると途端に会話からおいて行かれてしまうことがありました。また、議論に欠席した場合は議事録などを後ほど共有してもらうことになります。その場合も議論に入っていけるようになるまで少し時間がかかります。


■まとめ
こうした時に自身が感じていた課題は「周囲のコミュニケーション空間に自身が加われていなかった」ということだったのだと思います。ICTツールが発達したおかげで「全くコミュニケーションが取れない、相手がいない(福島氏の言う第一・第二の壁)」ということはなくなったものの、その代わりに「コミュニケーション空間に能動的に参加する(第三の壁)」ということは起こり得る、むしろそれが今後メインの課題になるのではないか、とぼんやり考えています。

そうした壁は実は視覚・聴覚が不自由な方にとっては以前からあったものなのかもしれません。また、その壁を越えて日常的に人と関わり、学ぶために様々な工夫がなされてきたのかもしれません。


「盲ろうという極限にまで制約された情報のもとで生きる智にとって、最終的に智の認識とコミュニケーションを支えたものは、『感覚的情報』と『言語的情報』という二つのカテゴリーの情報による『複合的な文脈』の提供ではなかったかと筆者は考える。そして、この複合的な文脈を、新たな概念で把握し、『感覚・言語的情報の文脈』と筆者は命名する。」(p.301 11-5.視覚・聴覚を代替する複合的文脈 「感覚・言語的情報の文脈」)


視聴覚を使うことのできない福島氏にとってコミュニケーションのために使える主な手段は指先(触覚)です。しかしその手段で伝える情報を工夫することにより、限られた情報伝達手段でも能動的にコミュニケーションに加わっていくことができるということを氏は実体験をもって紹介しています。

障がいを持つ方々が...というだけでなく、私たちの日常の振る舞いにとって学びが大きい一節だと、読み返してみて改めて感じました。


本書は福島氏の博士論文を元に書かれた本でやや取っ付きにくいかもしれませんが、冗談も混じる軽快な語り口で書かれていて面白く読めますので、ぜひお手に取ってみていただければ幸いです。また、本書以外にエッセイなどの著作もあります。

【根本 紘志】

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