2017.09.25
「宿泊センターが自動覚醒機とかいう最新装置を買うらしいよ。おれたちお払い箱になるかもしれない」
D1/内田洋行教育総合研究所の平野です。今回のブログテーマは「印象に残っている本の一節」ということで、ジャーナリストで小説家の辺見庸さんによる芥川賞受賞作『自動起床装置』(1991年)を取り上げたいと思います。
通信社の宿泊センターで、仮眠する社員を指定された時間に起こす「起こし屋」のアルバイトをはじめた大学生の「ぼく」。アルバイト歴が長く、起こしの名人と呼ばれている同僚の聡は、法学部生だが睡眠や樹木に関する本ばかり読んでいる変わり者。そんなある日、自動起床装置が導入されることになり...。
「起こし屋」という仕事のユニークさもありつつ、自動起床装置に象徴される現代社会への批判的まなざしも垣間見えるのが興味深いところです。今回ご紹介するのは、自動起床装置の導入を非難する聡の台詞です。
「ところがさ、産業革命期をへて目覚まし時計というものが発達していくよね。眠りと覚醒を機械的に、強制的に区別しようという考え方が勢いづいていくんだ。おそらく、最初に目覚まし時計をつかったひとは、心臓をちぢめただろうな。......それからだんだんに覚醒時の方が睡眠時より大事という考え方、睡眠を覚醒に従属させる発想が普通になっていくんだ。......まちがっているかもしれないのにね。(略)......このへんでやめといたほうがいいんだ。無理がきているんだから」
学習研究に引きつけると、「授業と授業外」「学校と学校外」など、学習がおきている時間とおきていない時間を明確に区別しようとする思想、あるいは「学習がおきていること」を「学習がおきていないこと」よりも「よい」ものとする考え方があるとは言えないでしょうか。こうした思想を自動起床装置のような形で具現化し、睡眠を支配しようとする考え方はある意味で教育工学的とも言えるでしょう。しかし、その思想はほんとうに正しいものでしょうか。自動起床装置によって、失われるものはないのでしょうか。
眠りと覚醒を区別する思想、学習とそうでないものを区別する思想を超えて、人間そのものをもう一度、連続性の中で捉えなおすことが必要なのかもしれません。学習でないものの中に学習のタネがあるかもしれず、学習している時間が学習していない時間に生きてくるということがあるかもしれないですから。
「(略)......眠りの世界ではいろいろなことが起きる。辛くて、狂おしくて、他愛なくて、突飛で、情けなくて......もう、すべてなんて言葉でおおえないほどすべてのことが起きる」
追伸:辺見庸さんはこれを書かれたとき46歳、芥川賞を取られてからも数年間は共同通信社にて働かれていました。この作品にも通信社での経験が強く反映されています。社会人大学院生である私には、その「二足のわらじ」ぶりも印象的なのです。
【平野智紀】