2017.09.22

【印象に残っている本の一節】職業としての小説家(D1 杉山)

 D1杉山昂平です.私にとっての「印象に残っている本の一節」は,村上春樹『職業としての小説家』にあります.村上がいかに小説を書いているのかその方法論を述べた本です.私は「日常生活」を描くところに彼の小説の良さがあると思っていますが,『職業としての小説家』ではその点についてこんな持論―自伝が展開されています.

「僕は親の世代のように戦争を経験していないし,ひとつ上の世代の人たちのように戦後の混乱や飢えも経験していないし,とくに革命も体験していないし(革命もどきの経験ならありますが,それはとくに語りたいようなものではありませんでした),熾烈な虐待や差別にあった覚えもありません.比較的穏やかな郊外住宅地の,普通の勤め人の家庭で育ち,とくに不満も不足もなく,とくに幸福というものでもないにしても,とくに不幸というのでもなく(ということはおそらく相対的に幸福であったのでしょうが),これといって特徴のない平凡な少年時代を送りました.」

村上は,前世代の文学者たちのようには,時代の転換による大きな悩みや,戦争のような強烈な体験をしていません.兵庫県西宮市・芦屋市の「良いところ」の子弟として日々生活してきた.だからそうした「軽い」日常生活しか自分には書けない.でもそれのどこがいけないんだ.それも小説になって良いだろう,というのが村上の意見です.


 彼の偉いところは,日常生活を書くために,それに適した文体を練り上げた点にあります.

「戦争とか革命とか飢えとか,そういう重い問題を扱わない(扱えない)となると,必然的により軽いマテリアルを使うことになりますし,そのためには軽量ではあっても俊敏で機動力のあるヴィークルがどうしても必要になります.」

そのために彼は,あえて語彙力で劣る英語でいったん執筆してから日本語に翻訳するというやり方をとり,シンプルで直截な文体を築きあげました.もし,戦争や革命を語るような文体で日常生活を描いていたとしたら,とてもちぐはぐで質の低い小説になっていたことでしょう.


 この一節に私はとても共感しました.村上と同郷で生活環境も似通っている私は,貧困や格差といった大きな社会問題にはあまり興味がもてないでいました.むしろ日常生活のリアルとして感じられたのが「アマチュア」や「趣味」であり,今はそれを深めるような学びを研究対象にしています.そんな私にとって,『職業としての小説家』は「いわゆる社会問題ではないものについても論文が書かれるべきだ」という信念を裏付けたり,「しかし,そのためには社会問題を論じるのとは別の問題設定や文体が必要だ」という技術への志向をもたらしたりしてくれました.端的に言って,この一節から勇気づけられたのです.
 日常生活のなかで人々のささやかな可能性の種をまき,発芽させていくような学び.それに注目するための理論や概念,それを支えるための学習環境デザインの実践論.こうしたものについて書いていくためには,それに適した「ヴィークル」を用意する必要があります.『職業としての小説家』にならいつつ,研究・論文においてそんな「ヴィークル」を用意することを目指していきたいと思います.

【D1 杉山昂平】

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