2015.10.04

【学びのアルバムを開いて】じーーっと見つめて学ぶ

【学びのアルバムを開いて】
こんにちは。金木犀の香りに包まれる季節になりましたね。
M2の池田です。"学びのアルバムを開いて"シリーズということで、
何を書こうか、どんな学びを書こうか迷いましたが、
食欲の秋ということで、料理に関する"学び"のアルバムを開いてみようかと思います。

小さい頃から食いしん坊だった私は、
「お料理楽しそうーーー!」と、レシピ本を見ながら
お料理ごっこをしていました。

意気揚々とキッチンにいき、はなうたまじりに料理ごっこをするものの
出来上がるものはいつもなにかよくわからないもので、
なんで自分のつくるものはこんなにおいしくないんだろう。これじゃ大人になったとき大変だと深刻に悩んだのを今も覚えています。

そんな風にへたくそなお料理ごっこしかできない私は、
いつのまにか、料理をすることや、夕ご飯の支度を手伝うことをほとんどしなくなっていました。

高校くらいになり、バレンタインにみんなで交換こしようという文化や、お菓子つくってきて交換しよう♪みたいな文化がでてきたとき、
わたしは困惑しました。ああ。私の苦手なお料理ごっこやらなきゃいけないやつだ。。おいしいお菓子は好きだけど、自分がつくるとおいしくないな。。うわあ。と。

そんな私を助けてくれたのは"お母さんの料理する姿"でした。
料理本を見ているだけじゃ、メレンゲを泡立てることはわかっても
どうすれば綺麗にメレンゲを泡立てることができるのかわからない。
でも、お母さんがメレンゲを泡立てている様子をじーーっとみていると、
どんなふうにボールを傾けて、どれくらいのつよさでどれくらいの長さ泡立て続ければメレンゲが綺麗にあわだつのか、なんとなくわかるようになってきたのです。

そうして、じーーっとお母さんの手元をみて、観察して
自分でもやってみて、ということを繰り返していると
奇跡的に意味の分からないものができるわたしのお料理ごっこは、
だんだんと普通のお料理へと近づいていきました。

今も、お母さんの手元をじーーっと見つめて、
お料理ごっこを、お料理へとかえるべく奮闘しています。
写真は、最近つくったおべんとうです。お母さんのお料理姿を観察してもっといろんなものがつくれるようになりたいなー。
スクリーンショット(2015-10-06 0.31.44).png


心理学者のアルバート・バンデューラが、観察学習の理論を提唱したように、人は観察からも多くのことを学んでいるような気がします。
自分より上手な人がどんな風に動いているのかという観点で、ものごとを見つめること、お料理ではしていたけど、他のことに関してはまだあまりできていないなー。精進しなければですね。
次の【学びのアルバムを開いて】は、博士課程の佐藤朝美さんです。お楽しみに〜


【池田めぐみ】

2015.09.24

【学びのアルバムを開いて】古い本に埋もれる

 こんにちは。M1の杉山です。ここしばらく山内研ブログでは【学びのアルバムを開いて】をテーマに、学生たちの学びの経験を振り返っています。今回は、私の学びのアルバムを開いてみます。

 私が高校生のとき。神戸の中高一貫校に通っていた頃を振り返ってみると、あらゆる生活が学校の中で完結していたように思います。毎日朝に登校して、日が暮れるとまっすぐ家に帰る。週に2回バドミントン部の活動はあるけど、ほかの部活ほど練習がたくさんあるわけでもない。なまじ進学校だったので、塾に行かなくてもなんとかなりそうだ。街にくり出すような友達がいるわけでもない。そういう状況だったので、むかしを振り返ろうとしても、どうにも中身が薄いなと思わざるをえないところがあります。くそ真面目だったなって、今になって気づきます。
 大学に入って東京に出てみると、みんな何かしら「自分の活動」をもっていることに驚きました。スポーツや芸術活動に打ち込んでいる人もいれば、国際交流やビジネスに入れ込んでいる人もいる。「意識高い(笑)」なんて嘲る向きもありましたが、自分の大半の時間をかけてまでやりたいことがあるというのは、素直に羨ましいと思いました。それに加えて、彼らとしゃべってみると、みんな高校生のころから、やっていたことがあると言うのですね。中高の同級生と会ったときに聞いてみても、やっぱり、こういうことをやっていたと話してくれる。旅をしたり、古着屋に通いつめたり。それを聞いて、自分の高校時代って何だったのだろうという気分になります。
 だから、学びのアルバムを開こうとしたら学校の話になるのだろうか、と考えるのですが、しかしそういう気にもならないのです。今でこそ山内研という学習をテーマにした環境に居ますが、学校に特段の思入れがあるどころか、関心があるのは、学校外の学びです。そうなるのは、自分が学校外の活動をしてこなかったぶん、今になって求めているからという気もします。でもどこかで、自分にとっての学校の外の学びのイメージがあるからこそ、こんな関心をもつのではないかとも思います。
 そこで、はたと気づいて、アルバムをめくるわけです。私が高校生のとき、当たり前のように通っていて、ことさらに意識していなかった場所があることを。それが、口笛文庫でした。

ByCB412CEAABEQG.jpgそこは通学路の途中にある古書店で、いかにもな古い本から最近の絵本まで置いているのですが、どこかスタイリッシュな佇まいです。知的だけど、厳めしくない雰囲気に惹かれた私は、下校途中に、あるいは休日に、口笛文庫に通っていました。
 古い本を読み漁ることを通じて、私は色んな時代を旅していたという感覚があります。明治や大正期の小説を読んで、その時代の人々の暮らしぶりに思いを馳せたり、昭和の本から、自分が今生きている世界が、どんな時間の積み重ねの上に成り立っているのかを発見したり。50年前、100年前に出版された本をこの手にとれる(しかも小遣いの範囲内で!)ということは、私にとって世界の深さを身をもって体験できることを意味していました。
 口笛文庫に通うようになって、ひたすら本を読みました。相変わらず家と学校を往復する日々でしたが、本を携えてどこまでも行っていたのかもしれません。私にとって、古い本に埋もれた経験は、ある意味での学びであったという気がします。特に何かを得たり、勉強に生きたりしたとは思いませんが、でも、世界とは多少ながら出会えていたなと、思います。
 大学・大学院と東京で過ごして、今は直接世界と関わる必要性を痛感していますが、あまり活動的ではなかった自分にとって口笛文庫の存在は、間違いなく学びのアルバムの1ページでした。

 次回のブログもお楽しみに。

【杉山昂平】

2015.09.18

【学びのアルバムを開いて】自然の中で学んだこと

みなさま、こんにちは。今回の担当はM1の長野です。
だんだんと肌寒くなってきて、秋がやってきたんだなぁと実感しております。
昨日はゼミの後研究室の方々とちゃんこ鍋を食べに行って、とっても幸せな気持ちになりました...。今年の秋も食欲の秋まっしぐらですね!!

さて、今回のブログは【学びのアルバムを開いて】ということで、今までの学びについて振り返ってみようというテーマです。これまでの記事では、どちらかというとフォーマルな学びに関連した内容が多かったと思うので、私はもう少し"学び"の解釈を広げてお話したいと思います。

blog2_長野.JPG

早速ですが、この写真は私がお盆に帰省したときに車の中から撮った写真です。とても緑が多く見えますが、私の住む町の人はこの場所で近所の人や親戚、友達と集まってBBQや川遊びをします。私も何度か行った経験がある思い出深い場所です。

私は大学生以降、大阪・東京といわゆる"都会"で生活をしているのですが、それまではこのように自然の豊かな田舎町に住んでいました。大きな商業施設もなく、山を越えないとスターバックスにも行けないような町で生活をしていた私は、ずっと都会という場所に憧れを持っていました。

しかし、今回このブログを書くにあたって自身の学びについて振り返ったとき、私が育った田舎の町は私に貴重な経験を与えてくれていたということ、そしてそこから大切なことを学んでいたということに気がつきました。
ということで私は、<自然の中で学んだこと>というのをこの記事のタイトルとして、自身の学びについてお話します。

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私は小さい頃から自然と触れ合って育ちました。

私のおじいちゃん・おばあちゃんの家には、たまねぎやじゃがいも、ピーマンなどたくさんの野菜を育てている大きな畑があります。私が小さい頃はよくその畑に連れて行ってもらい、種を植えたり水をやったり収穫したりと、微力ながらお手伝いをしていました。
本当に畑は暑いし、虫も多いし、あまり好きな場所ではなかったような気がしますが(笑)、今となっては、野菜を作ることがどれほど大変なことかを直接肌で感じられる良い体験だったなと思います。


それだけでなく、私の家はよく親戚一同で集まって海や川に魚を釣りに出かけていました。

海では一人一本竿を持ち、ままかり(岡山のとっても美味しい地魚)やサヨリ、カサゴなどの魚を釣ることができます。時には(ほとんど弟が釣ってくるんですが(笑))タコやアナゴなどが釣れたりもして、「自分で釣れるんだ!」と驚くようなこともありました。

また、近くの川へ行くと美味しい鮎が釣れるんです。
みなさんは「釣れたての鮎からはスイカの匂いがする」ということを知っていますか?
鮎というのは、住む川の水が綺麗なほどスイカのような爽やかな香りがするんです。

それも実際の経験から学んだことです。このように、自然の中には教科書では学ぶことのできない不思議があふれていて、それを自分の五感で感じられるというのは本当に貴重な経験でした。

ちなみにおじいちゃん・おばあちゃんの家では、採った野菜も釣った魚もその日の夕食に登場します。(これが本当においしいです。特に鮎の塩焼きとままかりの南蛮漬けはいくらでも食べられます!)
スーパーに並んでいる野菜を買うだけではそこに込められた気持ちや苦労がわからないし、お店で出てくる魚を食べるだけではそれが生きていたのだということは意識しません。
そういった意味でも、私は生きていく上でとても大切なことを学んだと思っています。

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blog_長野.JPG

余談ですが、今回の帰省で久しぶりに小学校へ行ってみました。夏休みということもあって先生たちは誰もいませんでしたが、運動場を歩いているといろんな思い出が蘇ってきて懐かしい気持ちになりました。
毎日放課後に友達とグラウンドに集まってサッカーやバスケをしたり、時には川の魚を釣ろうとしてみたりと、外で遊ぶのが好きで夏になると真っ黒に日焼けをしていたのが思い出されます。

学年も性別も関係なく、いろんな人と遊ぶのが楽しくて、その中で自然と人間関係も学んでいたのだと思います。
今改めて考えてみると、小さい頃は人見知りだった私が人と接することが好きになったのは、そのときの経験がきっかけだったのかもしれません。

今回自身の学びについて振り返ってみて、小さい頃の経験ってそのときにはあまり意識していなくても、気づかぬうちに自分の中での小さな学びになっていて、その学びが今の自分を形づくっているんだなぁと改めて感じました。

良い環境で育ててくれたことを両親に感謝したところで、次の方にバトンタッチします!

次回もおたのしみに〜♪


【長野香織】

2015.09.11

【学びのアルバムを開いて】旅とことば

みなさま、こんにちは。
M2の松山です。
今月のはじめに山内研の夏合宿があり、新潟の越後妻有に行ってきました。
大地の芸術祭で様々な作品を見て、学習プログラムの議論も盛り上がり、この合宿も「学びのアルバム」のすてきな1ページとなりました。

さて、合宿についての記事はまた次の機会ということで、今回は私の学部時代の思い出をふりかえってみたいと思います。

私は神奈川の僻地にある、ちょっと豚臭いことで知られるのどかなキャンパスで学部の4年間を過ごしました。


blog15091101.JPG写真は「鴨池」と呼ばれる場所です。
休憩時間にここで寝そべっていると鴨がやってきたり、授業をここで受けたりもしたのでとても思い出深い場所です。
そんなキャンパスで様々な授業を履修し、学校外でもいろいろなことをしていた大学生活でしたが、今回は「外国語の授業」と「旅行」での学びに焦点を当てて書いていきたいと思います。

当時私は、英語のほかにイタリア語とロシア語を履修していました。
私の所属していた学科では外国語は必修ではなかったのですが、「海外旅行したい!せっかく行くなら、ちょっとでも言葉がわかればおもしろそう」と思ったことから、行ってみたい国の言語を学んでいました。


blog15091102.jpgロシア語のテキストの一部。
(しかし実はまだロシアには行けていません...)

外国語の授業では単語や文法を習うだけでなく、その国出身の先生がその国の文化の話をしてくださったり、学生一人ひとりにその国風の名前をつけて呼ぶルールがあったりしたのが記憶に残っています。
ゲームなどを使った授業も多く、言語学習を「楽しむ」ことも重視されていたように思います。


blog15091103.jpgそして大学2年のとき、念願のイタリア旅行へ...。
しかし、もちろん授業で少し学んだくらいでイタリア語をペラペラ話せるようにはなりません(笑)。
ただ興味深かったのは、数ある単語の中でも「数字」は覚えていれば使える場面が多いということです。
英語でコミュニケーションをとれる国も多いと思いますが、時間や個数の表現だけでもその国独自の言葉を使ってみると、旅行がさらにおもしろいものになるような気がします。
帰国後は授業を受けるのもさらに楽しみになったので、やはり実際に現地に行くのはいいものだと思いました。

その後いろいろな国を旅行してみると、「話せる」「聞きとれる」だけでなく「読める」ことの重要性を感じる機会が多くありました。

blog15091104.jpgblog15091105.JPG韓国では看板や案内がまったく読めなかったので、一緒に旅行した韓国人の友人に意味を教えてもらいながら街を歩き(写真左)、フィンランドの遊園地ではチケット案内の記述がよくわからずにアトラクション乗り放題の高いチケットを買いそうになりました(写真右)。
ハングルはそれを機にそのあと少しだけ勉強しました。
日本語にも英語にも表記が似ていない言語は学ばないとわからないぶん、少し読めるようになるだけでわくわくしますね。
ロシア語もアルファベットが難しく初見では読めないので、履修できてよかったと思っています。

外国語学習というと「習得」というイメージが強いですが、私は外国語を「使えるようにする」というより、知的好奇心を満たすために学ぶことが多いような気がします。
どの言語も中途半端にしか身につかないのであまり良い学び方ではないかもしれませんが、たくさんの国の言葉や文化を少しずつ知ることは純粋に楽しいので、これからもいろいろな言語を学んでみたいです。
「楽しんで学ぶ」という意味では、旅行のために少しでも言語を学び、旅行先でさらに言語に触れるというのはやはり良い方法かもしれません。
とは言え、英語くらいはしっかり「使える」レベルにならないといけないのですが...。

修士論文を書くまでは旅に出られそうもない状況ですが、いつかロシア旅行できることを夢見て今回はこのへんで!
次の記事もお楽しみに。


【松山彩香】

2015.09.05

【学びのアルバムを開いて】「たまにやる気を出した時の周りの助け」に感謝して

皆さま、こんにちは
M1の原田悠我です。

夏休みも半分終わりました。九州へ帰省したり、宮津へ研究会に行ったり、十日町へ合宿へ行ったりと、いろいろな場所へ行きつつバタバタしていたらもう9月です。夏休みにやろうと思っていたことや、やらなくてはいけないことはまだまだ残っているので、気合を入れて9月を過ごしていこうと思います。


8月はいろいろな場所に行ったのですが、九州へ帰省した時はBlogのテーマである【学びのアルバムを開いて】を考えながら過ごしました。帰省する前は「そんなに面白いエピソードなんてないな」と思っていましたが、実際に帰ってみると思いのほか様々なエピソードが思い出されました。例えば、以前いた大学に行った時にはグループワーク向け教室で、大学2年生の頃にプログラミングの勉強をしたことを思い出しました。また実家の近くの公園を見た時には、ボールを使った遊びを自分たちで考えて遊んでいたことを思い出しました。そんないろいろなエピソードの中で私が選んだエピソードは「たまにやる気を出した時の周りの助け」です。



小・中・高校時代の私を振り返ると突発的にやる気が出てくるタイプでした。逆に言うと「まじめにコツコツ毎日する」などは得意ではありませんでした。そんな私は1年に1回ぐらいのタイミングでやる気を出して宿題に取り組むときがあります。そんなときに、日頃は頑張らない私を両親や学校の先生が支援してくれたという出来事を2つ紹介したいと思います。


1つ目の出来事は「夏休みの自由研究」です。
下記の写真の1番右は私が小学校3年生の頃の自由研究「学校たんけん」です。この課題が出た時はちょうど私が転校してすぐの頃で、転校前の学校と新しい学校の違いに驚いた時期でした。そんなことから「学校ごとにどんな違いがあるんだろう」と興味を持ち、学校ごとに違いを調べる自由研究をはじめました。普段宿題にやる気がない私がやる気を出したときをチャンスと思ってか、両親はいろいろな学校に連れていてくれました(結局、夏休みを通じて18校の小学校に連れて行ってくれました)。そのことがあってか、私は自由研究が好きになり4年生の時は、「公園の違いを調べて理想の公園を考える」自由研究を実施し、5年生の時は「図書館の違いを調べてどんな時(例えば子供連れの時など)にはどんな図書館がよいかをまとめる」自由研究を実施しました。


2つ目の出来事は「読書感想文」です(写真の1番左)。
これは中学校の国語の授業の時間に「筆者の考えについてどう思うか記述しなさい」という宿題から始まった読書感想文です。授業の数ある宿題の一つで私の友達はそこまで時間をかけて取り組んでいなかったように感じます。私も普段なら2、3行ちゃちゃっと書いて堤出する方なのですが、この時はなぜかスイッチが入り一生懸命書いた記憶があります。辞書を引きつつ文章の書き方を調べつつ、普段しないようなことをなぜかやっていました。ここで感謝しているのは、その課題を出した国語の先生です。恐らく予め想定していなかったであろうコンクールの募集を調べて私に紹介してくれました。更に、先生はそのコンクールに向けて何度も添削をしてくれました。「授業で教えたのに何を聞いていたの」と先生からいじられつつ、せっせと書き直したこと記憶しています。


学びのアルバム_原田_20150905.JPG


このように、普段はやる気がない私がふとした瞬間にやる気を出すと、両親であったり先生であったりがその学びの支援をしてくれました。


卒業論文は「反転授業において、授業前の学生の疑問や興味を教師が把握することをいかに支援するか」という問でシステムの開発をしました。帰省するまで忘れていたエピソードですが、卒業論文の思いである「学生が興味を持った瞬間や疑問を持った瞬間に適切な支援をしたい」というのは、今回書いたエピソードに影響を受けてるかも知れないと思いました。




他の研究室のメンバーはどのようなエピソードにどのような影響を受けているのでしょうか?
ちなみに、次の担当はM2の松山さんです。お楽しみに!!

原田悠我

2015.08.17

【学びのアルバムを開いて】10年ぶりの再会

こんにちは、山内研修士2年の逆瀬川です。


暑いですね、あつい、とにかく暑い。
私は、大学にたどり着くまでの道のりで一日の体力の半分を消耗し、研究室でぐだっとしてしまうことが日常と化してしまったので、より省エネに通学する方法を模索中です。
みなさん、熱中症にはくれぐれも気をつけてください。


さて、前回からお送りしていますテーマ【学びのアルバムを開いて】について書きたいと思います。


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山内研究室では、フォーマルとインフォーマルな教育、それぞれに関心を持っている人たちがいますが、私はフォーマルな学びである学校教育をフィールドとして研究をしています。


学生時代を振り返ってみると、私は結構、学校というものが好きでした。
といっても、なんでも熱心に取り組んでいたわけではなく、好きな先生の授業だけやたらと頑張るタイプの生徒でした。
褒められたものではないですね。

「懐かしい自分の学びを振り返る」というブログのテーマをいただいた時に、これはまたとない機会だな、しめしめ。と思い、卒業以来ほとんど会っていない中学校の英語の先生に連絡をとり、10年ぶりに会いにいってきました。


久しぶりに再会した先生は、私が中学生だった頃とほとんど変わっておらず、とても懐かしい気持ちになりました。


中学校の頃は、先生達のことを自分とは全く異なる人種だと思っていた節があり、教師が教師であることの意味について考えたことはありませんでしたが、
自分のキャリアを描かなければならなくなった今、教師を目指した理由や、教師という職業の好きなところなどを聞くことは、とても新鮮で興味深いものでした。


また、学校で働く以外にも新たに整体師の資格を獲得したり、ダンスをはじめたりと、自分の好きなことにどんどん挑戦しているようで、とても輝いて見えました。


自分の好きなことを楽しみながらアグレッシブに取り組んでいる先生を見て、改めて自分の関心に沿って研究できている今の状況を思い出し、夏の暑さになんか負けていないで、しっかり頑張ろうと身が引き締まる思いでした。


大人になった今、中学校の生徒と先生という関係から、また新たな関係性でお話できるということは少し不思議な感覚でもあり、とても楽しいものですね。


お忙しい中、時間をとっていただいて、本当にありがとうございました!


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(写真はイメージです。写真を撮るのを忘れてしまいました、何たる不覚)

小学校から高校まで振り返ってみるとらそれぞれの時代に好きな先生というものがいた私ですが、驚くことに全員が女性の先生でした。


全ての先生に共通していたことは、それぞれ強さと優しさを持っていて、毎日楽しそうに過ごしているように見えたということです。


こういう女性になりたいというロールモデルを見つけて、人知れず憧れていたのかも知れません。

教師の役割は多様で、時代と共に変化するものでもあると思いますが、好きな先生が動機付けとなり、学習自体が好きになれたり、将来展望に繋がったりすることは決してめずらしいことではないと思います。


24歳になった今、その像に近づけているのかと聞かれると、わりと乖離があることに気づき、危うく絶望しそうですが、素敵な人間になれるよう、これからも精進しようと思います。

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このブログを読んで、長らくあっていない先生や、昔お世話になった人などの顔が浮かんできた方は、ぜひ少しの勇気を出して連絡を取ってみることをおすすめします。
自分を振り返るきっかけにもなりそうですね。


次の担当はM1の原田さんです。どんなお話が聞けるか楽しみです。

それでは、さようなら。

逆瀬川

2015.08.10

【学びのアルバムを開いて】「丸つけ」に憧れて

こんにちは、M2の青木翔子です。
外を少し歩くだけで、どっと疲れてしまうような猛暑日が続いていますね・・・!


夏休みに入り、今回から、ブログのテーマが切り替わります。
題して、【学びのアルバムを開いて】。
このテーマは、中学校時代・高校時代・大学時代など、いままで学んで来た場所や人について振り返ってみるという企画です。懐かしく甘酸っぱい感じの柔らかなブログテーマのタイトルになっていますね。M1の杉山くんと原田くんがつけてくれました、ありがとう!


ということで、わたしは、小学生時代のエピソードを書きたいと思います。
小学生時代といえば、よく遊んでたな〜!という思い出があるのではないでしょうか。
わたしも同じく、放課後に学校の校庭で遊んだり、友達とお絵描きをしていました。
特に、私の親は働いていたため、放課後と晩御飯はおばあちゃんの家で過ごしていました。
私の「学びのアルバム」の一枚は、そんなおばあちゃん・おじいちゃんとのエピソードです。


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当時の私は、その日に学校で習った漢字などを題材に、学習プリントを作成し(下記の写真)、
それをおばあちゃん・おじいちゃんに答えてもらい、丸つけをしていたそうです。

スクリーンショット 2015-08-11 00.07.27.png

全く記憶がないのですが、なんとも真面目な小学生です(笑)。研究でも、単に学ぶだけではなく、教えることで更に理解が深まるということがよく言われますが、自発的にそれを実践していた、ということにしときたいと思います。

なにより、この小学生のお遊びに付き合ってくれていたおじいちゃん、おばあちゃんの優しさが心にしみます。

当時の自分の考えは思い出せませんが、なぜこんな遊び(学習?)をしていたんだろう?と思いを巡らせてみると、先生に対する憧れのようなものがあったような気がします。親が教員をやっているので、家で採点をしている様子などをみていたんだと思います。赤色のペンを握っている親の姿が、いまも残像として浮かんできます。親を真似して「丸つけ」をしたかった気持ちがあったのでしょう。
また、子どもにとって、「丸つけ」は特権的なものとして格好よくみえるのかもしれません。「100点」や「はなまる」をいかに上手に先生っぽく続けて書くか?を練習していたような気がします。

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正直、あまり良いエピソードが思い出せなかったのですが、ゼミのみんなに引き出してもらい、家族がこの話をしていたことを思い出すことができました。
小学生くらいまで遡ると「先生」の真似ごとをしていた自分がいることに今回改めて気づき、ああ、私は、教員である親の影響を受けていたのかもしれない...と、少しばかり照れくさいです。
忘れているような学びの原体験でも、やはり今に影響を与えているのでしょうね。

他のメンバーの学びのエピソードも楽しみです!!

ではでは、残暑が厳しいですが、頑張って乗り切っていきましょう!

【青木翔子】

2015.07.30

【最近気になっているキーワード】「最近接発達領域」の深イイ話

みなさまこんにちは!毎日暑くて何もかもが溶けそうな勢いですね・・・
暑さにめげず、本テーマの最終回はD3佐藤(朝)が担当いたします。

「最近接発達領域(zone of proximal development:以下ZPD)」、私が初めてこの概念に触れた時、「うんうん、あるよね~」的な、軽く分かった気になっていました。本当にごめんなさい!!!当時子育て真っ盛りの私は、実践の中でZPDを実感してたのかもしれません・・・

そして月日が流れ・・・博論執筆の過程において、ヴィゴツキーが提案したZPDの概念は、激突する壁を突破するための強力な拠り所になりました。
今回は、このZPDの私にとっての深イイ話を紹介したいと思います!

■ZPDとは?
ヴィゴツキーは著書の中で、

子どもの発達の最近接領域は、自主的に解決される問題によって規定される子どもの現在の発達水準と、大人に指導された自分よりも知的な仲間と協同したりして子どもが解く問題によって規定される可能的発達水準とのあいだの隔たりのことです[1]。

と述べています。さらにヴィゴツキーは説明を続けます。

発達の再近接領域は、まだ成熟していないが成熟中の過程にある機能、今はまだ萌芽状態にあるけれども明日には成熟するような機能を規定します。現在の発達水準は昨日の発達の成果、発達の結果を特徴づけますが、発達の最近接領域は明日の知的発達を特徴付けます。・・・発達の再近接領域は、明日の発達に何が起こるかを予言することを可能にします[1]。

改めて、子どもの発達の支援を考える際、この視点は大変重要かつ確固たる拠り所になるのだと実感しています。子どもが何を獲得しているか、ではなく、何を学ぶことができるのか、その可能性を近似的に明らかにしようとすること、これは私の研究において、子どもの話す力を測るだけではなく、他者へ伝える語りを習得するための支援方法を模索するアプローチにオーバーラップするものです。


■ZPDからはじまる社会・文化・歴史的視点
ZPDの「誰かに助けられながら、誰かを助けながら」という前提は、人が社会的なつながりの中にあること、社会的に媒介されていることを意味します。ヴィゴツキーは、個人の機能が発達する社会的・文化的・歴史的プロセスに焦点を当てるべきだと述べています[2]。

そして、ヴィゴツキーは文化的活動の蓄積結果である「道具」の使用やこの道具に媒介され(支えられ)ながら精神活動を形成し、技能として高めていくことを通して、歴史・文化の諸変数が人間の発達や精神活動にどのような形で作用しているか明らかにしてきました。その中で、道具としての言葉について言及しています。言葉はコミュニケーションの道具となるとともに人間の思考や認識活動の道具となり、さらには意識全体を変えることにもなることを、ヴィゴツキーは系統発生と個体発生の両面から明らかにしました[3]。

この社会・文化・歴史的な経緯を反映した言葉を、子どもが習得していく過程でZPDが重要な概念となるわけです。

ZPDには、働きかける主体の意図を読み取る子ども側の心の動きも重要とされています。意味も分からないまま言葉の模倣を強制する教育のあり方を「ことば主義」とヴィゴツキーは批判しています。これらの見解は「話す力」に着目している自身の研究にも鋭く突き刺さります。


■レッジョ・エミリア・アプローチに見るZPD
昨今注目されているイタリアレッジョ・エミリア市の幼児教育では、理論的な基礎の1つとしてヴィゴツキーの理論を根底に置いているそうです。創始者のマラグッチは、子どもと大人のあいだでの相互交流と共同性のための豊かな可能性を開く重要なものとしてZPDに触れています[4]。

有名な「ディノザウルス・プロジェクト(※)」で保育者ロベルタは、子ども自身に情報を与えること、子ども同士が関わりあう機会を提供しました。ロベルタが具体的に行ったこととして下記が挙げられています[5]。

・注意して聞くこと-待つこと
・グループの討論で焦点となることについての個々の考えを探し出すこと
・子どもがしたことや考えたこと、決めたりしたことを思い出すように援助すること
・子どもに情報やアイディアを提供すること
・子どもの思考が外にデないようにして社会的・認知的な過程が続くように十分介入すること

これらはまさにZPDに働きかける方法、「足場づくり(scaffolding)」の素晴らしい一例と捉えることができます。子どもが複数いれば、子どものZPDもまた複数あり、適切に働きかけをするためには、働きかけをする側にも多くのことが求められます。子どもの学習環境を考えていくには、子どもからの働きかけを的確に捉え、介入する大人のスキルにも着目すべきことが分かります。

※恐竜に興味を持った子どもたちが恐竜について調べていくうちに、実物大の恐竜を園庭に描く、と いうことに発展したプロジェクト。


■子どもとメディアとZPD
ヴィゴツキーが活躍した時代も、映画や通信機器などメディアの大きな変化があり、ヴィゴツキーは内言との関連でメディア研究に関する議論をしていたそうです。
けれど近年の乳幼児の スマートフォンやタブレット端末用アプリの提供が増加の傾向、「スマフォで子守り」と危惧される状況を目の当りにしたら、どのような議論をされるのでしょうか。

ZPDに働きかける教育、例えば上記のロベルタが行っていた観察や言葉がけを見れば、複雑でスキルが必要とされる業で、 どんなに優秀なエージェントでも現在の技術では到底達成できるものではないことが分かります[6]。乳幼児期のメディア利用は、やはり介在する大人の存在が重要で、巻き込む形態での学習環境デザインを検討していく必要性を感じています。


以上、独断と偏見ですが、ZPDにまつわる深イイ話を紹介しました。改めて振り返ってみると、ZPDは現在進行形で私の前にも存在していることが実感されます。まさに指導教官やゼミメンバーからの働きがけが、博論執筆にチャレンジしている私のZPDにうまく作用している感触があったりしています。

来週からはブログのテーマが変わります。どうぞお楽しみに!!

佐藤朝美



【参考文献】
[1] ヴィゴツキー,L.S.(2003)「『発達の最近接領域』の理論 : 教授・学習過程における子どもの発達」土井捷三・ 神谷栄司(訳).三学出版.
[2] 茂呂雄二, 田島充士, 城間祥子(2011)「社会と文化の心理学ーヴィゴツキーに学ぶ」世界思想社.
[3] ヴィゴツキー,L.S.(2001)「思考と言語」新訳版.柴田義松(訳).新読書社.
[4] バーク,L.E.・ウィンスラー,A. (2001)「ヴィゴツキーの新・幼児教育法―幼児の足場づくり」 田島信元・玉置哲淳・田島啓子(訳).北大路書房.
[5] ヘンドリック,J. (2000)「レッジョ・エミリア保育実践入門―保育者はいま、何を求められているか」石垣恵美子・玉置哲淳(訳).北大路書房.
[6] 松尾豊(2015)「人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの」KADOKAWA/中経出版.

2015.07.24

【最近気になっているキーワード】未来の学びの準備 (Preparation for Future Learning)

皆さま、こんにちは。
M1の原田悠我です。
(ちなみに、今日が誕生日です!!)

昨日は夏学期最後のゼミが無事終わり、夜は納会で焼き肉でした。美味しいお肉を食べつつ研究室の方々とお話をするなかで、研究に対するモチベーションも高まったので夏休みも頑張れそうです。そんなわけで頭の中は完全に夏休みモードなのですが、学生である私には夏休み前最後の壁「試験」があります。大学院生にもなると「持ち込みあり」の試験や「レポート堤出」など試験にも様々なバリエーションがあります。

そこでこの記事では学びの「評価」について、【未来の学びの準備 (Preparation for Future Learning)】をキーワードに考えていきたいと思います。先ほど大学院では様々なバリエーションの試験があると書きましたが、一般に多くの人が想像する試験とは「1人で他の資料などは利用せず問題に向き合い解く」ようなイメージではないでしょうか? 例えば私の友達にアラビア語の授業を受けている人がいるのですが、その人が試験時間中に「インターネットで調べる」ことや「アラビア語を話す留学生を連れてくる」ことはCheating(不正行為)になります(注1)。

■ 隔離された問題解決(Sequestered Problem Solving)
このような新しい問題を解くために他のテキストや友達に助けを求めることができない環境での問題解決は「隔離された問題解決(Sequestered Problem Solving); 以下SPS)」と呼ばれています(Bransford & Schwartz 1999)。SPSはある文脈で学んだことを別の新しい文脈で活かす「転移」の研究で多く利用されてきました(転移について詳しくはBransford et al. 1999,もしくは過去の記事を御覧ください)。このようなSPSのパラダイムでは、以前に学んだことを新しい状況や問題に直接適用できるか(Direct Application; 以下DA)が問われます。

■ 未来の学びの準備 (Preparation for Future Learning)
一方で、SPSやDAとは異なる考え方としてBransford & Schwartz は【未来の学びの準備 (Preparation for Future Learning); 以下PFL)】を提案しています(Bransford & Schwartz 1999)。PFLでは知識が豊かな環境での人々の学びを評価することに焦点が当てられています。例えば新しい社員を雇う場合どんなことを求めるか考えると、会社のことを全て知っていることではなく、リソース(例えば、テキストやコンピュータプログラムや同僚)を利用しながら、学ぶことができることができるかだと思います。つまり、将来の学びに対してより良い準備ができているか(新しい学びのスピードや質)を考えているわけです。

また、Schwartz & Martin はPFLの考えに基づき実践しSPSとPFLの評価の違いを明らかにしました(Schwartz & Martin 2004)。中学3年生の統計の授業で偏差の公式について理解する授業を題材に以下の様な実験を行いました。まず全体を「発見学習(Invent instruction)」をする群と「直接教示(Direct instruction)」をする群に分けます。「発見学習」の群は異なるばらつきが生じる4つのピッチングマシンの結果を元に、ピッチングマシンの信頼性の指標を学習者自身で考案する活動を行いました。さらに各群を、テストに共通するリソースを利用した活動が「ある群(PFL)」と「ない群(SPS)」の2つに分けます。つまり2つの群(発見学習と直接教授)2つの群(共通するリソースあり、なし)の合計4群が作成されました(図1)。

figure1.001.jpgのサムネイル画像

実験の結果は図1のように「発見学習」の後に「(テストに共通する)リソースがある群」が最も転移課題に対する正答率が高かったことがわかります。このことからSchwartz & Martinは「発見学習」が「直接教授」に比べて学ぶ準備ができており、転移課題を解くことができたと考えています(Schwartz & Martin 2004)。また、SPSでは違いが明らかにならなかったことがPFLでは明らかになることも、「(テストに共通する)リソースがある群」と「リソースがない群」を比較することでわかります。(とても綺麗な実験ですね)

このように、DAやSPSを採用した場合には見過ごしがちな転移の根拠をPFLの視点で考えると明らかにすることができます(Schwartz & Martin 2004)。つまり、いままで時間の無駄だと考えられていた活動も、学びの準備だと捉えると効果的な活動なのかも知れません。また、Schwartz & Arenaはより良いPFLのためそして評価のためにGame-based learningが有益な場合があるとしています(Schwartz & Arena 2013)。例えばArena & Schwartz は統計を学ぶためのゲーム「Stats Invaders」を開発しています。Web上で公開されており、ダウンロードして遊ぶことができます(Javaが利用可能なMac or Windowsで動作可能とのこと)。私もやってみたのですがなんとなく懐かしい感じがしました(インベーダーゲームは中学生ぐらいのころ復刻版で遊んだことがあります)。

以上、未来の学びの準備 (Preparation for Future Learning)でした。なんとなく大事だと思っていた学習者主体の活動を上手く評価する方法や教師からの学習資源の提供方法(タイミング)を考えるきっかけになりました。ちなみにですが、なんと驚くべきことに偶然?この記事に何度も登場したSchwartz先生が明日(7月25日)東京大学に来られます。詳しくは【お知らせ】公開研究会「学習テクノロジーの未来」を御覧ください。まぁ実のところ、この記事は公開研究会のための準備(Preparation for Future Meeting)になればいいなと思いながら書きました。公開研究会には私も参加します。当日読者の方とお話できることを楽しみにしています。


次回は佐藤さんの記事です。お楽しみに!!

注1 : 以前で紹介されたNormanもこの問題について言及しています(Norman 2001)。

原田悠我



参考文献
  • Arena, D., and D. L. Schwartz. (2010). Stats Invaders! Learning about Sta- tistics by Playing a Classic Video Game. In Proceedings of the Fifth Inter- national Conference on Foundations of Digital Games, ed. I. Horswill and Y. Pisan, 248-249. New York: ACM.
  • Bransford, J. D., Brown, A. L & Cocking, R. R. (Eds.) (1999). How People Learn: Brain, Mind, Experience, and School. Washington, D.C: National Academy Press(= 森敏昭・秋田喜代美監訳 (2002) 「授業を変える」 北大路書房 ).
  • Bransford, J. D., and D. L. Schwartz. (1999). "Rethinking Transfer: A Simple Proposal with Multiple Implications." Review of Research in Edu- cation 24:61-100.
  • Norman, D. (2001) In Defense of Cheating, Available at http://ubiquity.acm.org/article.cfm?id=1066347
  • Schwartz, D. L., and Arena, D. (2013) Measuring What Matters Most: Choice-Based Assessments for the Digital Age.. The MIT Press.
  • Schwartz, D. L., and T. Martin. 2004. "Inventing to Prepare for Learn- ing: The Hidden Efficiency of Original Student Production in Statistics Instruction." Cognition and Instruction 22:129-184.
  • 山口 悦司 (2008) 学習の転移に関する研究ノート : Bransford & Schwartzの「将来の学習のための準備」について 宮崎大学教育文化学部紀要. 教育科学 19, 1-11
  • 国立教育政策研究所 (2014) 資質や能力の包括的育成に向けた教育課程の基準の原理 Available at http://www.nier.go.jp/05_kenkyu_seika/pdf_seika/h25/2_1_allb.pdf
  • 三宅 芳雄 (2012) 教育心理学特論 (放送大学大学院教材) 放送大学教育振興会

2015.07.17

【最近気になっているキーワード】内発的動機づけと外発的動機づけ

みなさま、こんにちは。M1の長野香織です。
今日は台風の影響で私の地元である"晴れの国岡山"も大雨が降っているようで、とても心配です。
事故も増えますので、みなさま十分にお気をつけください・・・。

さて、子ども、大人ということに関わらず、教育について考えるとき、最も重要かつ難しい課題の1つに「やる気」の問題があると思います。自分がやる気を持って何かの活動に取り組めることはとても素敵なことですよね。そこで、今回は「動機づけ」研究の中から【内発的動機づけ】【外発的動機づけ】という2つのキーワードをピックアップして紹介したいと思います。

*外発的動機と内発的動機の違いとは?
Deci(1975)によると、内発的に動機づけられている活動とは「その活動そのもの以外に何も明らかな報酬がないもの」です。つまり、内発的な意欲を持つ人は"活動そのものから得られる楽しみのためにその活動に取り組んでいる"、"おもしろいから学んでいる"と言うことができます。
子どもの頃に昆虫が好きで夢中になって昆虫図鑑を読んでいたような経験を思い浮かべると理解しやすいかなと思います。

その一方で、外発的に動機づけられている人は、活動そのものから得られる楽しみではなく、その活動の先にある報酬のために取り組んでいるとされています。外発的に動機づけられた活動そのものも楽しめないものだとは限りませんが、それが主たる理由ではない場合に「外発的」という言葉があてはまります。すなわち、活動以外に真の目的があるわけです。たとえば"ご褒美がほしいから学ぶ"とか"怒られたくないから学ぶ"という状態です。憧れの大学に行きたいから受験勉強を頑張る。これも外発的動機づけと言うことができると思います。

一般的に、学習などの高次の活動には、外発的動機づけよりも内発的動機づけの方が効果的であると言われます。その理由の1つとしては、外発的動機づけは、その目的がなくなった時に活動への意欲が低下する可能性があるからです。テストがないと勉強しなくなったり、テストの点数を気にしてテストに出る範囲以外勉強しなかったりするのは、その例ですね。

*どうすれば人は内発的に動機づけられるのか?
内発的動機づけの源として重要だと考えられているのが「知的好奇心(epistemic curiosity)」と「自律性(autonomy)」です。
知的好奇心を提唱したのは、心理学者であり教育学者のブルーナーです。ブルーナーは新しいことを学ぶこと自体に感じるおもしろみや興味を「知的好奇心」と捉えています。このような知的好奇心を活用した学習法として「発見学習」というのがあります。この学習法は主に学校で用いられるもので、教師が体系化された知識を教えるのではなく、生徒自身が自分で仮説を立て、その仮説を検証することによって主体的に学んでいく学習法です。
一方、心理学者であるデシは、内発的動機づけの源として自律性が重要であることを指摘しています。自律性とは、自分が周囲の環境を効果的に処理することができ(自己の有能さ)、自己の欲求をどのように充足するかを自由に決定できる(自己決定)と感じている状態のことです。

これらに基づいて考えると、内発的動機づけを高めるためには、知的好奇心を活かせるような自由な環境をつくっていくことと、その環境の中で自分で欲求を満たす方法を自由に決定できるようにすることが重要ということになります。

一方、外発的動機づけが次第に内発的動機づけに変わっていくこともあります。最初は嫌々始めたことでもだんだん楽しくなって、夢中になれることってありませんか?このように人間が周囲の規範や価値を自分のものとしていくことを、デシは「内在化(internalization)」と呼んだりもしています。

振り返ってみれば私も中学生〜高校生の頃はテストで良い成績を取ると、父母に褒められたり、ご褒美がもらえたりするのが嬉しくて、そのために勉強を一生懸命頑張っていたような記憶があります。大学受験も第一志望の大学に合格するために勉強をしていましたし、塾講師のアルバイトも最初は収入を得るために取り組んでいました。しかし、私は大学生活を送る中で教育に対して関心を持ち、教育に関する本を読んだり、様々な取り組みを調べたりするようになりました。塾講師のお仕事も楽しいから行く、という意識に変化していきました。
このような私の経験も、外発的に動機づけられた要求事項をこなしていったことが、後に内発的に動機づけられた活動ができる機会につながっていった1つの例かなと思います。


以上、簡単ではありますが、内発的動機づけと外発的動機づけについて説明しました。最近では、MOOCのようなサービスも増えてきて、ますます自分の興味関心に基づいて学ぶ機会が増えているように思います。それらをうまく活用して、自分なりの学びを進めていきたいですね。

それでは次回の原田くんの記事もお楽しみに!


【長野香織】

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参考文献
・Deci. E. L. (1975) Intrinsic Motivation. New York: Plenum Press.(=安藤延男・石田梅男訳 『内発的動機づけ:実験社会心理学的アプローチ』、誠信書房)
・Deci. E. L. and Flaste. R. (1995) Why we do what we do. Putnam Publishing Group.(=桜井茂男 監訳、『人を伸ばす力ー内発と自立のすすめー』、新曜社)
・波多野誼余夫 (1980) 自己学習能力を育てる:学校の新しい役割.東京大学出版会
・John M. Keller (2010). Motivational Design for Learning & Performance: The ARCS Model Approach. New York: Springer. (=鈴木克明 監訳、『学習意欲をデザインするーARCSモデルによるインストラクショナルデザインー』、北大路書房)
・中原淳 (2006) 企業内人材育成入門. ダイヤモンド社

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