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2026.10.02

AIとの開発日記 その2:真正な問題にぶつかるためにつくる (D3 田中冴)

D3の田中冴です。

前回の自分の担当ブログでは、AIを使ったシステム開発の過程で気づいたことについて書きました。
AIとの開発日記 (D2 田中冴)
今回は、その延長で、この一年ほど考えていることについて書きます。

今年の4月から大学に就職した関係もあって、AIやコンピュータを使ってものをつくるということについて、話したり実演したりさせていただく機会が増えてきました。
そこでつくづく考えることになったのが、「コンピュータのこと何もわかってないのにAIにコード書かせて作っちゃっていいの?」的な問いへの回答です。
私はこれまで、「とりあえずつくってみたらいいんじゃない? (プログラミングの教科書を1ページ目から読み始めて挫折するくらいなら) 」という立場をとってきました。
しかし、改めて「なぜつくるところからはじめるべきなのか」と問い直されると、結構説明が難しく、その再説明を試み続けてきた半年でした。

現状私が言葉にしたのは、「つくることは、形にして、考え進められるようにする作業である」、ということです。
頭の中にある「こういうものが欲しい」は、最初は曖昧で、条件の抜けや具体性の欠如に気付きにくいものです。
実際に動くものが⽬の前に出ると、「ここが違う」「これ要らない」「この場合はどうなる?」と、具体的に考えられるようになります。
AIの出してきたダメな叩き台に「こうではなくこうだ」と細かくNoを説明しているうちに、遡及的に自分のつくりたいものを知ることになります。
少なくとも、AIに叩き台を出させるまでは知らなかった場所には進むことができます。
AIは必要条件ではないけど、ものづくりのループの中に入り込むことを、たしかに易しくしてくれる道具であると思います。

ナオミ・S・バロン(2025)『書くことのメディア史―AIは人間の言語能力に何をもたらすのか』古屋美登里・山口真果訳、亜紀書房 より
たとえば、上がってしまった車のバッテリーをジャンプスタートさせる場合を想像してみてほしい。バッテリーが動かなければエンジンは回転しない。人間が文章を書くときにこれと同じことがおきる。それがアイデアの枯渇やスランプだ。バッテリーや人間の脳が動き出すためのきっかけを与えるには、外部から刺激を与えなければならない。つまり手を貸してくれる親切なドライバーのバッテリーであり、AIツールだ。

制御やシミュレーションの領域では、⼈間が処理のループに⼊り込むことを、「Human in the Loop」と表現します。
今回の話に引きつければ、AIの出力を自分の目的に照らして確かめ、必要な修正を返し続けるプロセスに近いでしょう。
最近では、ライティングの領域からも参照されています(e.g. 既出のバロン 2025)。
AIと⼀緒に新しいものをつくりだすとき、それはアプリでもライティングでも、こういうデザインのループに⼊り込むというプロセスが発⽣しえます。
AIとものをつくるうえで難しいのは、⽬的と判断を⼿放さず、ものづくりのループの中に⾃分を置き続けることだったりします。

つくりこむループに入り込めると、コンピュータやAIの知識が求められる場⾯に遭遇しやすくなるため、「必要に応じて学ぶ」ということが可能になります。
実際この半年間、プログラミングに初めて触れ、デザインループに入り込む過程で、ファイルの概念やコード中の括弧の対応関係などを結果的に知ることになった人たちに複数遭遇しました。

ダニエル・シュワルツ(2026)「適応的熟達化への道:『Efficiency(効率)』と『Innovation(創造)』の融合」国立教育政策研究所 令和8年度教育研究公開シンポジウム「生成AI時代の学校教育と教師~人間の果たすべき役割~」国際招待講演 より(動画中の和訳より引用)
彼女は学生に伝統的な設計図(ブループリント)をデザインさせました。次にAIを使って設計図を立体的な建物に変換させます。そして彼女は学生を実際に車椅子に乗せ自分たちの建物に入らせました。すると学生はトイレに行く難しさや階段付近で方向転換する難しさに気づくのです。設計図をつくる活動だけでは十分ではありません。AIツールを使うことで解決すべきリアルな問題に「ぶつかる」ことができます。

私はPCを、人間の思考のシミュレーションの道具(ミスれる環境?)だと捉えているので、順当な使い方かなとも思っています。
なお、ミスが大勢を巻き込む大事故になるような環境で「結果的に学ぶ」を前提にするのは割に合わないので、ミスっても破滅しない程度には安全を確保して欲しいです。

ナシーム・ニコラス・タレブ(2019)『身銭を切れ―「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質』望月衛監訳・千葉敏生訳、ダイヤモンド社 より
ベンチから飛び降りるのは健康や骨にとっていいだろうが、ビルの20階から飛び降りるのは違う。小さなケガは体によいだろうが、取り返しのつかない大きなケガは違う。(中略)リスクと破滅は別のもんなのだ。

さて、今年の6月に国際学習科学会に参加した際、Shayan Doroudi氏の講演で「知的徳(intellectual virtues)」という言葉を知りました。
知的徳は、哲学、特に「よりよく知る人とはどのような人か」を考える徳認識論などで論じられてきた概念らしいです。
Doroudi氏らは、知的謙虚さ・知的好奇心・知的誠実さ・知的粘り強さといった知的徳を、生成AI時代の教育につなげる研究を進めているようです。
AIとものをつくって考えることが当たり前になっていくにつれ、強烈な主体性というか、屈強な知的体力というか、なにかそういう知的な責任を、強風の中でも自分の手から離さない粘り強さの価値が、これまで以上に高まる時代になるかもしれないですね。

三宅なほみ(編)(1985)『教室にマイコンをもちこむ前に』新曜社 より
教師が教室にコンピュータを持ち込む場合、 教師の側に、 「これがしたい、これをするのにはどうしてもコンピュータがいる」という強烈な主体性がなければ、コンピュータは教室で活きないでしょう。

ただ、これを「"主体性"なり"知的徳"が、ある人はある」という議論に落ち着けては、建設的に考え進めることが難しいようにも思います。
人は必要が生じれば賢く学ぶのだと仮定すると、"主体性"なり"知的徳"が発揮されやすい、真正な問題状況をいかに準備するかが、自分の考えるべきことなのかなと考え始めています。
以上、最近考えていることでした。

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