2008.07.25
山内研に入るきっかけを紹介する、【山内研と私】。
第5回は、大城が担当いたします。
突然ですが、
「私は今どうしてここにいるのだろう?」
を考えること、どれくらいありますか?
「ここ」のレベルは様々だと思いますが、
私の場合は、学部単位、研究室単位、
あるいはもっと小さな友人コミュニティなどについて
ふと思いを馳せる機会が結構あります。
そしてそれらを考えるたびに、自分はその道や選択肢を選ぶに当たって、
言葉にできるような、明確な理由を持っていないということに気づき、
しばしば呆然としてしまいます。
「あなたはどうして○○に来たの?」
「あなたはどうして△△を選んだの?」
そんな質問を実際に、人からふと投げかけられても、
「…」
と、詰まった挙句に
「なんとなく…」
ということが多いのです。
この「なんとなく」という言葉は、
とてもいい加減な言葉だと思われるかもしれません。
しかし、その時の直感そのままに体や心が動いてしまう
としか言いようがないことは、確かにあると思います。
自分が山内研に入ったきっかけは、
まさにその意味での「なんとなく」だと思います。
現実に起こったきっかけを挙げるとすれば、
学部時代に受けた山内先生の授業や、
その時自分が持っていた研究テーマになるのかもしれません。
けれど、それらは決して私にとっての決め手ではありませんでした。
私が山内研に入りたいと思ったきっかけは、
「なんとなく」としか言いようがないのです。
ふっと引き寄せられて、しかも「ここ以外にない!」
と思ってしまい、そして今幸運にもここにいます。
山内先生と山内研には何か不思議な魅力があるのかもしれません。
今も、私はそれを「なんとなく」感じ続けています。
「○○なところが良い!」「△△」だから良い!」
というように、はっきりと言葉にはできないのですが、
研究室へ向かう足が、いつだってウキウキとするのは確かです。
私の中の「なんとなく」には、なぜか自信があります。
それをいつか言葉にできるかどうかはわかりません。
それをあえて言葉にすることもないのかもしれません。
ただ、山内研という今「ここ」にいる私が、
今度はほかの誰かにとって「なんとなく」魅力を感じてもらえるような、
そんな存在になっていけたら、とても素敵なことだなぁと思います。
ということで、研究頑張ろう…。
[大城 明緒]
2008.07.18
山内研に入るきっかけを紹介する、【山内研と私】。
第4回は、池尻が担当いたします。
以前にも書きましたが、私は将来歴史の教師になろうと思って、この20年近くを生きてきました。ところが大学で勉強を続けるうちに、現在の歴史教育への「違和感」を抱くことが多くなりました。
私は専門性を重視するために、教育学部ではなく歴史学部に進んでいたのですが、そこで、思った以上に歴史学の深さを知ってしまいました。高校までの暗記とは全然違い、何故こういう結果になったのかを考えることで、現代にも通じるような理論めいたものが見えてくることが面白くて仕方なかったのです。だからこそ、子ども達に暗記中心の歴史を今まで通り教えることに違和感を持ったのです。
そこで、「よし、この役に立つ歴史学を子ども達に教えよう!」と思ったが最後、私の人生は路頭にさまようことになります。
まず、歴史学部から異端扱いをされ始めました。歴史学部では過去に何が起こったのかを追究するものだという風潮が強い学部のため、歴史学のスキルを子どもに教えようと考える私の居場所は無かったのです。
「じゃあ、教育学部に行ってみよう」と思い、色々な教授のゼミに参加したのですが、どうもしっくり来ない。歴史科教育の授業では、相変わらず知識の教え方ばかり追求しているし、教育学の授業はどこか現実味がないような気がしていました。案の定、ここにも私の居場所はありませんでした。
大学への期待が絶望に変わり、もうこうなったらすぐに教師になろうと思って教員採用試験の勉強を始めた頃、二つ目の「違和感」が出始めました。それは、社会に出たこともなく、学問も中途半端な新卒教師が一体子ども達に何を教えられるのかというものでした。経験不足は否めませんでした。
そこで、「就職活動をしてまずは社会を見てみよう」と思って就職活動を始めたのですが、「弊社を選んだ理由は?」に対する自分の答えが薄っぺらなものだとすぐに自覚しました。電車の窓に映るスーツ姿の自分を見て、一体何をしているのかとため息がもれ、就職をすることへの「違和感」が出てきました。やっぱり研究をしようかと大学に戻るも、私の考える歴史教育研究に合った居場所はありませんでした。
この3つの違和感のどれかを受け入れれば楽だったのかもしれません。でもどうしてもそれが出来ず、将来どうしようかと思いつつ、例のごとく教育学部の授業を受けている時に、山内先生に会いました。別に事前に山内先生を知っていたわけでもなかったのですが、実践的で柔軟な教育方法を聞いているうちに、「この人は他の教授と何かが違う」と思い、先生の所属を探っているうちに情報学環という大学院があるということを知りました。
どんな大学院かと先生に聞くと、「色んな研究者がいます。いわゆる学際です。新しくて面白いことなら何を研究しても良いんですよ」と説明され、「お金を稼ぎたいなら企業へ。好きな研究をしたいなら私の研究室に来てください」と笑顔で言われました。ああ、良かった。ようやく3つの違和感を受け入れずに生きていける道が見えたと思いました。諦めずに粘ってみるものだとつくづく感じました。
ただ、山内研に限らず情報学環全体に当てはまることだと思うのですが、基本的に好きなことをさせてくれる反面、学際という性質上最終的には誰にも頼ることができません。違和感を受け入れないからこそ、他人と生きる道が違うからこそ、この道で生きていくには相当の覚悟が必要になります。この覚悟が自分にあるのかと数ヶ月頭を悩ましたこともありましたが、「それでも行く!自分の人生の責任は自分で取る!」と決意したことが、私が山内研に入ることになった最後の一歩だったような気がします。
こう考えると、情報学環山内研への受験のプロセスは自分を大きく成長させてくれました。
ちょうど今日が情報学環の願書締切日です。受験者、特に学生の皆さんはまだ揺れている人も多いと思いますが、妥協せず悩みに悩んで、自分と話しながら後悔しない道を模索してみて下さい。きっと人生の大きな財産になると思います。健闘を祈っています。
[池尻良平]
2008.07.10
私たちが山内研に到るまでの個人的な軌跡をご紹介する「山内研と私」の第3回。わたくし林向達(りん こうたつ)が書かせていただきます。
どこから語り始めるかによって,私の分だけでも3回シリーズくらいになってしまいそうで,困ってしまいます。そもそも私は,教育学のカリキュラム論で修士号を得て,しがない短大教員を続けていました。もともとは教員養成の学部を卒業したので,本来ならば小学校の先生になっているはずでしたが,人生はすんなりといかないものです。
子どもたちに囲まれて過ごすとばかり思っていた人生が,最も縁がないと思われた女子学生たちに囲まれて過ごす人生となり,就職したばかりの数年は研究室に引きこもりがちでしたが,まあなんとか距離感もつかめて教育活動にいそしんでいたわけです。学生と職場のために働いてお給料をもらえることが,とても嬉しかった。
教育活動が仕事とはいえ,高等教育の教職員です。その職を続けていくということは,学術研究活動を続けていくことでもあります。私は教育に貢献したいと思い教育学を学び,そしてちょこちょこと学会発表も続けていましたが,大学院時代に貯めた「知識の貯金」がすでにすり減っていたのは分かっていました。
同時に,時は高等教育機関の生き残り競争の時代へと突入。教職員としてのいろんな仕事で多忙さが増していき,実質的には教職員から事務職員になっている自分にも,気がつき始めていました。
このまま疲弊した自分を眺めながら短大教員としての人生を続けていくべきかどうか。ここに書くには,あまりにも重たい問い掛けをあれこれ繰り返しながら,自分の進退を悩み考えていました。
私が考えるのを止めて,行動によって決着をつけたのは,その短大に雇ってもらってから9年後のこと。私は初めての退職願を出しました。
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話は少しさかのぼり,就職してお給料をもらい羽振りがよくなって,遠出も気兼ねなくできるようになった1998年頃のこと。私は,千葉の幕張メッセで行なわれている「Macworld EXPO/Tokyo」というアップル社「マック」の祭典(展示会やカンファレンスのイベント)に出かけました。
そのイベントでは,教育に関するカンファレンスがいくつか開設されており,「あと5年!すべての学校がインターネットにつながる日」というテーマのパネルディスカッションもありました。私はそれに参加し,客席から舞台の上で議論を続ける2人の登壇者の姿を見ることになります。
舞台では,登壇者の一人が自分でも議論をしながら,同時に「インスピレーション」というマッピングソフトを使って発言を記録,視覚化したそのマップ画面をそのまま大スクリーンに映していたのが印象的でした。その演出やスタイルに感銘を受け,その後私がインスピレーションを購入したのは言うまでもありません。
そして,そのインスピレーションを操りながら議論を進めていたのが山内祐平先生。それが山内先生との最初の出会いでした。もちろん登壇者と観客という遠い遠い出会いであり,それは祭とともに過ぎ去った関係でもあります。
それから山内先生と再会するのは,世紀をまたいだ7年後のことになります。
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教育学の世界でのほほんと過ごしていた私に,教育工学の世界が忍び寄ったのは2001年のことでした。いま思えば,それがすべての始まりだったのかも知れません。
世の中では,ときどき変な出来事が起こります。原因はいろいろでしょう。勘違いのせいかも知れないし,単純ミスのせいかも知れない。あるいは誰かの茶目っ気,いたずら心のせいで起こるかも知れない。とにかく,あの晩秋,変な出来事が起こりました。日本教育工学会大会のシンポジウム登壇者に私が呼ばれるという出来事が…。
鹿児島で行なわれたシンポジウムでの私は,完全にアウェイでした。大学院では,不幸な出来事が重なって心理学や教育工学に背を向けて過ごしたため,それらに対処する術をまともに持っていませんでした。必死で話を合わせようとしていましたが,フロアは噛み合っていないと感じているのではないか。しゃべりながら凹みゆく自分がそこにいました。
シンポジウムを終えると,ほとんど知人のいない学会はジャングルでした。直後「お話とてもよかったです」と挨拶をしてくださった人達に感謝しつつも,ジャングルの中で自分のダメさを繰り返し繰り返し考えていました。
それ以来,ジャングルの記憶は離れることなく,私は意識して日々を過ごすことになります。その日々の中で,中原淳先生の活躍に触れ,ブログで紹介されている研究会のことなど知るようになります。そしていつしか,東京大学で催される研究会に参加して勉強したいと思うようになったのです。
その願いが叶い,山内先生と再会するのは,ジャングルの中で不安にさいなまれてから4年後のことになります。
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もともとのカリキュラム論に対する研究関心は,情報化の時代において,カリキュラムの情報化を考えなければならないという関心へと移っていきます。それはカリキュラムマネジメントの情報化なのかも知れないし,カリキュラムデータベースの開発のことかも知れない。いずれにしても,カリキュラムの情報化をテーマに研究したいという気持ちがずっと前からありました。
けれども,教育学の範疇で考えるのには限界がある。かといって,ばりばりの工学で考えるのは,どうも納得できない。その中間どころでものを考えたいという思いもありました。
いまなら学際情報学府という場所は,そういう中間どころを志向する者にとっては大変有り難い大学院だと分かるのですが,不思議と当時そんなことは考えも気付きもしていませんでした。
そして山内研に入ってから,あらためて心理学や教育工学の世界と出会い直す機会も与えられ,当初考えていた研究テーマもあれこれと見直すこととなりました。現在は,授業記録に関することがらを対象にして修士論文が書けるよう研究を進めているところです。これがいずれカリキュラムの情報化に結びつくことを期待しながら。
大学院に入るにあたって,職を退くべきだったかどうか。私自身の答えは「選択した選択肢の方が正解」というものです。しかし,本当のところどちらが良かったのか…いまでもときどき考えてしまいます。
職を退いた後に参加した学府入試説明会で,先輩が「職に就いている人は辞めない方がいいです」と,きっぱりアドバイスしていたのを聞いて,私はガックリしましたが,それはそれで重要なアドバイスであるのは確かです。
大事なのは,自分の選択によって引き起こされる出来事に接する覚悟があるかどうか。それが大きいのではないかと思います。そして常に前向き楽観的に考えること。
社会人として働きながら問題に出会い,その研究をしたいと思い始める人達もいると思います。もしかしたらそのような問題の研究は,学際情報学府で進めた方がよい場合も多いでしょう。社会人大学院生として,あるいは社会人をやめた大学院生として,学際情報学府を研究場所に選んでくれる人が今後も増えるといいなと思います。
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2006年の春,私は仕事を辞めて東京に住み始めます。それからも東京大学の研究会などに参加し続け,山内先生とも少しずつお話をするようになりました。ある日の研究会,懇親会会場に向かうため差し掛かった本郷三丁目交差点の交番前,「受けてみてはどうですか」と山内先生から声を掛けられて,私は学際情報学府の受験を志します。
たくさん周りに迷惑をかけつつ,それでいてたくさんの方々の支えがあって,こうして山内研で研究できること,有り難く思います。
私が長々と書いてきたのは,個人的な思い出話でしかありません。そして月並みですが,ここから私が言いたいことは,どんなものであろうが一定の姿勢を持ち続けて歩み続ければ,どこか出口につながるということ。そういう,ごく当たり前のことでしかありません。ただ,それこそが問題でもあります。
山内研での私は,あまり褒められた院生ではありません。どこか経験から来る甘さが入り込んでしまいます。使い方によっては持ち味ですが,間違えれば惰性に流れる契機でもあります。つまり,積み重ねてきてしまったある種の経験が,私自身の最大の敵なのだということです。
私はまた考えるのを止めて,行動によって決着をつけなくてはならないのだと思います。年々重たくなる腰を上げながら…。
[林 向達]
2008.07.08
7月1日から4日まで、ウィーンで開かれた教育とメディアに関する国際学会 ED Media 2008に参加しました。
会場はウィーン工科大学でした。ウィーンの中心部に位置し、王宮やオペラ座なども近くにあります。
東京大学からもBEATやMEETのプロジェクト研究など多くの発表が行われました。写真は博士課程2年の佐藤朝美さんの発表の様子です。
来年のED Mediaはハワイで開催されます。詳しい情報は、下記のURLから手に入ります。
http://www.aace.org/conf/cities/Honolulu/
2008.07.04
第二回目の「山内研と私」は、M2牧村が担当いたします。
このブログでも何度か書きましたが、以前は修士課程まで6年間、都市や建築について勉強していました。
先輩に誘われて「ワークショップ」と出会ったのは学部生の頃です。元々子どもが好きだったこともあり、子ども向けのワークショップと聞いて喜んで手伝いに行きました。
それ以来、ミュージアムや市の施設、小学校、自分が卒園した幼稚園など、色々な場所でワークショップに関わるようになりました。
私のワークショップとの出会いは、参加ではなく、企画、ファシリテーションからだったのです。と言ってもその頃はファシリテーターなどという言葉は知りませんでしたが。
1度目のM1になった時、ナンシー・フィンレイ先生という指導教官のデザインしたワークショップに参加したのが、初めてワークショップの参加者になった経験でした。
そこで自分自身が様々な体験をし、ワークショップというデザインされた仮設的な環境で感じたり気づいたことが、日常生活にも大きな影響を与えていると感じるようになりました。
それが、私の中で「ワークショップ」と「学び」がつながった出来事でした。
ただ、私の中で、そのワークショップから学んだ事が何かということを、ハッキリと言葉で表すことができずにいました。
そんな中、その体験を本にし、展覧会をするという企画が持ち上がり、参加者同士で1年間かけて話し合い、その中で次第にわかってくることもありました。同じ体験をしていても人によって受け取り方が異なるということもわかってきました。
そのことから、ワークショップでの学びは、何か決まった学ぶべきものを受け取るという種類のものではないということ、また、長い時間をかけて効いてくるということもあり得るのだということを実感しました。
ワークショップを始めた当初は、ある空間の中に、人が「いきいきと居る」状況を作ることが、単純に楽しくてワークショップをしていました。人がいきいきと活動することでその空間に命が吹き込まれるということに、なぜかものすごく心ひかれてしまったのです。
それがワークショップに参加した体験から「学び」と結びつき、私が「いきいきと人が居る」と感じていた状況と、「学び」には何か目には見えない関係があるのではないかと思うようになりました。
そして次第に、「学び」そのものではなくて、「学びのきっかけ」をたくさんちりばめた場を作りたいと考えるようになりました。
ちょうど、1度目のM1で、1度目の就職活動をしていた時期のことです。
そんなことを考えていたからか、どんな会社を見ても、なんだかピンと来ません。私のやりたいことができる会社なんてきっとないんだろうと思っていた頃、偶然見つけたのが「学際情報学府」というところでした。
ワークショップについて、研究できる場所がある。
居場所があった!という思いでした。
そして現在、学びのきっかけがちりばめられた場がどのようにしてデザインされていくのか、ワークショップ実践家の方の秘密をさぐるべく、研究をしています。
私の経歴を初めて聞く人には、建築学科からなぜ?!と必ず聞かれます。でも、私の中ではこんな風に繋がっているのです。
今までに体験した全てのことが集約して、山内研と私の関係ができています。山内研に出会わなかったら、これまで挙げたような体験は一つ一つの点だったかもしれません。山内研と出会って、それが線でつながっていることがわかりました。でもまだこんがらがっています。修士論文を書き終える頃に、それがきれいに解けているといいなと思います。
[牧村真帆]
2008.07.01
5月10日に開催しました情報学環・福武ホールオープニング記念シンポジウム「世界の一元化に抗して文化に何ができるか」の模様が、NHKのBS2で放映されます。福武ホールの紹介映像の中に、研究室のゼミの様子なども少し入っているそうです。
7月6日(日)15:30 〜16:24 BS2 BSフォーラム
東京大学情報学環の拠点として、2008年に新しく建設された福武ホールで行われたシンポジウムのもようをおくる。東大をはじめとして、日本の大学は大きな岐路に立っている。新しい大学の役割、社会が期待する人材をどう育てるのか、模索が続いている。その中で今回のシンポジウムでは、「アート」が旧来の大学の学部の枠を超えて、新しい知の領域を創造する力となるのではないかという問題提起がなされた。