2008.07.10
私たちが山内研に到るまでの個人的な軌跡をご紹介する「山内研と私」の第3回。わたくし林向達(りん こうたつ)が書かせていただきます。
どこから語り始めるかによって,私の分だけでも3回シリーズくらいになってしまいそうで,困ってしまいます。そもそも私は,教育学のカリキュラム論で修士号を得て,しがない短大教員を続けていました。もともとは教員養成の学部を卒業したので,本来ならば小学校の先生になっているはずでしたが,人生はすんなりといかないものです。
子どもたちに囲まれて過ごすとばかり思っていた人生が,最も縁がないと思われた女子学生たちに囲まれて過ごす人生となり,就職したばかりの数年は研究室に引きこもりがちでしたが,まあなんとか距離感もつかめて教育活動にいそしんでいたわけです。学生と職場のために働いてお給料をもらえることが,とても嬉しかった。
教育活動が仕事とはいえ,高等教育の教職員です。その職を続けていくということは,学術研究活動を続けていくことでもあります。私は教育に貢献したいと思い教育学を学び,そしてちょこちょこと学会発表も続けていましたが,大学院時代に貯めた「知識の貯金」がすでにすり減っていたのは分かっていました。
同時に,時は高等教育機関の生き残り競争の時代へと突入。教職員としてのいろんな仕事で多忙さが増していき,実質的には教職員から事務職員になっている自分にも,気がつき始めていました。
このまま疲弊した自分を眺めながら短大教員としての人生を続けていくべきかどうか。ここに書くには,あまりにも重たい問い掛けをあれこれ繰り返しながら,自分の進退を悩み考えていました。
私が考えるのを止めて,行動によって決着をつけたのは,その短大に雇ってもらってから9年後のこと。私は初めての退職願を出しました。
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話は少しさかのぼり,就職してお給料をもらい羽振りがよくなって,遠出も気兼ねなくできるようになった1998年頃のこと。私は,千葉の幕張メッセで行なわれている「Macworld EXPO/Tokyo」というアップル社「マック」の祭典(展示会やカンファレンスのイベント)に出かけました。
そのイベントでは,教育に関するカンファレンスがいくつか開設されており,「あと5年!すべての学校がインターネットにつながる日」というテーマのパネルディスカッションもありました。私はそれに参加し,客席から舞台の上で議論を続ける2人の登壇者の姿を見ることになります。
舞台では,登壇者の一人が自分でも議論をしながら,同時に「インスピレーション」というマッピングソフトを使って発言を記録,視覚化したそのマップ画面をそのまま大スクリーンに映していたのが印象的でした。その演出やスタイルに感銘を受け,その後私がインスピレーションを購入したのは言うまでもありません。
そして,そのインスピレーションを操りながら議論を進めていたのが山内祐平先生。それが山内先生との最初の出会いでした。もちろん登壇者と観客という遠い遠い出会いであり,それは祭とともに過ぎ去った関係でもあります。
それから山内先生と再会するのは,世紀をまたいだ7年後のことになります。
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教育学の世界でのほほんと過ごしていた私に,教育工学の世界が忍び寄ったのは2001年のことでした。いま思えば,それがすべての始まりだったのかも知れません。
世の中では,ときどき変な出来事が起こります。原因はいろいろでしょう。勘違いのせいかも知れないし,単純ミスのせいかも知れない。あるいは誰かの茶目っ気,いたずら心のせいで起こるかも知れない。とにかく,あの晩秋,変な出来事が起こりました。日本教育工学会大会のシンポジウム登壇者に私が呼ばれるという出来事が…。
鹿児島で行なわれたシンポジウムでの私は,完全にアウェイでした。大学院では,不幸な出来事が重なって心理学や教育工学に背を向けて過ごしたため,それらに対処する術をまともに持っていませんでした。必死で話を合わせようとしていましたが,フロアは噛み合っていないと感じているのではないか。しゃべりながら凹みゆく自分がそこにいました。
シンポジウムを終えると,ほとんど知人のいない学会はジャングルでした。直後「お話とてもよかったです」と挨拶をしてくださった人達に感謝しつつも,ジャングルの中で自分のダメさを繰り返し繰り返し考えていました。
それ以来,ジャングルの記憶は離れることなく,私は意識して日々を過ごすことになります。その日々の中で,中原淳先生の活躍に触れ,ブログで紹介されている研究会のことなど知るようになります。そしていつしか,東京大学で催される研究会に参加して勉強したいと思うようになったのです。
その願いが叶い,山内先生と再会するのは,ジャングルの中で不安にさいなまれてから4年後のことになります。
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もともとのカリキュラム論に対する研究関心は,情報化の時代において,カリキュラムの情報化を考えなければならないという関心へと移っていきます。それはカリキュラムマネジメントの情報化なのかも知れないし,カリキュラムデータベースの開発のことかも知れない。いずれにしても,カリキュラムの情報化をテーマに研究したいという気持ちがずっと前からありました。
けれども,教育学の範疇で考えるのには限界がある。かといって,ばりばりの工学で考えるのは,どうも納得できない。その中間どころでものを考えたいという思いもありました。
いまなら学際情報学府という場所は,そういう中間どころを志向する者にとっては大変有り難い大学院だと分かるのですが,不思議と当時そんなことは考えも気付きもしていませんでした。
そして山内研に入ってから,あらためて心理学や教育工学の世界と出会い直す機会も与えられ,当初考えていた研究テーマもあれこれと見直すこととなりました。現在は,授業記録に関することがらを対象にして修士論文が書けるよう研究を進めているところです。これがいずれカリキュラムの情報化に結びつくことを期待しながら。
大学院に入るにあたって,職を退くべきだったかどうか。私自身の答えは「選択した選択肢の方が正解」というものです。しかし,本当のところどちらが良かったのか…いまでもときどき考えてしまいます。
職を退いた後に参加した学府入試説明会で,先輩が「職に就いている人は辞めない方がいいです」と,きっぱりアドバイスしていたのを聞いて,私はガックリしましたが,それはそれで重要なアドバイスであるのは確かです。
大事なのは,自分の選択によって引き起こされる出来事に接する覚悟があるかどうか。それが大きいのではないかと思います。そして常に前向き楽観的に考えること。
社会人として働きながら問題に出会い,その研究をしたいと思い始める人達もいると思います。もしかしたらそのような問題の研究は,学際情報学府で進めた方がよい場合も多いでしょう。社会人大学院生として,あるいは社会人をやめた大学院生として,学際情報学府を研究場所に選んでくれる人が今後も増えるといいなと思います。
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2006年の春,私は仕事を辞めて東京に住み始めます。それからも東京大学の研究会などに参加し続け,山内先生とも少しずつお話をするようになりました。ある日の研究会,懇親会会場に向かうため差し掛かった本郷三丁目交差点の交番前,「受けてみてはどうですか」と山内先生から声を掛けられて,私は学際情報学府の受験を志します。
たくさん周りに迷惑をかけつつ,それでいてたくさんの方々の支えがあって,こうして山内研で研究できること,有り難く思います。
私が長々と書いてきたのは,個人的な思い出話でしかありません。そして月並みですが,ここから私が言いたいことは,どんなものであろうが一定の姿勢を持ち続けて歩み続ければ,どこか出口につながるということ。そういう,ごく当たり前のことでしかありません。ただ,それこそが問題でもあります。
山内研での私は,あまり褒められた院生ではありません。どこか経験から来る甘さが入り込んでしまいます。使い方によっては持ち味ですが,間違えれば惰性に流れる契機でもあります。つまり,積み重ねてきてしまったある種の経験が,私自身の最大の敵なのだということです。
私はまた考えるのを止めて,行動によって決着をつけなくてはならないのだと思います。年々重たくなる腰を上げながら…。
[林 向達]