2021.05.13
みなさんこんにちは!M2の渡辺です。
M2のお二人に引き続き、自分の研究テーマについて書いていきたいと思います。
ものすごくざっくりいうと、
人が好きなもの、面白いと感じるもの≒興味関心について研究をしています。
ーーー
人が自分の好きなものだったり、面白いと思っているものに関して話をしているのを聞いたり、そういうことについてお話をするのが好きです。
これは自分が元からそういう性格というよりも、ないものねだりみたいなところがあった気がします。
自分はいわゆる「やりたいこと」だったり、「好きなこと」があんまりない人でした。
大学受験の時は、自分のやりたいことが特になくて、いろんな分野を広く学べる学部ばかりを選んでいました。
大学生活の前半くらいまでは特に熱中したこともなかったし、これといって学びたい学問もない。
でも、自分の周りには、これが「好き」だったり、これが「面白い」だったりを共有してくれる人がちらほらいて、
アニメ好きな友人からこのアニメのここがいい!みたいな話を聞いたり、
経営学の研究をしている友人から面白い本を紹介してもらったり、
写真を撮るのが好きな友人と写真を撮りにいきながら話をしたり、
面白かったニュース記事をシェアしあったり、
そういうことの積み重ねで、自分自身の好きなものが少しづつできていったような感覚があります。
ある時期から、意識的に自分の好きなことを少しでも話すようにしようと思って、そこからはコミュニケーションの取り方がちょっと変わった気がします。
一方的に話を聞くだけでなく、自分がちょっとでも興味関心のあるものに対して、積極的に話をするようになってからは、相手の興味関心が自分に移るような、互いに乗り入れるようなそういうことがよく起きている気がしました。
そういうお互いの興味関心が、混じりあう・交じり合うようなコミュニケーションについて研究をしています。
誰かが熱く語る、これがいい!、ここが面白い!みたいな話。
どうして、それに興味を持ったんだろうとか、それの何が好きなの?何が面白いの?
僕はこれに興味関心あるんですけど、実はこれと近いのかもですね!
そういった会話の中で、少しずつお互いの概念にズレや重なりが生まれる。
「興味」という観点でコミュニケーションを捉え直してみると、自分の興味関心について他人に共有することや話すことは、お互いの興味関心を深めることにつながるのでは?
それってどうやったらできるだろうか?、どういう場でできるのだろうか?
みたいな部分を掘っていきながら、自分のリサーチクエスチョンが出来上がっています。
好きなことを好きだと言ったりすることは怖いこともありますし、時には好きが行き過ぎてしまい、「呪い」のようになってしまうこともあるけれど、そういうところも含めて、自分は「好き」ということに興味関心があります。
好きなものは、周りから分けてもらうことができて、周りに分けることもできるんじゃないだろうか?
だとしたら、それはどのようにやるのが良いのだろうか?
手探りをしていきながら、昔の自分が知って喜ぶような、聞いて喜ぶような、そんなことができたらいいなと。
ーーー
こんなとっ散らかった思考をなんとかまとめていって、いろんな所を歩き回って、色々な場所、色々な人を巡りながら、今のテーマに至ります。
沢山の人が歩いてきた道の上で、自分の感じていることや感覚に自分なりのラベルをつけていき、剥がしていき、いろんなところを散歩しながら、ときには100mを全力で駆け抜けたり、一定のペースでマラソンをしたりしながら、ゴールのような場所、(もしかしたら、そこは給水所かもしれないけれど)、にたどり着けたらなと思います。
【渡辺拓実】
2021.05.05
M2の岩澤直美です。
入学してあっという間に1年が経ち、いつの間にか修論を執筆する学年になってしまいました。
私の研究テーマは、異文化間における関係性構築への積極的な態度を形成する学習プログラムの開発です。
異文化間接触の摩擦を乗り越えるためには対話や理解を深めようと向き合うこと大事ですが、この態度をどのように高められるのかを考え続けています。
このテーマを研究したいと思った原点は、私自身のルーツにあります。
日本とチェコのハーフとしてチェコで生まれ、生後数ヶ月で来日。大阪、ハンガリー、ドイツを行き来しながら育ちました。
家庭内での両親の文化の違い、転校するたびに変わる学校や地域文化の違いに、時に戸惑い、時に学ばされることが多々ありました。
幼少期。
私はラーメンの食べ方がわかりませんでした。
日本人の父は音を出しながらすすって食べます。母は静かに食べます。
私の目の前で、それぞれが食べ方の文化や、個人的感情について話し合っています。
子どもながらにその対話を聞きながら、「私はどちらの主張がしっくりくるだろう」と考え込んでいたのを覚えています。
小学校時代。
私は容姿が異なったために、常に「外国人」扱い。
学校でも、習い事でも、近所の人にも、英語を話すように声をかけられます。
「ああ、私は日本人じゃないんだ」と疎外感を感じるようになりました。
また、私はチェコの文化で、生後3日でピアスをあけてもらい、代々受け継がれてきたピアスを常につけていました。
通うことになった大阪の公立小学校では、ピアスをつけてくることを認めた先例はありません。
親が先生と話し合ったことで正式には認められたものの、私はクラスメイトにちゃんと説明することでできなかったため、みんなが「なんであの子だけ」という不満から私に当たってしまったのも無理はないのかもしれません。その後、勇気を出して話しをしてみたら、理解してもらうことができました。初めて、対話の重要性を理解しました。
中学時代。
ドイツのインターナショナルスクールに転向しました。
日本では外国人扱いされていたときとは一転して、今度は「日本人扱い」。
「日本人なら、寿司作れるよね、ランチなんで寿司じゃないの?」
「日本人はみんなMath得意だよね。宿題も忘れないし。ナオミ、今度教えてよ」
などと言われるたびに、「私は苦手なんだけどな…」と、当時は後ろめたく感じていました。
どこに行っても偏見はあるんだなあ、と実感すると同時に、このような偏見は無知が原因なのではないかと思うようになりました。
大人になった今でも、不動産屋さんで「外国人用の物件は扱っていません」と断られたり、飲食店で「この時期外国人お断りしています」と言われたりすることはあります。
どんな環境でも、多様な容姿の人や、多様な文化的背景を持つ人がいます。
誰も排除されない、抑圧されない、尊重される社会には、やっぱり違いを尊重することと対話を重ねることが大事なのではないかと感じたのです。
異文化間の摩擦や、それを乗り越えようとする努力を、面倒だと思う気持ちは、きっと自然なものです。
でも、せっかくなら異文化間の接触を楽しみ、交流による新たな視点や創造性を楽しめるといいなあと感じています。
そのような態度や価値観を形成するための教育には、何が必要なんだろう。
このような経緯と問いから、今の研究テーマに至りました。
まだ答えは出ていません。
年明けには、何か示唆を提示できるように、しっかりと研究を進めたいと思います。
M2 岩澤直美