2015.09.24
こんにちは。M1の杉山です。ここしばらく山内研ブログでは【学びのアルバムを開いて】をテーマに、学生たちの学びの経験を振り返っています。今回は、私の学びのアルバムを開いてみます。
私が高校生のとき。神戸の中高一貫校に通っていた頃を振り返ってみると、あらゆる生活が学校の中で完結していたように思います。毎日朝に登校して、日が暮れるとまっすぐ家に帰る。週に2回バドミントン部の活動はあるけど、ほかの部活ほど練習がたくさんあるわけでもない。なまじ進学校だったので、塾に行かなくてもなんとかなりそうだ。街にくり出すような友達がいるわけでもない。そういう状況だったので、むかしを振り返ろうとしても、どうにも中身が薄いなと思わざるをえないところがあります。くそ真面目だったなって、今になって気づきます。
大学に入って東京に出てみると、みんな何かしら「自分の活動」をもっていることに驚きました。スポーツや芸術活動に打ち込んでいる人もいれば、国際交流やビジネスに入れ込んでいる人もいる。「意識高い(笑)」なんて嘲る向きもありましたが、自分の大半の時間をかけてまでやりたいことがあるというのは、素直に羨ましいと思いました。それに加えて、彼らとしゃべってみると、みんな高校生のころから、やっていたことがあると言うのですね。中高の同級生と会ったときに聞いてみても、やっぱり、こういうことをやっていたと話してくれる。旅をしたり、古着屋に通いつめたり。それを聞いて、自分の高校時代って何だったのだろうという気分になります。
だから、学びのアルバムを開こうとしたら学校の話になるのだろうか、と考えるのですが、しかしそういう気にもならないのです。今でこそ山内研という学習をテーマにした環境に居ますが、学校に特段の思入れがあるどころか、関心があるのは、学校外の学びです。そうなるのは、自分が学校外の活動をしてこなかったぶん、今になって求めているからという気もします。でもどこかで、自分にとっての学校の外の学びのイメージがあるからこそ、こんな関心をもつのではないかとも思います。
そこで、はたと気づいて、アルバムをめくるわけです。私が高校生のとき、当たり前のように通っていて、ことさらに意識していなかった場所があることを。それが、口笛文庫でした。
そこは通学路の途中にある古書店で、いかにもな古い本から最近の絵本まで置いているのですが、どこかスタイリッシュな佇まいです。知的だけど、厳めしくない雰囲気に惹かれた私は、下校途中に、あるいは休日に、口笛文庫に通っていました。
古い本を読み漁ることを通じて、私は色んな時代を旅していたという感覚があります。明治や大正期の小説を読んで、その時代の人々の暮らしぶりに思いを馳せたり、昭和の本から、自分が今生きている世界が、どんな時間の積み重ねの上に成り立っているのかを発見したり。50年前、100年前に出版された本をこの手にとれる(しかも小遣いの範囲内で!)ということは、私にとって世界の深さを身をもって体験できることを意味していました。
口笛文庫に通うようになって、ひたすら本を読みました。相変わらず家と学校を往復する日々でしたが、本を携えてどこまでも行っていたのかもしれません。私にとって、古い本に埋もれた経験は、ある意味での学びであったという気がします。特に何かを得たり、勉強に生きたりしたとは思いませんが、でも、世界とは多少ながら出会えていたなと、思います。
大学・大学院と東京で過ごして、今は直接世界と関わる必要性を痛感していますが、あまり活動的ではなかった自分にとって口笛文庫の存在は、間違いなく学びのアルバムの1ページでした。
次回のブログもお楽しみに。
【杉山昂平】