2016.09.03

【山内研っぽい1冊】『民主主義と教育(上)』

こんにちは!修士1年の花嶋 陽です。
夏休みは、結局海にもプールにも花火にも行けず、気付いたらあと半分しかないという事実に、世の中の侘び寂びを感じる今日この頃です。
やりたいことがありすぎて、逆にどれも選べず何もできないという摩訶不思議ワールドから脱兎のごとく脱出することができるよう、妥協せず蛇行せず、現状を打破していきたいと思います。

さて、今回のブログのテーマは【山内研っぽい1冊】ということで、カバンに忍ばせていたら「山内研かな?」と思われるような1冊を紹介するというシリーズです。山内研っぽいということで同輩・先輩方が「学習環境」に関連した書籍を紹介している中、天邪鬼の私は少し変化球で臨みたいと思います。というのも「多様性」もまた山内研の特徴では?というテーゼを示さんがためです。決して合宿での学者レビューの参考資料を使い回ししているわけではありません。

ということで、私が紹介するのはJ.デューイ著作の『民主主義と教育(上)』という本です。
デューイは言わずと知れた19世紀後半〜20世紀前半のアメリカにおける哲学を支えた巨頭の一人です。彼は、あらゆる知識や観念は、疑わしい状況や不確かな状況の中での問題を解決する仮説として機能し、実際に「試みて」、その有効性を「検証する」ことによって確かな知識や観念を獲得するということを唱えました。そして、このような認識論に基づいて教育に関しても様々な理論を提唱しており、その内容は現在でも「経験学習」などの形で受け継がれています。

さて、今回この本をご紹介している理由は、「なぜ勉強しなければならないのか?」という誰もが答えに窮する問いについて考えるのに役立つと思ったからです。

というのも、「なぜ勉強しなければならないのか?」という問いについての思考はいくつかの前提が無意識のうちに滑り込んでいます。すなわち、教育とは何で、学校とは何で、学ぶとはどういうことかということです。しかし、それらの前提は所与ではなく、作り出されたものであり、時代によって異なります。それらの前提を問い直すことで、自分の思考を相対化し、それによって自分の思考をより客観的な根拠の上に構築することができるはずです。
そういった諸前提を問い直す上での視座を与えてくれるのがこの本です。前置きが長くなりましたが、この本の中で印象に残った文章を抜粋してご紹介としたいと思います。

「学校教育の目的は、成長を保障する諸能力を組織することによって教育の継続を保障することだ、ということである。生活そのものから学ぼうとする意欲、そして、すべての人がその生活の過程で学ぶことになるように生活の諸条件をととのえようとする意欲こそ、学校教育のもっとも立派な成果なのである。(p.89)」

「教育とは経験を絶え間なく再組織ないし改造することである、(中略)経験のどの段階でもその段階において実際に学びとられたものこそがその経験の価値を成すのだという意味で、(中略)幼児期も青年期も成人の生活もみな同様の教育適齢段階にあるのである。(p127)」

「ニュートンが彼の引力理論を思いついたとき、彼の考えの創造的側面はその資料の中には見出されなかった。それらの資料は、よく知られているものであって、それらの多くは平凡な事ー太陽、月、惑星、重さ、距離、質量、数の平方ーだったのである。これらのものは独創的な考えではなくて、それらは確証されている事実だったのである。彼の独創性は、これらのよく知られている知識を、未知の関係の中に導入することによって、利用したことにあったのである。(p252)」

観念も、観念として、ある人から他の人へと伝達することは決してできない、ということである。それが語られるとき、それは、語られた人にとっては、もう一つの与えられた事実なのであって、観念ではないのである。(中略)問題の情況と直接に取り組み、自分自身の解決法を捜し、見出すことによってのみ、彼は思考するのである。(p254)」

今日、教育環境はその「目的」においても「手段」においても大変革の時期にあります。
そのような中で我々は、目新しさ、「学習効果」、経済性といったものに目を奪われて、その「本質」を見失いがちです。
マクロにおいてもミクロにおいても、子供達の学習環境を整える上で、
「学びとは何であるか、そしてどうあるべきか。」
についての信念を持たねばならないのではないかと思っております。

【花嶋陽】

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