2013.03.07
こんにちは.修士1年の吉川遼です.
本日,2日間にわたって静岡で開かれた山内研春合宿が終わり,先ほど東京に戻ってきました.
静岡では1日目に静岡大学の益川弘如先生のご案内のもと,付属図書館のラーニングコモンズのご紹介や,図書館職員の方や大学院生との意見交換,益川先生ご自身の研究についてもご紹介いただき,非常に充実した視察となりました.
また2日目の今日は本年度修了されるM2の方々の修士研究と研究の経緯,研究に対する「想い」をM1である僕らがプレゼンする学習プログラムを行いました.
今回先輩方の研究について修論やインタビューを通してより深く知ることで,自身の研究の進め方について貴重な指針が得られたと同時に,これだけのものが1年後自らの手によって編み出すことが出来るのか,という不安も同時に生起しました.
現在のブログテーマである「今年を振り返る」になぞらえて,第8回の今回は修士1年の吉川遼が自身の研究・思考の紆余曲折について回顧しつつ,今後の方向性についても触れていきたいと思います.お付き合い頂けたら幸いです.
■背景情報とは?--学習に対するイメージの貧困
学部時代に,科学館の展示物にまつわる様々な情報を提示するシステムを開発していたことから,僕は物事の背後に存在する情報,すなわちある事象の時間軸上における「変遷の情報」を提示するシステムを開発することで学習に貢献できるのではないのか,と考えていました.
しかし「なぜ背景を提示することで理解に結びつくのか」という問いに対しては明確に答えることが出来ずにいました.また,具体的な対象や分野といったものも想定できず,周囲からは「卒業研究と何が違うのか」と厳しいお言葉もいただきました.
結局のところ,「対象となる分野」と「そこで問題となっている事象」の2つに僕は1年間頭を悩ませることになりました.毎回のゼミ発表で背景情報を元に様々な分野での応用可能性について提案してきましたが,なかなかいいものは生まれませんでした.
自身の中に「背景を知ることで学習が深まる」という学習のイメージは当初よりあったものの,ロジックとしては非常に薄いものであり,実際にどの分野・場面・状況において何が問題となっているか,そこで学習の障壁として何が存在しているのか,といったイメージが全く膨らまず,毎回のゼミで提案していたアイデアも「学習」とはほど遠いものでした.
今までのゼミ資料を見返してみると,自身の経験値の少なさに帰因する具体的な状況設定の貧困さに,ただただ恥ずかしさばかりがこみ上げてきます.
■背景情報の再解釈
しかしながら「背景情報」とは一体何なのか,と日々自問自答し続けて行く中で,物事の背景とは,単純に時間軸上に存在する物事単体で完結する情報に限らず,その物事にまつわる様々なヒト・モノ・コトとの相互作用の中に生起するものなのではないか,と考えるようになりました.
例えば,研究室の先輩でもある牧村さんの研究で扱っているワークショップ実践家のアイデア生成過程においては,「空間体験を通した実際のシーンの予測」「物理的空間のみならずそこに起こる状況を敏感に捉える」といった実践家独特の空間の捉え方が存在します.
当初の僕が想定していた背景情報の範囲だとおそらく「会場の仕組みや構造」といったものを可視化する,という程度に留まっていたでしょうが,相互作用,という点から考えると熟達家の視線・行動・発話といった一個人のアクティビティが環境との相互作用の中で生起しており,そういったアクティビティこそが背景情報だと捉えることが可能になってきます.
そしてこの数ヶ月は,外界との相互作用の中で生まれるこのような熟達家の暗黙知的な要素を背景情報として扱い,その情報を可視化することでどの分野のどの対象に一番効果があるのかを様々な文献にあたり考えてきました.
■方法が一番効いてくる対象に落とし込む
現在,楽器熟達家の所作をゴースト表示し,初学者がそれを見ながら熟達家の動作を模倣することで熟達家の暗黙知的な要素を学習できるようなシステムを開発しようと考えています.
ネクタイの結び方からギター,手話といった独学になりがちな自学自習の場面においては,元来手本が鏡像で提示される場合が多く,混乱することが多いですが,自身の視点から見ることで,そのような混乱も解消され,熟達家特有の暗黙知的な要素が獲得できるのではないかと考えています.
しかしながら,まだまだ自身の仮説に基づくところが多く,これから更なる文献レビュー,現場における問題の把握が不可欠であることは否めません.
■修士の折り返し--2年という時間のありがたみ
日々の授業や雑務,ゼミの発表,合宿の準備などに追われ,月並みな表現ではありますが,「気づけば1年が終わっていた」というのが正直な感想です.
ですが,この1年は様々な分野の方とお話しさせて頂く機会をいただき,また授業でワークショップを主催したり,ゼミ合宿でデューイやヴィゴツキーといった著名な教育学者について理解を深めるなど,狭窄な視野が一気に広がった1年でした.
そして,これだけ色々なものに触れ,ああでもないこうでもないと悶々としつつも考えられる時間を頂けることが,人生・社会という枠組みに当てはめて考えたときに,それがどれだけ貴重なのかを痛感した1年でもありました.
修士課程を1年終えたとはいえ,自身の至らなさからなかなか思うようにいかないことや,自身の伝えたい上手く表現できない苦しい日々が続きますが,まずは自分の目の前にある,自分がやるべきことを一つ一つ真剣に,そして全力で取り組んでいきたいと思います.
それでは.
【吉川遼】