2012.01.23

【読書感想文】じぶん・この不思議な存在


みなさまこんにちは。修士1年の山田小百合です。
読書感想文シリーズ、今週は遅ればせながら私が担当いたします!

ところで、「人生を変えるような出会い」というものが、誰しもあると思うのですが、
人生に影響を与えるような、いいなと思う本、みなさんはどこで出会いますか?

本屋さんでたまたま目に入った、人に紹介された、誰かのレビューを読んで気になった...などなど様々あると思います。

今日ご紹介したい本は、「じぶん・この不思議な存在」です。
著者の鷲田清一さんは、昨年の夏まで大阪大学の総長を務め、任期満了に伴い、退任後、現在は大谷大学文学部で教鞭を取られているそうです。2010年の情報学環・学際情報学府10周年記念シンポジウムにも鷲田さんが来場されていました。

さて、本の紹介の前に「私とこの本との出会い」について少しお話させてください。
私とこの本との出会いは本屋さんでも、誰かの紹介でもなく、高校の現代文の授業で出会いました。現代文の教科書に出てきたこの文章に出会ったのが、高校1年生、当時16歳です。そういう意味でも、この本の内容について少なからず知っている人は多いのではと思います。現代文の授業では一部しか取り上げられないので、本1冊全部読みたいと思った私は、大学入学後にこの本を購入しました。今でも時々読み返す本の1つです。

当時の私は本を読むことが好きではありませんでした。本が好きでないとなると、読書感想文も上手に書けないので、読書感想文なんてもってのほか。初めてこの本の一部が現代文の教科書に出てきた当時の私も、もちろんちんぷんかんぷんで、テストで良い点をとるために授業を受けていました。

さらに中学時代に遡った話をすると、当時の私は人間関係が全然うまくいきませんでした。人間関係の悩みも多く、学校も休みがちでしたが、同時に、なぜかふと思ったのです。

「この人たちは、生まれた時から『こいつ超うぜー』とかいう感情を持ちあわせていたわけじゃない。例えば小さいころこの人と出会っていたら自然とかかわりあっていただろうなあ。月日が経ち、自分の周りの人や環境から影響を受けて、好き嫌いを自分の中につくっていくのだろうなあ。それは私も同じだ。」

家庭環境や、関わってきた人、触れてきた情報などなど、様々なんだなと思うと、「ヒトがどのようにできあがるのか」ということを考えることは、ものすごく重要なことなんじゃないか、ということを大まじめに考えていたのが中2の山田小百合(9年前か...)でした。このときのことが今の自分に少なからず影響を与えていることは間違いないです。

こうして高校生になった私は、この本に授業で出会うのですが、ちんぷんかんぷんのまま時は経ち...また人間関係に悩むできごとがありました。
「わたし」はいつも「他の人」と違っていて、違っているせいで、嫌われてしまう。

そのとき、当時生徒会がきっかけでお世話になっていた国語のS先生に相談することにしました。すると「去年お前これ読んだやろうが」と、彼が取り出したのが現代文の教科書であり、その中にある「じぶん・この不思議な存在」のページを開いてみせたのでした。

"どうして、お前が、他人と違うっちゅーことを、咎められるか。それは、アタリマエのことを言うけど、お前が、他人と違うけえや。"

私たちは「自分」という存在を分かった気になっていますが、それは果たしてそうなのでしょうか。私はこの本を読むときに、不確かで脆い「自分」に出会います。

「自分」を想像するとき、誰しも具体的な自分というイメージを、まずは自分の身体イメージに頼っているはずです。そこでこんな文章がでてきます。

−−−
たとえば、身体をもたない〈わたし〉がありえないことはあまりに明白であるのに、それでは〈わたし〉と身体とはどのような関係にあるのかと問うてみると、じぶんがほとんどなんの確かな答えももっていないことに気付かされる。
−−−

「自分」の身体がどんどん交換されていくことを想像すると、身体は「自分」にとってかけがえのない存在であるはずなのに、身体と「自分」の関係が曖昧になっていくことに気付かされます。

不思議なことに、私たちは日常の中で「自分」という存在を当たり前のように捉えていますが、実際に私たちは直接、自分の顔も、背中も直視することができません。鏡やカメラなどを介してみることはあるかもしれませんが、結局直視はできない。むしろ「他人」のほうが、私の背中や顔を直視でき、「自分」の見えないところをよく見ることができる。
不思議ですよね、自分はいつも隣り合わせのようで、一番「自分」のことを知っているのは自分なのに、とても不思議な存在に見えてきます。

さらに長いのですが、この流れるような文章を切り離すのが惜しく感じるので、一気に一部引用します。

−−−
 わたしたちは、目の前にあるものを、それはなにであるかと解釈し、区分けしながら生きている。たとえば現実と非現実、じぶんとじぶんでないもの、生きているものと死んだもの、よいこととわるいこと、おとなと子ども、男性と女性......。こうした区分けのしかたを他のひとたちと共有しているとき、わたしたちはじぶんを「ふつう」(ノーマル、ナチュラル)の人間だと感じる。そして、わたしたちが共有している意味の分割線を混乱させたり、不明にしたり、無視したりする存在に出会ったとき、(中略)彼らを、別の世界に生きているひとというより、わたしたちの同じこの世界にいながら「ふつう」でないひととみなしてしまう。

 ではなぜ、わたしたちは意味の境界にこのようにヒステリックに固執するのだろう。それは、わたしたちが「〜である/〜でない」というしかたでしかじぶんを感じ、理解することができないからではないだろうか。そしてそういう意味の分割のなかにうまくじぶんを挿入できないとき、いったいじぶんはだれなのかという、その存在の輪郭が失われてしまうからではないだろうか。つまり、それほどまでに〈わたし〉はもろく、不可解な存在であるからではないだろうか。
−−−

誰かと区別をすると同時に、自分の存在を感じることになる。きっと「自分とはなんぞや」と考えると、自然とそこに「他人」を感じているということに気付かされます。さらに引用を続けます。

−−−
 わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれをじぶんとは異なるもの(他者)とみなしているかということと、背中あわせになっていることがわかる。ところが、わたしがそれによって他者との差異を確認するその意味の軸線がわたしたちによって共有されているところでは、この軸線がその形成の歴史を忘却して、「自然」的なものとみなされ(ここから「自然」が規範としての意味をもちはじめる)、それを共有しないものは、わたしたちではないもの=「ふつう」でないものとして否認される。「ふつう」ということは世界の解釈の一体系を共有しているということにすぎないにもかかわらず、である。わたしたちがじぶんの存在にかたちをあたえていくこのプロセスは、だから同時に、きわめて政治的なプロセスでもある。それは、つねに解釈の基準を提示し、それを共有できないものは排除し、それをはずれるものには欠陥とか劣性といった否定的なまなざしのもとでみずからを見ることを強いる。

 わたしはだれかという問いは、わたしはだれを〈非−わたし〉として差異化(=差別)することによってわたしでありえているのか、という問いと一体をなしている。わたしもあなたも同じ「人間」であるという言いかたは、〈わたし〉が一定の差別(逆差別も含めて)のうえにはじめてなりたつ存在にすぎないことをかえって覆い隠してしまうおそれがある。
−−−

そしてその区別は、集団の中でさらに形成されてゆきます。
この文章こそ、教科書の中にでてきていた文章でした。ここで高校時代の私に戻ります。

"「自分」というものは、こうして様々な線引きの中で創り上げられている。人間という不思議な存在の脆さ、弱さを知っているだけでも、お前はもう少し生きやすくならんか。"

中学くらいからふわふわと考えていることが、そして今の現状が、こんなにシンプルに表現されているなんて!なんだか特別なことを誰よりも先に知れたような気がして、とても嬉しくなったのです。
そして、そんな自分と真剣に向き合ってくれたS先生の優しさに対して、とてもありがたいと思ったと同時に、放課後のもう下校時間をすぎた職員室で、大泣きをしたのが、当時の私です。(笑)

そしてこの日を境に、私は本を読むようになりました。ちなみにその先生とは学部の時の教育実習で数年ぶりに再会し、お酒を飲みながら語りました。
人もそうだし、本もそうだし、出会いというものは、とても不思議な出来事ですね。

そして、この本を読むと、思い出すことがもう1つあります。

昨年、FLEDGEのディレクターを務めていた時、「箱男ワークショップ」を実施したグループがいました。安部公房の小説「箱男」のように、ダンボールを被って街を歩き、そのとき感じたことを文章にして披露するというもの。何人もの人が本郷三丁目界隈をダンボールを纏い街を歩き、おみせに入ったり、うろうろしている姿は滑稽なものでした。当時Twitterでも「箱かぶった人がいっぱいいる」というようなツイートが目立ち、写メを撮られ、写メもツイートされていたくらいです。

そのワークショップの振り返りの日、参加者の感想の中で「最初は箱を被って歩くことで人の目も気になるし緊張するのだけど、そのうち箱をかぶっていることが気にならなくなる」といった感想があったような記憶があります。
箱をかぶったままコンビニで買い物をするのは目立つし恥ずかしいはず。しかしその状態が自然と「自分」に取り込まれていく。
「自分」は一体、どこへ行ってしまうのでしょうか。

研究活動は、色々な人、サンプルから、共通することを見つけ、とりあげ、構造化したりパターンを見出したりします。これはすごく大切なことで、社会的に意義のあることだと思います。だから私は研究活動をしています。
同時に私たちは「違う存在」であることを、忘れてはいけないなと感じさせてくれます。一人ひとりを見るということについて考えさせられるのです。

就職活動でも「自己分析」なんて言いますが、自分の中に問い続けたところで「自分」というものはわからない。私たちは「他人」を経由して「自分」を認識する。そして「他人」と比較しても、ある側面の自分は認識できますが、結局それはある種一部であり、「自分」というものを結論づけることができない、とても不確かで脆い存在なのだなと気付かされるのです。

何かに困ったとき、悩んだ時、この本を読んで「自分」というものの輪郭を曖昧にさせてゆく。この瞬間がなんだか気持ちよかったりするのです。

そして、自分という不思議な存在についてわからなくなる。
「私」は、一体、何者なのでしょうか。

山田小百合

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