2012.01.16
みなさま、こんにちは。
今週は、修士1年の末 橘花が担当をさせていただきます。
前回の呉さんの教養の高さが伺える記事の更新後に私が書くのはなんだか恐縮ですが、
早速ご紹介していきたいと思います。
私が紹介するのは、『森は海の恋人』です。
筆者の畠山重篤さんは、宮城県気仙沼市唐桑で牡蠣養殖業を営む傍ら、豊かな海を取り戻すために、平成元年より漁民による広葉樹の植林活動「森は海の恋人」運動を続けています。
この運動は、気仙沼市在住の歌人、熊谷龍子の句
「森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく」
より名付けられた「森は海の恋人」というキャッチフレーズと共に全国にその運動の輪が広がり、漁民による森づくり、森と川と海を一体としてとらえる環境認識、子供たちへの環境教育のシンボル的な運動として位置づけられています。
本書では、畠山さんの目から見た気仙沼市唐桑の漁民文化が描かれており、その中で海と森の密接な関係について言及されています。
海水と河川水の交わる汽水域での生物生産にとって重要な養分は、上流の森の腐葉土を通過した河川水、地下水が運んでくることに漁民たちが気づきました。気仙沼湾に注ぐ大川の上流域の岩手県室根村(現一関市室根町)の室根山に地元の人々の理解のもと、広葉樹の森を作り始めたのでした。これが運動の発端でした。
こういった取り組みの中にある背景として、本書では、ふるさとを想う気持ちや、漁民として海と森の中に生きる伝統や文化を表現しています。本書には短いストーリーがいくつも並んでいます。それは筆者の少年時代の体験であったり、漁民としての生活の知恵であったり、共に生きる魚や鳥などの生き物の話であったりします。
このように伝統や文化を書き残していくことは、地域の歴史にとって、また地域の活性化などにも通じる非常に価値のあることなのではないかと思います。
今日の技術の発展は目覚ましいものであり、数十年で生活様式も漁業のスタイルも大きく変わりました。しかし、こうして気仙沼の歴史が畠山さんの手によって描かれていくことで、昔ながらの知恵をつなぎ残していくことは、地域民にとっての文化やアイデンティティになるのかもしれません。
気仙沼での漁業といった地域に根付いた伝統や歴史、昔ながらの知恵、これらは歴史の教科書には載っていません。授業ではなかなか学ぶことができないものです。
しかし私は、それらを継承していくことに意義があると信じています。私は現在、オーラル・ヒストリーに関する研究を行っておりますが、実際に社会学などでも、従来の政治を中心とした「いわゆる歴史」だけではなく、マイノリティや女性、大衆、地域といったこれまで歴史として目を向けられなかった人々の声を聞き取りそれを残していく「オーラル・ヒストリー」が広がっています。オーラル・ヒストリーは、インタビューを通した口述記録を歴史に残していくものですが、本書のようなエッセイのようなものや日記なども重要な資料と言えます。
さて、『森は海の恋人』の物語の舞台は、気仙沼地方。
先の東日本大震災で津波被害を受けた場所です。私も先日、現地の様子の調査に同行したのですが、誰もいない何もない、全てが跡形もなくなっている光景は、なんとも言いがたいものでした。
全てが哀しみに覆われた中、漁業にも当然のごとく影響が及びました。
例えば、牡蠣養殖場はほとんどが流されてしまいました。津波で生き残った種牡蠣はせいぜい数%で、収穫安定までに最低3年はかかるそうです。牡蠣産業は壊滅的な危機状況を迎えたのでした。
そこでいち早く復興支援に名乗り出たのがフランスでした。
ご存知フランス料理にもよく牡蠣が出てくるように、牡蠣はフランスの国民的な料理の一つです。それだけではなく、フランスが気仙沼を応援するには深い理由があったのです。
本書にもあるように、約 50 年前、フランスのブルターニュ地方の牡蠣が病気による壊滅的被害に遭った際に、宮城県産の種牡蠣がフランスに渡り、ブルターニュのみならずフランスの牡蠣業界を救ったという背景があります。現在フランスで作られているほとんどが、宮城県産の牡蠣と同じ種類なのだとか。またそれ以来今日に至るまでブルターニュと宮城県の友好的な関係が続いているそうです。
今回のフランスの活動も「日本へのお返し」とうたって支援活動が行われています。歴史は、人や地域、国を巻き込んで連鎖していきます。みなさんの住む街や地域にも、そこに根ざした独自の伝統や文化そして歴史は静かに眠っているのではないでしょうか。是非一度向き合ってみてください。
今回の深い哀しみも語り継がれていくのであろうし、語り継いでいくべきだと思います。歴史が積み重なっていき、それを教訓として活かすことはとても大切なことです。
震災地の復興を願っています。