2012.01.05
明けましておめでとうございます。
修士1年の呉重恩です。
日頃の読書の感想文‐-今週はわたしを担当させていただきます。
最近、日頃に研究分野に関わる本を読んでいませんので、少し脱線したものを書きます。
読後感というのはかなり主観性の強いものです。読み手は自分自身の性格や価値観に合っているようなところに深く共感するからです。恐ろしいのは、多くの人はつい調子に乗ってその共感点を何倍も何倍も拡大して、自分の性格をシェピングしていくことです。もし共感が出来たところは、世の中の道徳基準や社会倫理によって「良い」ならば、それはいくら影響を受けても人格が良い方向性へ形付けられていくのでしょう。しかしそうではなければ、「毒害」される可能性もあります。
それはわたし自身の場合を振り返ってみればよく分かったことです。
中学生の頃、約2年間の間にずっとダフネ・デュ・モーリアの『レベッカ』に関する評論文を書いていました。直感でエミリー・ブロンテの『嵐が丘』に類似した作品だったと思い、やはりイギリス北部の湿度の高い憂鬱な雰囲気がかなり気に入ったから、つい同じタイプの本を読んでしまいます。そしてこのようなややゴシック風の哀愁が丁度自分の性格の暗い一面――ヒステリーに合致したので、共感を思いました。さらにその共感を実際生活の中で倍に拡大し、少女の哀愁をアピールしようと思って、わざと夜中の大雨の中で傘を差さずに散歩するような気持ち悪い行動をしました。
高校生の頃、戦争史にはまって、『三国志』『東周列国伝』『戦国策』『五代十国演義』ばかり読んでいて、何も「良い」点を吸収せず、自分の性格に潜んだ反抗性の言い訳になれそうな内容ばかりに共感しました。開国者は農民であれば絶対滅国の結末に決まっているという結論を勝手につけて、所詮農民の乱は一時的に政府を倒して政権を奪ったとしても愚かで乱暴な統治しかできないから農民階層の政治運動を徹底的に否定した感想文を書きました。そして同文でMao(do not ask me who he is!!)を同じく愚かな農民と定義したから、学校側に「思想不端正」の理由で入党申請を拒否されました。(このことは絶対後悔しません。「もし海外に出たことのある人であれば事情が変わる」と揺れたことがありますが、結局ポル・ポトみたいなフランスから帰国した優秀な留学生でも、赤色クメールのような暴行を犯したわけですから、とりあえず当時の結論を堅持します。もちろん、農民自体を愚かなものと定義したいわけではないです――自分の先祖の中にも必ず農民がいますから、忤逆の罪は被りたくないです。あくまでも政権の正当性と妥当性に関わる論述です。)
大学生の頃、格好を付けるため、プルーストの『失われた時を求めて』全巻をあきらめたい気持ちを抑えしつつ読み終わりました。結局「無意識流派」の基本手法など何も捉えられず、文中のフランス上流社会の贅沢なライフスタイルと作家の神経質ばかりに注目していました。無論また共感ができたからです。そして、プルーストを読んでいる1年間の生活費はものすごく莫大だったから両親に怒られました。
この時期読むのが多いのはオスカー・ワイルドの作品です。今回は彼の『ドリアン・グレイの肖像』の読後感を書くことにします。
本書はの粗筋:
[画家のバジルのモデルになったドリアン・グレイは大変な美青年である。ドリアンは、警句家ヘンリー卿のさまざまな逆説的見識に共鳴しながら、悪徳を重ねる。ある天才女優と恋に落ちるが、彼女が本当の恋を知ったがゆえに舞台で恋する女を演じられなくなったため、ドリアンは彼女に興味を持てなくなる。そのことを本人に直言してしまうと、彼女は自殺らしき死に至る。
ドリアンは自分の美の衰えを恐れる。ところが、彼は老けずに美しいままである。そのかわり、彼が年齢や悪徳を重ねると、バジルの描いたドリアンの肖像画が、その分だけ醜くなっていく。]
以上、wikipediaから直接コピーしてきたものです。
主要人物は画家のバジルと美少年のドリアンとヘンリー卿三人です。感想文を書くといえば、この三人と三人の間の関係性を読み解くのは必然的になります。
本書に関する学術論文と軽い風のエッセイがいっぱいありますが、ほぼフロイトの心的装置理論におけるエス、自我、超自我をそれぞれ三人の人物と対照しながらその関係性を解明しているものが多いです。
とてもそのような読み方には合流できません。『ドリアン・グレイの肖像』の出版は、心的装置理論より約30年先のことですから、まず時点的には適格ではないです。そしてフロイト理論で解析した結果はワイルド自身がこの作品に対する解釈と矛盾しているのです。現代の心理学理論を使って作者の本意と作品の寓意を読み解くのはある意味的に筋が通っていて格好良いかもしれませんが、よっぽと厳密な論証ができなければ牽強付会の恐れがありますので、作者本人の解釈を尊重した上に作品を作者の実生活に還元させることを忘れないほうがいいと思います。
どんな読み解き方でも、本書がオスカー・ワイルド本人を描写する自伝みたいなものだ、という観点は変わりません。こうすると、この本の感想は、ワイルドその人に対する理解と切り替えればいいと思います。
一言でワイルドがどんな人だかといいますと、同時代の者がいない人です。
彼が生きたのはヴイクトリア時代です。当然人間は入力された様々なメッセージや情報はその時代までのものに限っているのでしょう。しかしワイルドが表出しいてすべては、生きていた社会から入力されたものによって出力すべきだったものを超過しているものだと理解していいです。ワイルドの服装から、言動、審美、価値観までのすべてを見ればまるで未来から来た人間のようです。そのようなワイルドは、むしろ未来人がタイムマシンに乗って過去のヴイクトリア時代に飛び入った人間で、何事においても人より一歩早く理解し、全ての現象を鋭い目で素早く洞察できるわけです。そして未来の事象を当時の人々に分かってもらう渇望をヴイクトリア時代に一発的に投げ出してしまったのです。このようなワイルドは、当時の社会において、派手な人間や変人だと見られ、心を知ってくれる者のいない孤独な人間でした。もちろん、死後はかなりの支持者やファンが出たそうです。だいたい「派手+変人+孤独=天才」という式がその人が死んだ途端に自動的に効用されるみたいで、ワイルドも例外になりませんでした。
ワイルド自身の解釈だと、バジルは真実のワイルドで、ヘンリー卿は世間の人達の目の中のワイルドで、ドリアンはワイルドがなりなくてなれなかった理想中の自身だそうです。
確かにこの作品はオスカー・ワイルドの人格と彼が抱えていた夢、価値観を表出しただけではなく、彼の心に隠された部分までもプロットの発展によって段々と目の前に展開され、そして彼の実生活に織り込みながらその美しい且つ滑稽な一生はモンタージュの形で映されていました。
このモンタージュの続きのなかで、以下の幾つかの断片を拾い、それを手がかりとして『ドリアングレイの肖像』ないしオスカー・ワイルドその人の中味を読み解きます。
[ナルシシズム][芸術のための芸術][パラドックス][自傷行為][悲劇]
*ドリアン・グレイー
ドリアングレイはまるでギリシア神話の中の美少年のナルキッソスのように、自分の美貌に惚れました。そして、彼はその美貌と青春が続けるため、すべての罪と不合理なことを画像に負担させ、所謂美を求めるために自分の霊魂と良心を捨てたことです。このようなエピソードは当時において斬新な文学手法ではなく、ゲーテの『ファウスト』に「霊魂を悪魔に売る」ような話が既に出ました。面白いことはゲーテの戯曲を含めたこの類のストーリーがみな悲劇でした。当時フランスでボードレールらが提唱したピュアな芸術、芸術のための芸術という思潮に合流し、美のためなら社会倫理に逆らうことをしてもいい、美のためなら恋人を失ってもいい、美のためなら生活ないし命を捨ててもいい、という極端な形象――ドリアン・グレイをワイルドが作り出しました。しかし、芸術が生活から来るよりも生活が芸術から来る、という「芸術最高」の唯美主義テーゼは今のような個性化の時代においてもハッピーエンドになりにくいのに、況して工業革命の背景で功利主義を唱えていたビクトリア時代ならさらに悲劇から逃げられないでしょう。ドリアンは美を続ける願いが叶えたのですが、結局バジルの説教と世間の倫理から完全に解放されられず、美の宮殿に飛び向かおう、飛び向かおうと思いながら、自分が犯した罪があまりにも重くて翼を広げられなくなった結果、美の宮殿に行けず現実社会にも戻れなくなりました。このような行く場所もない、変格した自身に救えなさを感じていたゆえ、自ら命を絶つことにしました。
*オスカー・ワイルド
妙なことは、オスカー・ワイルドもドリアン・グレイと全く同じ道を歩いてきました。ワイルドはアメリカに渡航したとき、税関で申告物があるかと聞かれたとき、「申告しなかればならないのか?じゃ俺が天才っていうことを記録しとけ」と答えたから、無論ナルシシズムの一面があるでしょう。しかし彼が優秀者ばかりが集まったオクスフォード大学においても最も輝かしい一人だったから、その魅力の大きさは恐らく今の私達が想像できないと思います。
ワイルドはとてもお洒落で優雅な人で、服装や装飾にかなりのこだわりと独創性を持ち、優雅な見た目と誰も匹敵できない弁舌が揃っているため、典型的なダンデイズムの代表者だと考えられます。今ならダンディと言えば、社会を懐疑したり軽蔑したりする一方であまり世間の苦しさやつらさを知らない甘い人を指すイメージですので、マイナスな色が濃いようです。しかし、デンディには決して誰でもなれるわけじゃないですし、虚栄心ばかりの優雅だって優雅ですから、個人的には気に入っています。大体昔のダンディは見た目がお洒落だけでなく、人に尊敬されるべき才能を持っている例が多いです。「人は芸術品であるか、または芸術品を身につけるかのどちらかであるべきだ」‐-オスカ ー・ワイルドは正に生まれ付きの芸術品でもありますし、眩しい芸術品をいっぱい身につける人でもあります。
このような「芸術品をいっぱい被っている芸術品」である彼にとっては、唯美主義が唯一の行方になるのはもはやおかしくなくなるかもしれません。美をそれほど大事にするのは、その時代において見方になれる人がほとんどいなかったが、それにしてもワイルドは相変わらずお洒落な格好と弁舌で彼と全く違った価値観や審美観を持った人々を魅了できたのです。言葉の遊戯で自分の「信仰」を売るのは、天才のワイルドにとっては何も難しくないようです。彼がパラドックス作りが得意で、一見矛盾した言葉ですが、実際その滑稽さの中に多大な真理が隠れています。ワイルドの同時代の人はそれを分からなくて、ただの笑い言葉として聞き流したかもしれませんが、ワイルド死後の長い1世紀のうち、彼のパラドックス警句によって刺激された人が数えられないほどいます。
しかし、パラドックスに夢中だったワイルドは、いつの間にか生活と人生全体も1つの大きなパラドックスになってしまい、気付いたときはすでに出口のないジレンマに囚われたわけです。「私達はみな溝の中にいるが、それにしても星を見上げる人がいる」‐-星を見上げるときは心が柔らかくてなってとても幸せだった錯覚が出たのでしょうが、現実を忘れた結果溝の中にますます沈んでしまうことはまたワイルドを不幸にさせたと思いました。そしてその不幸はむしろ最初から決まっているのじゃないでしょうか。人を不幸にさせるのは、判断の間違いや他人の迫害よりもその人自身の性格に根付いたものだと考えています。
私はワイルドを、星を見上げろ、とヴイクトリア時代の人々を呼びかけて、みんなを美の世界までに連れていていくような偉い人としてとても思えない。そのような文学・芸術界の巨人みたいなキャラクターより、むしろただの「自分の夢に執着する人」といえばいいでしょう。ワイルドは、ドリアンになりたいという夢と現実との矛盾を知りながらも強引にその二者を調和させようと努力し続けました。ダグラス卿との愛(同性愛)を守るため、卑猥行為で投獄され、さらに破産、母親との死別、妻・息子との絶縁、など惨めなことが次々と起こりました。もともとこのような結果は避けられるはずだったのですが、幼少時代から「一回英帝国の女王の裁判廷に立って告訴を受けたい」みたいな、信じられないほど非常理的な夢を持っていたから、訴えられたときつい自傷したくなって敗訴可能性の一番大きい道を選んだのです。今考えれば、人間というのは、自分を傷付けたり虐待したりすることから言葉で伝えられない快感を得られるもんですね。ワイルドも自分に不利な判決を出されたときに、密かに微笑んだじゃないか、と思いました。
すべてを失った彼は縁を続けてくれた妻・子どもとダグラス卿のうち、迷わずダグラス卿を選び、フランスなどで転々としたのです。そして服役終了後から死ぬまでの間に、かつてオクスフォードの首席だった彼、優雅でプライド高い彼はすでに世間に完全に捨てられました―――世間の理解無能に対して何も恨みを感じていなかったが、認めなくても実際に同世代の人が一人もいなかった孤独な人生を過ごしました。悲劇でした。
しかし、いまなら、彼のお墓に、色様々な唇の印が残っています――それは後人が捧げた愛と理解です―――たとえどんなに孤独な人間だって、いつか、たとえこの世にいなくなっても、必ずいつか誰か分かってくれる人、誰か心を知ってくれる人がいます。それは歴史の車輪が私達にくれたギフトです。
6年ぶりの再読ですが、6年前にワイルドの頭の良さに感服したばかりでした。いまは同性愛以外のものに対して共感が驚くほど大きかったのです。しかし、そのような共感を実生活の中で何一つも行動に移せようと思いません。ワイルドのような人になるのは、生まれつきの素質が必要です。そのような素質を何一つも備えていない自分に対して、むしろほっとした安心を感じています。