2011.12.09
みなさま、こんにちは。修士2年の菊池裕史です。2011年も残すところ1ヶ月弱となりましたね。僕たちM2は、来たる年明けの修士論文提出に向けて、日々アクセル全開で過ごしています。
さて、今日からblogのテーマが【読書感想文】に変わります。「なぜこの時期に読書感想文?」「もう読書の秋は終わったじゃないか。」といった声が聞こえてきそうですが、僕たち大学院生に季節は関係ありません!ということで、この読書の冬に、山内研メンバーが日頃どのような本を読み、どのようなことを考えているのかということを紹介する新しいシリーズをお送りいたします。
菊池が担当する第1回は、イヴァン・イリッチ(訳:東洋・小澤周三)の『脱学校化の社会』を紹介します。イリッチは1926年にウィーンで生まれ、ニューヨークでカトリックの助任司祭、プエルトリコのカトリック大学の副学長をした後に、メキシコのクエルナバーカに国際文化資料センターを設立した方です。
イリッチは『脱学校化の社会』の中で、学校教育で行われている教育方法を「幻想」として批判し、学校教育に対するオルタナティブを提案します。学校教育にある「幻想」とは、「学習のほとんどが教えられたことの結果である」という幻想であり、実際には人は学校の外で知識の大部分を身につけるのである、ということをイリッチは主張します。具体例としては、外国語を上手に習得するひとは、学校教育からではなく、外国にいる祖父母の家で生活をしたり、海外旅行をするといったことによって学習しているという例が挙げられています。
では、学校の外でどのように学習をするのかというと、たとえば「技能」に関しては、反復的な練習がその方法として示されています。なぜなら、「技能」は定義可能であり、かつ予測可能な行動を習得することを意味しているからです。具体的な教授方法としては、その技能が使われている環境のシミュレーションに頼ることが挙げられています。
また、イリッチは、「学校に依存しないということは、人々に学習をさせる新しい考案物をつくることではない」と主張します。彼の言葉で言えば、学校に依存しないということは、人間と環境の間に新しい様式の教育的関係を作り出すことであり、この様式を育てるためには、成長に対する態度、学習に有効な道具、および日常生活の質と構造が同時に変革されなければなりません。
僕がこの本を読んで最初に感じたことは、「あれ、この主張どこかで見たな...。」という既視感でした。それは、以前にこのblogでも紹介した、シーモア・パパートの『マインドストーム』の中で見られる主張だったのですが、パパートは『マインドストーム』の中で、「知識構造は教師から教わるものではなく、学習者によって建設されるものだ」という主張をしています。パパートが『マインドストーム』の中で、学校教育について直接言及することはありませんが、イリッチが主張した、人間と環境との間に新しい様式の教育的関係を作り出すことの重要性にはおそらく同意をしており、その関係を構築する道具として、コンピューターの可能性を追求したのではないかと捉えることができます。
イリッチが『脱学校化の社会(Deschooling Society)』を著したのは1973年であり、もちろん、家庭に今のようなコンピューターがあるような時代ではありませんでした。パパートが『マインドストーム』を書いた1980年でさえ、「コンピューターが家庭に1台あるような学習環境は実際的には実現不可能である」という記述が、パパート自身によって行われています。しかし、パパートの時代では、イリッチが行うことができなかったであろう、具体的な未来の学習環境への仮定・想像が十分に行われています。哲学者が未来の社会を予測し、計算機科学者が実現可能なレベルに具体化するという、異なる分野の二人の接続の在り方に、僕は必然性と美しさを感じました。
では、パパートが実現不可能だと言っていた学習環境が当たり前のものとなった今、未来の学習環境はどのようなものに変化していくのでしょうか。そのような楽しい未来を想像しながら、今度は自分が哲学者となって空想にふけっていくことも、冬の読書の楽しみかなと思います。