2009.08.13

【山内祐平のゼミズバッ!】教育研究はどこまで、何をできるのか?すべきなのか?


院生の研究テーマに関連して、山内先生に研究のトレンドをインタビューする【山内祐平のゼミズバッ!】第3回は修士2年の岡本がお送りします。

私の研究対象である大学研究室しかり、最近研究に取り組んでいる人が多いワークショップしかり、学校制度の中で行われるもの以外の教育や学習についての研究も、本当に多いなあという印象があります.
そこで、少し大きな話になりますが、教育の研究の範囲について質問をぶつけてみました.

【岡本(以下、岡)】将来、教育の研究は、どこまで何を扱うようになるのでしょうか?

【先生】そうですね、これから述べるのは僕の個人的見解だ、ということを断っておきます.
 「教育」には、学校と密着しているイメージがあると思いますが、それは、産業革命が起こり、均質な労働者を社会に供給する必要からでてきた近代の所産です.近代の教育というのは、近代を支える制度であり、近代の結晶なのです.ところが、情報革命によって近代が根本から揺り動かされ、狭義の教育に収まらないもの、制度的にカリキュラムで教えられるもの以外の「隠されていた学び」が、表に出ないとやっていけなくなってきました.
 社会人として自分が示すパフォーマンスのうち、学校で教えられたことは基盤の部分では大きな役割を果たしています。ですが、自分がいろいろな部分で学んだことや、人との出会いや対話の中で学んだことが果たす役割の方が、むしろ大きいということは、考えてみたら分かるかと思います。
 僕は、基本的には学習は教育に先行すると思っています.教育は、いろんなところで起こっている学習の一部を組織化して、行われている.これからも教育がなくなることはないと思いますが、「教育」だけでは社会を支えきれなくなっている.いろんなところで起こる学習を加速する方向に行かないと、ダメなんじゃないかと思っています.

【岡】その時に、教育学者や教育実践者が、いろんなところで起きている学習のどれをとりあげて加速させるべきかをどうやって決めたらいいのかが気になります.

【先生】それは誰かが決めることじゃなくて、民主的に意思決定されるべきことだと思います。自分が勝手にボランティアでやって...のであれば、社会的に意思決定する必要もないし、やればいいって話ですけど、例えば税金を投入するとか、ある種の社会的認知を得る時には、それが有意義か決めるのは、研究者だけでも実践者だけでもない。そこに関わるあらゆる人が、民主的に意思決定するべきことです.その中で研究者が調整的な役割を果たすことは、もちろんあり得ると思いますけど.

【岡】今「こういう力が大事」ということが民主的に決められたとしても、それが将来変わる、ということもあり得るかなと思うのですが、いかがでしょうか。

【先生】意思決定の素材を、きちんと示すのがわれわれ研究者の役目のひとつではある、と思いますね.未来を特異的に見通せる人もいると思うのですが、納得しないと社会は動かない.だからみんなが納得して動くためには、情報を提示した上で、みんなで決めなければならない.そのためにたぶん大学があって、大学の人は、50年先とか30年先のことを考えることを許された存在です.ある意味そういうことのためにお金を投下されてるのだから、10年先や20年先の予想を示す役割を、我々は責務として担っています.

【岡】ありがとうございました.

教え、学ぶということ自体は人間の生活に埋め込まれている一方で、学校制度として社会的に成り立っている部分も確かにあります。教育や学習について研究する際には、こうしたことについての自分のスタンスについて考える必要があると思いました。
私の研究は、大学という制度の中での、インフォーマルな営みということなのだと思います。そこにどんな問題がひそみ、私に何ができるのか...考え続けながら、研究をしていきたいと思います。

[岡本 絵莉]

PAGE TOP