2009.07.11

【研究室の書棚から】「学び合う教室 ―教師としての学習者・プロデューサーとしての教師の学習臨床学的分析―」

山内研の本棚にある本を紹介するシリーズ【研究室の書棚から】
第5回は、修士1年の程琳が担当させていただきます。
今回ご紹介させていただく本は~
「学び合う教室 ―教師としての学習者、プロデューサーとしての教師の学習臨床学的分析―」
       西川 純 著 東洋館出版社

このシリーズの第3回目に掲載された岡本さんの紹介した「協同の知を探る」認知学コーナーに収まった本の一冊です。

◆どうしてこの本を?

私の研究しようとしているペアラーニングの場面においては、「協働」「協調」「協同」「学び合い」などがみんなキーワードです。このコーナーは迷い始めるたびに、必ず助けを求めにいく頼りどころです。いろいろ分厚い本のなかから、最初にこの本を手にとってめぐった理由は、横書きで、しかも薄いので、読みやすいのではないかという気持ちでした。<笑>
すると、実際に読んでみたら、分かりやすい言葉となるほど言説に心が引かれて、ぜひこのセッションでお勧めしたいと思います。
特に、学び関係について捕らえなおしたいけど、厚い本が苦手な人にとって、入門書のいい選択肢だと、ぜひご一読ください。

◆何が面白い?何が最後まで惹きつけている?

・ まずは言葉遣いですね。理論を深く厳しくこだわる専門書と比べて、この本はまるでたんたんと語ってくれる一人の学者の授業語録みたい、そして、実例としての紹介も、会話のシナリオそのものもたくさんあります。
たとえば、第5章の「なぜ、班活動で手抜きをするのか?」というところに、こんな例が印象深かったです。男女混在のクラスでは、女子生徒は一般社会イメージどおりに解剖の授業でウシガエルの神経の実験を見て、悲鳴を出したり、解剖する男子生徒を遠巻きに見る状態が見られます。一方、女子生徒のみのクラスでは、全員参加どころか、支持されていない部分まで解剖したり、実験後カエルのから揚げを楽しそうに食べたりするのです。という実例で、生き生きした経験が紹介され、その上に立って、ステレオタイプにされやすい女子生徒の解剖嫌いの本当の理由を掘り出し、改善案を認めさせてくれるのです。

・それから、この本の構成枠組みも大変読みやすいです。14の章にさらに補遺が加わり、細かく、短く、さらっとですが、かなり具体全体像を与えてくれるのです。
また、各章は、コラム構成で、ベース段階からまとまりへと話を導いていくのです。たとえば、第2章「社会生活の中での学び合い」は「情報の3階層モデル」、「一般社会における三階層」、「学校で三階層が成立したら」の三つコラムからなっています。
私が読むときは、章を読み始める前に、必ず目次に捲り戻して、その章の各コラム関係をサーと目を通してから読むようにしています。すると、大変話に共感をしました。

◆この本のユニックなところとは~

本の構成なら、ほかの本もさまざまな方法で工夫が凝っているでしょうが、この本のスタンスがユニックだと思います。
本の名前のとおり、「学び合い教室」というのは、教師が「学び合い活動を促進・維持するための指導法」なんかのものを追求するのではなく、「学び合う能力は学習者に内在しており、教師が特別な指導をしなくても学び合える」ことを根本的に強調し、さらに、「教師は専門能力を持つのだから教えるのがうまい」視点に賛成しつつも、「熟達者になっていくほど、子供たちから離れてしまい、教えることが不可能となる可能性がある」と指摘し、さて、「教師が教えられないと、誰が教える?」という悩みから、「子供たちには等しく知見は存在し、それらは優れた場(具体的には学び合い活動)を与え場表出する」という説につながりました。
そこで、学習者同士にとって有意義な学習の場として紹介された学び合い活動については、従来のグループ学習を取り上げている多くの言説を、基本的に従前の一斉学習を基本とし、それらを補完する授業形態として利用されていたと本質的に区別をつけました。また、授業という授業をまかなうために、教師は授業方略など守るべきものを徹底遂行することによって、学習者同士における学び合いが成立するという考えを否定し、「学習者自身がすでにもっている能力を、学校においても適用できると感じさせればいい」と主張しています。

◆私的に一言といえば~

自分の研究しようとしている第二言語の学び合いのほかにも、学び合いということは実にたくさんの形にて存在しており、その支援となる学習法の開発もどんどん進んでいるところです。教室観、教学観、学習観...学びに関して、教育界の主流視点は川の暗流のように、底から徐々に新しい容貌を見せつつあります。それを一窺できるように、この本をお勧めいたします。


[程 琳]

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