2007.05.24

【受験生に薦める一冊】「複雑さを生きる」

『複雑さを生きる』 安富歩 著 紀伊國屋書店,2006


 相変わらず、複雑系「ブーム」は続いているようだ。

 この流れは、教育研究の世界においても見られる。昨年の全米教育学会(AERA)においても「複雑系」のセッションが設けられ、「複雑系をどのように教えるか」、また「複雑系」というものをどのように教育研究に活かすか、という2点が熱心に議論されていたという。

 私自身、ワークショップの研究をしているが、実践の中で起こっていることはまさに複雑であり、完全な予測のもとに学習プログラムをデザインすることは不可能であることを痛感させられる。しかしながら、何の予測も立てないのでは、これまた、実践は崩壊する。教育における理論と実践について考えていく上で、今後「複雑系科学」は一つの拠り所となるかもしれないと思う。

 もちろん、「複雑系科学」は学問であり、単なる事象の“複雑さ”を指すものではない。今回取り上げた『複雑さを生きる』は、この点がきっちりとふまえられており、巷に出回るブーム本とは異なり、非常に濃い内容である。
 著者である安富歩氏は、東京大学東洋文化研究所の教員。学際情報学府にて、現在授業も持っている。「ハラスメント」という概念から社会・経済・歴史・思想などを再構成するという「冒険」を行っている、と自ら述べる。東大での講義では、「その冒険の実況中継を行う」とし、用意したカリキュラムをシラバスに掲げながらも、「但し、『事前に計画を決めて、その通りに実践する、という思想がそもそも間違っている』ことを明らかにするのがこの授業の主張点なので、ここに掲げたテーマが実際に話されるとは限らない」と、チャーミングな記述をしている。

 数理的手法にも明るい安富氏は、複雑系科学の知見を応用し、秩序の無根拠に対して、それをシステムの問題と捉えた上で、実践的に対処する態度と技法を探求しようとしている。困難な数式による目くらましもなく、複雑系初学者には最適の一冊だろう。文章も明解であり、非常に読みやすい。

 ベイトソン、M・ポラニー、ルーマンといった、この分野の基礎文献に加え、リデル=ハートや孫子といった意外なテクストや、野球や鍼治療など卑近な実例もあり、言及範囲は学際的である。これら、一見収束しないかのように見える議論も、全体の構成としてみると、人文社会科学に対する複雑系科学の導入から始まって徐々に人間および社会のシステムへの応用の手続きへと広がっており、その主張には一貫性が感じられる。

 黄土高原における実践活動など、多方面で活動する安富氏における現時点での問題意識が表出された一書。著者の今後の展開にも注目していきたい。

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