山内パネラーをご紹介します。
最初はSeppo TELLA先生です。
次に、メディア教育開発センター准教授で文部科学省併任の堀田龍也先生です。堀田先生は情報教育ご専門ですが、もともと現場の先生です。日本の学校現場の現状を一番お知りの方として質問していただきます。
そして、ベネッセ教育研究開発センター主任研究員の沓澤糸さんです。沓沢さんは幼児から小学生中学生高校生ぐらいまでの学習の調査研究に携わっていらっしゃいます。主に家庭における学習について代弁して質問していただきます。
最後が、カーネギー財団知識メディア研究所所長でBEATの客員教授でいらっしゃる飯吉透先生です。飯吉先生はマルチメディア教材開発、情報通信技術を用いた教師の授業改善のコミュニティづくりなどをしていらっしゃいます。具体的な方法として、情報通信技術を利用した今後の方向性に関する質問や、アメリカにいらっしゃることから、他の国との比較もしていただけると期待しています。
堀田最初に日本の学校の状況をお話するのが私の役目なので、新学習指導要領を見ながらはなしをすすめていきたい。2011年からの学習指導要領が先日確定し、文部科学省のWebサイトに掲載されている。これは次世代の子どもたちのための学習指導要領となる。日本ではこれに従って教科書が作られて検定を受け、学校ではその教科書を使って授業が進められていく。
小学校の一単位時間は45分で計算する。たとえば、小学校6年生の国語は175時間であり、4年生は245時間、2年生は315時間である。国語は小さいときほどたくさんあって、だんだん減っていくということが分かる。それに比べて算数はほぼ横ばい、理科がだんだん増えていくとか、音楽はだんだん減るとか、教科ごとの違いが見て取れる。つまり、これが限られた時間の中で時数をどの教科にどう振り分けるという様々なディスカッションの結果出てきた日本の授業時数配分の決定案というわけである。
4・5・6年生で授業時数が980時間となっているが、980時間というのを計算するとどうなるかというと、学校は35週間の授業時数で計算するので、一週間あたり28時間の授業時数になる。週の時間割で考えると、6時間授業の日が4日と4時間授業の日が1日である。これをもっと増やすべきだとか、減らすべきだとかいったところで、せいぜいプラス1プラス2が限界になる。このように限られた中での授業時数確保のせめぎあいが行なわれている。だから、算数が大事だからといって算数を急に2倍にするなどということは、ほとんど無理だということがご理解いただけると思う。どの教科の何が大事かという議論とともに、それを全体の中でどのくらいの割合で行うのか、つまりそれは何が大事で、その分何を無くせるかという議論でもあるわけである。よって、教育に関していろいろ言うことは簡単であるが、実行する段になるとこのような難しさがある。
日本には小学校から高校まで約3万7千校ある。教員は約86万人おり、そのほとんどが地方公務員なので、税金が人件費としてそこにつぎ込まれていることになる。一人あたりの平均年収などを考えていただくと、だいたいいくらが使われているかが計算できる。そして、義務教育は小学校6年中学校3年の9年間、高校は義務教育ではないが95%が進学、その5割が大学に進学するという現実がある。学校教育の目的・目標は国によって定められている。学校にほぼ強制的に通うのは、だいたい5、6歳から22、23歳くらいまでで、人生の最初の20年弱を学校教育に通っており、そこから先は生涯学習ということになる。生涯学習段階で大学に戻ってきて学習するという例も増えてきているが、全員がみんな学校に行く期間というのは、人生が80年だとすると最初の5分の1であり、それは人生の準備期間ともいえる。そして、TELLA先生の先ほどのお話でいくと、学校で過ごす時間というのは、18歳のうちの6-9%程度である。しかも学校でのフォーマルな学習は学習全体の25%以下に過ぎないということを提示いただいた。つまり、学校というのはそのぐらいの割合であり、だからこそインフォーマルやノンフォーマルな学習が大事だという主張になることは十分理解できる。
ただし、ひとつだけ押さえておきたいことがある。TELLA先生の先ほどのお話で、予想していなかった、期待していなかったところで学習が起こっていくというお話があった。人生いろんなところで思わぬ何かに出くわして、それが学びになるのだということだろう。私はこういうことが起こるためには、フォーマルな学習があったからこそだということを主張したいと思う。
つまり、何かに出くわしたときにそれが学習として成立するかどうかは、それを「学習として成立させる何か」が学習されているからだと考えるわけである。たとえば、何かを読んで、へぇ〜と感心したり、感激したり、パラダイムが変わったようなときには、何かを読む力があったからそれができるのだと考える。つまり、文章を読み解く力が学習されているから、そのようなことが起こるわけである。
そう考えたとき、人が生涯、インフォーマルやノンフォーマルや期待していなかったところで学び取れるための本当に基礎的なことが人生の前半に行なわれて、それが学校教育の役割だということになる。よって、学校教育は大人の学びとは少し違っていて、大人になって学び取れるための基礎基本を学ぶのであって、学校教育に対して大人の学びを安易に押し付けて「大人が社会で学ぶように学校もそうあるべきだ」という風に強制してはいけないと思う。
もちろん大人の学びの「文脈」を上手く学校に持ち込むことは、より良い学校教育のためには必要だと考えるが、安易に「大人になったらこうなるから、子どももこうしなければならない」というようにはいかないのだと主張したい。
たった25%のフォーマルな学習であるが、人が学ぶ時間はフォーマル以外の時間の方がはるかに長いからこそ、25%のフォーマルな教育を予めしなければならない。学校外で自律的個性的に学ぶための基礎基本をきちんと教える必要がある。学習するということは楽しいことばかりではないから、場合によっては楽しくない内容でもちゃんと習得させるということの責任をとるのが学校の役割であると考える。
さらには、子どもには、本当に様々な個性があって、能力もまた家庭環境も経済状態も様々である。義務教育で公教育というのは、そういうすべての子どもたちにちゃんと責任を持って教育を与えるというために、税金がつぎ込まれているのである。だから、誤解を怖れずにいえば、すべての子どもに最低限の、その後将来学んでいくための学ぶ道具を与えるのが学校教育の役割であり、先生の仕事はそこにあると思っている。
学校でよく話題になるのは保護者に対する啓蒙の話であり、保護者間でよく話題にされるのは学校での教育のことである。しかし、それぞれが話題にしている割には、一緒にはあまり話し合っていない。ここに今日の一番お伝えしたいことと、TELLA先生に質問したいことがある。
学校を批判することはマスコミに載りやすいのでよくやられることであるが、社会システムから考えると、問題とすべきは学校そのものではなくて、むしろ学校と学校外の教育というものの全体性みたいなことと、その役割分担、学校はここまでやるべきで、学校外はここまで引き受けるので学校には求めない方がいい、ということの議論が欠如していることだと考えている。教員という立場、学び手の子どもたちの立場、保護者という立場、地域という立場、あるいは学校に何かサービスを提供している企業の立場、それぞれの議論がもっと行なわれるべきだと思う。
そして、TELLA先生にお聞きしたいたった一つの質問は、
「フィンランドでは学校と学校外の連携という役割分担に対する議論がどのように行なわれているのでしょうか」。
ということである。インフォーマル、ノンフォーマルエデュケーションについて、学校ではどのように教えられるべきだということがどんな議論になっているか、お聞きしたい。
TELLAフィンランドでは、インフォーマルやノンフォーマルエデュケーションについて広く議論している。一般にも議論されているし、報道機関でも議論されている。もちろん、教育者によっても議論されている。ただフィンランドの場合、自治体によってかなり異なっている。議論すべき問題であるという点では、コンセンサスはあると思う。しかし、解決するのは簡単な問題ではない。コンセプトとして適切に定義されていないので、複雑な問題でなかなか解決しにくいものである。まず重要なことは、議論をすることで、そしていろいろな取り組みや実験をすることだと思う。これは教育における永遠の問題であると考える。いろいろな要因が絡まり、いろいろな当事者が絡み、そしていろいろな動的な要素があって、それをどこに当てはめていけばよいのかは永遠の問題である。
フィンランドも、以前は閉鎖的な国で中央集権的な国だった。省庁がすべてを管理していたが、15年ほど前に地方分権がはじまった。地方分権というのは、常に規制緩和を意味する。地方分権も規制緩和も英語で言うと最初に「de-」という言葉がつき、何事も取り除いていくということ意味する。カリキュラムについても、国家から自治体にすべてが任されるようになり、教育、社会福祉、橋や道路などの整備を中央政府から渡された予算で行なっていかなければならない。したがって、地方自治体の人々がかなりの部分を決定していくことになり、教育について十分理解し、評価をしていなければ、それなりの投資をしないということになってしまう。
アメリカに比べるとフィンランドの保護者というのは、学校のためにそれほど活動していない。一部の保護者は、学校のために熱心に活動しているが、すべての保護者がそうしなければならないと感じているかというと、そう強くは感じているわけではない。むしろ、もっと学校に関わるべきなのかもしれないが…。
ここ2年間で、子どもが学校でどのような状況であるのか、技術的なソリューションによってより分かりやすくなっている。地方自治体によっては、教室にカメラが置いてあり、保護者が教室の中を見ることができたりする。しかし、これについては喜ばしいことだとは思っておらず、ビッグブラザー(大規模な監視)的な面もあることは認識している。しかし実際、保護者はいつでも授業の様子を見ることが歓迎されている。
堀田地方分権が進んで規制緩和が動き、より一層学校について責任を持つのは地方公共団体になってきているという現実は、日本にもある。多くの小学校は、市立や町立なので、市や町がお金を投じない限り、学校には永遠にICT機器が入ってこないし、黒板とチョークとトークで授業をするというのが繰り返されるという問題も起こっている。だから、各地方の方々による議論、地方自治体のトップの人たちと学校や家庭との議論が重要だというのが日本の今の状況である。フィンランドでもやはり同じことが起こっているということは理解できたが、なぜ結果がこんなに違うのか不思議である。
沓澤私どもの教育研究開発センターでは、ヘルシンキ、東京含めた6都市の国際調査を行なっている。校外の学習についてそれぞれの都市の小学5年生がどのような形で行なっているか、リサーチを行った。まずその内容をご紹介したい。私自身が小学校4年生の保護者なので、保護者の視点からも率直にいくつか質問をまとめたいと思う。
私たちのリサーチのモデルは、子どもを中心にし、さまざまな環境を見渡した枠組みを用いている。家庭もしくは保護者と子ども、学校の教師と子ども、そこと間接的に結びついたり直接的に結びついたりする社会-社会全体であったり、地域であったり、メディアや教育行政など-の観点から調査を考えている。
まずは日本のインフォーマルエデュケーションやノンフォーマルエデュケーションの現状についてお話ししたい。
フィンランドとの大きな違いは、日本の場合、高学年になると校外学習(塾通い)が非常に盛んになることである。それは自発的な学習というよりは、競走に駆り立てられる学習になっている。体系的で構造的で目的的な学習である。そういった環境にあって、東京の子どもたちは50%を超える通塾率になっている。ただ、学習時間については二極化が進んでいるといわれており、平均値でヘルシンキの子と東京の子とではそれほど差はない。
フィンランドと日本での違いついて、この調査結果をもとに3つほど観点を設けてみた。
1つ目は「保護者との関わり」で、保護者が子どもの学習にどう関わっているのかという観点である。たとえば「親とよく話をする」という項目で、ヘルシンキに比べて東京の子どもの方がよく話しているという意識が高い結果になっている。親によく勉強を見てもらっているという回答も、東京の方が多い。逆に大学進学への期待感を親から感じるか?ということに関してはヘルシンキの方が非常に高くなっている。私が先入観で持っていた感覚とは逆になっているが、みなさんはいかがだろうか。
2つ目は「社会・メディアの影響」である。「物の保有環境」という観点で見ると、ヘルシンキの子どもの方が携帯電話をよく持っており、パソコンともよく接していることが分かる。
3つ目は「学び方」である。学校外で子どもがどのように学んでいるのかを見ていくと、「授業で習ったことを自分でもっと詳しく調べているか?」という項目では、東京の場合、半数程度の子どもがやっていると答えている。一方で、ヘルシンキの場合、ほとんどの子が学校で学んだことを自分で詳しく調べている様子が分かる。
「その日のうちに復習するか?」という項目においても似たような傾向がみられる。つまり、ヘルシンキの方が、学校で学んだことを家庭に帰ってから、さらに掘り下げた探究的な学習をしたり、復習をするような行動をとっているということである。
これらの調査データから、日本の子どもたちが強制的に勉強している時間はあるけれども、自分からの探究的な学びというのはそれほど多くないことが推察される。
以上の3つの観点を踏まえて、TELLA先生に3点お聞きしたい。
1点目は、「よく親と話をする」と感じている子どもは日本の方が多いが、その話している中身は何かということである。私自身に小学校4年生の子どもがいるが、私が子どもに話している内容と子どもが受け取っている内容、フィンランドの家庭における親が話している内容と子が受け取っている内容は、違うのではないかと考える。
TELLA先生の講演で、親と子どもの接触時間の減少によって、子どもの世界観を構築する部分が減ってきていることを懸念するお話があったが、そこでの世界観とは何なのか。そこからどうやって子どもの学習行動が起こっていくのかをお伺いしたい。
2点目は、日本の場合は学校外・家庭外である塾が非常に大きな割合を占めているが、その反動か、インフォーマルな学びの場での知的な活動にはあまり多くの子どもは参加せず、ゲームなどエンターテイメント色が濃い遊びへとモチベーションが流れてしまいがちである。フィンランドの場合は子どもの学習がどうして知的な方向に向かうのか。それからそのような子どもの学習を支えているのはどういった人々(人的環境)なのか。
最後に、「学ぶための学び(Learning to Learn)」ということがフィンランドでは強く支持されているようであるが、子どもたちが自主的に探求的な学習をしていくような力・学び方をいつからどのような方法や経験を通して、どういった学び方を身につけているのか、簡単にご説明していただきたい。
TELLA家庭内でどのようなコミュニケーションが行なわれているか、というのが最初の質問だと思うが、みなさんは何をお話しになっているのだろうか。携帯電話が大変普及してきて、親子のコミュニケーションもテキストメッセージになっているわけである。しかも非常に短いメールのやりとりである。たとえば、「夕食は午後7時よ」「OK」、あるいは「その時間にはまだ家に戻れないよ」とかいう感じのコミュニケーションをしている。そのようなコミュニケーション形態が家庭内のコミュニケーションになっているのは大きな問題だと思う。 フィンランドの親子が日本の親子と違うコミュニケーションをしてるという根拠はありそうにない。フィンランドの子どもたちはあまり学校の話をしない。むしろ趣味のことを話す。先ほど親不在の子どもの例を出して話をしたが、逆のケースも想定される。フィンランドにおいても、非常に野心的すぎる親がいる。子どもたちに対して多くの趣味を教え、そのことに非常に時間をかけている。毎晩毎晩テニスをしに行ったり、バレエのクラスに行ったり、お稽古事をいっぱいしているわけである。それも大きな問題となる。 最適な解決策というのはもちろん、子どもたち自身が何らかの関心を自ら示すということだと思う。そして、親がそれを励ましてあげることである。
2番目の質問は、子どもたちは知的なモチベーションをどのように受けるのか、というものであるが、これは「わからない」というのが正直な答えである。そうとしか言いようがない…。本当にそうなっているのだろうか。いろいろな調査によると、フィンランドの子どもたちは非常に怠惰であるという答えも出てきている。
また、メディアは非常に大きな影響があると思う。テレビもあるし、ポップ音楽もあるし、ビデオもあり、影響は大きい。15年くらい前に、「フィンランドはもっともアメリカ化された国である」と誰かがジョークで言っていた。確かにそう言われた時代には、若者がアメリカ言葉を使うこともあった。いまではそういうこともなく、むしろヨーロッパ化しておりいろいろなファッションやトレンドについては西欧諸国から入ってくる。
フィンランドのテレビ・ラジオのメディアは、主義主張がわりと穏健なものだと思う。しかし、昨年の秋に、北部にあるトゥースラという町のヨケラ中高等学校で起こった銃乱射事件において、メディアは非常に過激に報じた。最も保守的だった新聞でさえも、過激な見出しのもとで報道をした。その勢いのもと、殺された学校の校長先生も顔写真が報道され、これにはフィンランドの教育関係者のほとんどが抗議を行った。このようにフィンランドのメディアが過激な行動に走ったのはフィンランド史上それが初めてであった。このような特異な例に限らず、メディアが影響力を持っているのは確かだと思う。
学び方の習得についての質問ですが、実は「学ぶための学び」(Learning to learn)という表現に私は反対である。子どもたちにはLearning to learnではなく、Studyのために学ぶ(Learning to study)ということを行ってもらいたいと考えている。
飯吉まずフィンランドは格好いい、クールだ。教育の世界において国際競争を意識せずに国際競争に勝った。しかも、国際競争に勝つことはフィンランドの人たちにとってさほど重要ではない、とされているところがまた格好いい。さらに、国内の教育において、子どもたちや教員たちが互いの競争に勝つこともさほど重要ではないと考えている、と私は感じた。それは標準化されたテストが少ないという事実からも明らかではないかと思う。
教育の文化、社会の価値観、教育福祉国家政策が、日本とは全部違うのだと思う。フィンランドは所得税が50%で、消費税23%である。日本のように10%程度で議論している国ではない。こういう大きな政府をめざすのは、いまの日本の与党や、アメリカの共和党が目指してきたようなものではないだろう。
すべての先生が修士号を持っているというのも、小中高、大学、大学院までがほぼ無料であり、それだけの税金を払っているということだ。大学進学率は93%だと伺った。だから、これを日本で目指すのは無理だと思う。
よって、フィンランドのおいしい秘密を探り出して、ちゃっかりいただいてしまおうというのは、あまりに虫のいい話で、到底無理だと考える。私なりの理解で言わせていただくと、フィンランドでは国家的な大変な努力が払われて、大変質の高い教えと学びが教室の中で行なわれている。だから家で宿題をしなくて済む。それで終わり…。
…で、終わってしまうと、質問も何もなく、話も続かないので、少し続きを考えてみたい。日本は生徒にとってのゆとり教育を行い失敗した。そして基礎学力が低下したから、ゆとり教育を止めましょうとなっている。TELLA先生の話を聞いて思ったのは、日本は先生のゆとりがないのではないか、ということである。視点を変えてみると、本当にゆとりが必要なのは、(生徒ではなく)先生の方ではないのか。日本には国で決めたカリキュラムがあり、それに沿って教えなければならないためキツキツであるのではないか。アメリカだといろんな意味で、学校の先生方は、もっとキツキツなのだが…。
TELLA先生が、ウォールストリート・ジャーナルの記事を引用されていたが、それによれば、「ほとんどの国では教育はまるで自動車工場のようであるが、フィンランドでは先生たちは起業家(アントレプレナー)のようである。」というようなことが書かれている。これが日本にはないのではないか。現場の先生はもちろん努力して楽しい授業面白い授業しようとしているけれども、もっともっと先生たちにゆとりをあげれば、おそらくもっといい授業ができるのだと思う。
友人の奥さんが「ゆとりちゃん」という家計簿ソフトを使っているが、その奥さんはそれを(自分たちの家計の状況を皮肉り)「ゆとり無いちゃん」と呼んでいるらしい。日本の学校の先生もまさに「ゆとり無いちゃん」というわけであろう。日本では、いきなり教育予算を倍にはできないし、税率も50%にはできない。先生の数を倍に増やしたり、修士課程に全部の先生を送ったりすることは到底できない。では何ができるのか。私たちBEATがやろうとしているのは、テクノロジーを使って、この「ゆとり無いちゃん」をどうやって「ゆとりちゃん」にするかということであり、それが日本が進める道一つの道ではないかと思っている。
そこで、TELLA先生に質問であるが、まず「とまれ」とおっしゃられたが、一体こういう日本の先生たちや文部科学省を、どうやってとめるか。何か知恵があったら教えていただきたい。
また、テクノロジーで助けて、先生たちにゆとりを持たせ、もっと起業家のような形で教えることができるようにするには、具体的にたとえばどのようにテクノロジーを使うことが考えられるのか。ぜひTELLA先生のお考えをお聞きしたい。
TELLAフィンランドはコラボレーションの代表的な例で、何十年もコラボレーションに成功しているのだと思う。たとえば、教室の中でも、学校の中でも、それほど競争的なものはない。日本の様子やアメリカの様子を聞いた限りのことと比べると、よりゆとりのあるリラックスした雰囲気だと思う。アメリカでデイビッド・ジョンソンが姉妹とともに、コーポラティブ・ラーニングを80年代にデザインした。フィンランドにはちょうど20年前に入ってきたが、特に目新しいことではなく、いつもやっていたことであった。しかし、アメリカでなぜこれが目新しかったのか。なぜイノベーションだと思われたのか。そもそも競争的な環境だったからコーポラティブ・ラーニングが新しく映ったのだろうと思う。
もちろんフィンランドにも競争はある。しかし、コラボレーションをよくする国民性のようなものがあるのだと思う。ただ、チームのスポーツはあまり得意ではないけれども…。
将来のことを考えるといろいろな方策があると思う。ただ、誰か政治家が方向を決めて、それに向かってみんなが向かっていくというのは正しい方法ではないと考える。私たちみんなが将来のことを決定して行くべきだと思う。単に積極的にだけではなく、事前対応型に研究などを行なって、そして新しいアイデアを出して、新しいアイデアをテストすることを常に行なっていく形で将来にたどり着いていくのが正しい方法だと考える。これはあらゆる分野・あらゆる場面で当てはまることであろう。技術を使った方法もあるだろうし、技術を使わない方法もあるだろう。私は、コンピュータなしに解決できない問題であれば、コンピュータがあっても解決できないと思っている。これにはみなさんも同感していただけると思う。
とは言っても、私としては教育の場面でのICTの活用を20年以上推進してきた。テクノロジーを教育の場でも使うべきだと思っている一方で、懐疑的にも捉えている。テクノロジーを取り入れて、どれだけのメリットがあるのか慎重になる必要がある。大きなブレークスルーとはテクノロジーではないと思っている。いくらテクノロジーを導入したからといってもブレークスルーが起こるわけではなく、スモールステップで前に進むしかない。技術者が何か新しいものを作り、技術的にイノベーションを起こし、教育者はその技術を使おうとする。常にそのようなことが繰り返されているとは思わないだろうか?私は楽観主義者であるが、テクノロジーが最終的な解決策ではないと思っている。
質問に答えるためにある絵についてお話したい。幼い男の子が空っぽのコンピュータの枠を通して本を読んでいる絵である。重要なのは読んでいるのは本であるということである。それが究極の解決策なのではないかと思う。本はそのまま存在するだろう、学校も存続するだろう。コンピュータという手法は消えていくかもしれない。しかし、理論は残る。だから私はリサーチベースの教育というものを強調したいと思う。
飯吉TELLA先生のお答えを聞きながら思ったのは、先生にイノベーションを奨励して、先生に教室で教えながら自分でいろいろなことを試行錯誤して、新しい教え方を試したり、失敗したり、改善したりするアクションリサーチが大事なのだということである。
フィンランドでは、先生というのは子どもたちの憧れの職業だと伺ったが、それを聞いて「坊ちゃん」とか「二十四の瞳」を思い出した。いま日本で先生は尊敬されているのだろうか。
もちろん、「坊ちゃん」の時代と今の時代とは先生に求められているものも大きく異なっている。今の学校のようなフォーマルエデュケーションの中で、でどうやったら先生が尊敬されるようになるのだろうか。よく言われるように、情報はインフォーマルエデュケーション環境でも得られる。子どもたちは、いろいろなWebサイトで新しい情報を習得できる。昔は新しい情報を持っているだけで尊敬されていたが、今では新しい情報を得ること自体は誰でも比較的簡単にできるので、情報や知識の囲い込みだけでは尊敬されない。
しかし、情報がそこにあっても誰もがぱっと理解して情報をすぐ使いこなせるわけではない。先生の先生たるプロフェッショナルの仕事というのは、そこにある情報やデータの考え方や概念というものを「どれだけ分かりやすく生徒に理解できるようにしてあげるか」ということだろう。これができれば尊敬される。そういう尊敬される先生が、世の中で認知されるようにすることが大事だと思う。
沓澤非常にベーシックな親子のコミュニケーションに関してはそれほどどこの国も変わらないのだなということが確認できて、親としてホッとした部分もある。しかし、子どもと接する時間が、日本で働いているとなかなかないということが、やはりフィンランドと日本で大きく異なることだと思う。フィンランドの場合は16時や17時に親が帰ってきて、もう一日が始まるような感覚がある、休暇の時期には湖水地方などに出かけて、ブルーベリー摘みや魚釣りをしたりする素朴な生活をする時間があると伺った。そこで子どもが受け取るものというのは、非常に生きる力としては大きいのだろうと思う。そのような大きな違いがあるので、簡単にインフォーマルエデュケーションやノンフォーマルエデュケーションをフィンランドと日本で語ることはできないと思った。
ただ、TELLA先生がご講演の最後に示された3つの考え方・選択肢について先生ご自身はどの選択肢が最も望ましいとお考えなのか、機会があれば伺ってみたいと思います。
堀田テクノロジーが教育のどこに寄与できるのかというささやかなイメージをお伝えしようと思う。
実はBEATでは、一昨年、Kids K-taiプロジェクトというものを行った。小学生がケータイを学習する道具として持ったときにどういうことが起こるのかという研究である。ケータイは普及しているけれども、どちらかというと「危ない」という話の方が前に出ていて、学習の可能性についてはまだ少ないと考えられているが、それでもやってみたという研究である。
そのときの授業実践を紹介する。子どもたちがケータイで1枚1枚写真を撮ってきて、ネットで共有するというものがあった。赤いものと緑のものを写してきて、赤はどういうものに使われているのを集めてみると「危険」などのところで使われているとか、緑がどこに使われているかを集めてみると…、というように色がどういう風に使われているかという学習を目的としたものである。
つまり、学校の外のものを学校の中で学ぶ、学校での学習になっている。そういうときにモバイルというものの利用価値があった。これがまずテクノロジーの可能性として学校と学校の外を繋ぐ一つの道具だと思っている。
別の実践では、水族館という社会教育施設と学校学習のタイアップをテクノロジーによって実現するものである。水族館のサメのところにダイバーがカメラを持っていって、サメの「歯」を写す。そしてこの映像を、子どもたちが教室で見ている。ダイバーと教室では交信ができていて、子どもが「サメの歯って、どうなっているんですか?」というと、ダイバーが「ちょっと待ってね…」といってカメラを向ける。直接子どもたちが水族館に行って魚を見ることができれば一番望ましい体験学習であることはわかっているが、近くに水族館がない島の子どもたちはなかなか水族館に行けない。そういうときに水族館がネットで配信することによって学習を可能にしている。
また、「おやこde食育」というBEATのプロジェクトでは、親子で野菜のことを勉強するときに、野菜のコードをケータイでピッと撮るといろいろな情報が出てきて、子どもとお父さんお母さんが話し合うもの実践を行った。これはケータイを使っているけれども、ケータイは情報を取り出す装置として使っていて、ケータイを通して親と子が話しているわけではなく、同じ端末の方を向いて親子が直接はなしているわけである。ケータイを使うとケータイ端末経由のコミュニケーションのことばかり考えてしまうけれども、そのデバイスがあることによる親子の直接対話の増加も考えられる。それはテレビでも他の何でも、そのように使うこと可能なのではないだろうか。テレビをみんな見ているから、みんな黙っているのではなく、テレビで流れていることをもとにみんなが議論していくように利用できる。それは、人々の学習観や生活観の問題ではないかと思っている。
それから、進研ゼミ小学講座での研究協力をしていて分かってきたことは、保護者の方の働きかけがちゃんとある家庭ほど子どもたちはきちんとしていて学力が伸びている。教材を与えて「さあやりなさい」だけではダメで、「ちゃんとやってるね。頑張ってるね」と声掛けしていることが、同じ教材でも利用の価値を高めている。つまり、子どもにどう関わるか、ということがキーになる。そこで、子どもとどう関わればよいのかという情報を保護者のケータイに送るとか、ネットで子どもの学習状況が見えると、保護者は素知らぬ顔で声を掛けやすくなるのではないか。つまり子どもの学習状態情報を保護者にどう提供するかというサービスが一つのミソになるのではないかと考えられる。
調査によれば、共働きの家庭が専業主婦の家庭をはるかに越えており、子どもが学校から帰ったときに家に誰かがいるというのが47%しかなく、習い事に行っている子どもが87%であり、習い事から帰ってくる時間は半分くらいの子が夜7時以降であるという現実がある。こういう子どもも忙しい親も忙しいという現実のもと、「あるべきだ論」をしても仕方がない。このような状況の中で、学校と親と子どもがコミュニケートする方法としてのメディア活用に関して、メディアで関係が分断するのではなく、メディアで関係がより深まるようなやり方を考えなければならないと思う。
TELLA私は語源が好きで、よく語源について研究している。「テクノロジー」というのはギリシア語が語源で、その意味するところは「スキル(能力)」ということである。
教育においてテクノロジーを取り入れる場合、まずきちんとテクノロジーデバイスを使いこなさなければならないことがあげられる。十分なスキルを持って、教育の目的のために使えるようにならなければならないということである。ただ単にテクノロジーということではなくて、それを使いこなすスキルが重要になってくる。そのようなテクノロジーだけでなく、スキルも高く評価するような環境が重要だと考える。
どのような技術志向のレベルであったとしても、誰に対してのものであったとしても、10%のテクノロジー、そして90%の教育が必要だと考えている。テクノロジー10%、教育90%である。これが2つについて適切な割合だと考える。
最後に、少し道徳的なことかもしれないが、私は教師を教育する立場にあるので言わせていただくと、「穏健に、また公正になる」ということ、そして何をやるにしても自分の心をそこに注ぎ込みなさいということを伝えたい。
山内私たちBEATは、基本的にはテクノロジーをデザインするということをコア・コンピタンスとして今まで努力を重ねてきました。今後も情報通信技術をどのように教育の中で活用していき、より質の高い教育を実現するかということに努力をしていきたいと思います。しかし同時に、やればやるほどテクノロジーだけで解決できるのはおそらく10%だろうと言おうと思っていたら、TELLA先生に先に言われてしまいました(笑)。
つまり、それが何を意味しているかというと、残り90%も同時にデザインしないと、質の高い教育を実現するのは非常に難しいということに私たち自身も感じているということです。
たとえば、フィンランドの家庭内の対話というものが、時間量的には日本より短い。しかし、おそらく仮説として、日本よりもかなり自立を促すようなコミュニケーションがされているのではないか。あるいは、フィンランドというのは世界でもっとも公共図書館の貸出し数が多い国で、非常に文字に対する親和性が高く、本読んだり文字を書いたりということに関してすごく大事に思っている。そういうものを大事にする文化や、学校の先生を大事にする文化が背景にあるわけです。
もちろん飯吉先生のおっしゃった通りで、そんななものが一朝一夕にできるわけではないので、ポッと持ってくることはできません。でもポッと持ってくることができないものを放っておいて、10%のテクノロジーだけでなんとかできるかというと、たぶんもうそういうレベルでもないだろうと思います。
私たちは10%のテクノロジーを使うときに、同時に90%の教育の部分をどのように再設計するかということを考えないと、テクノロジーを効果的に利用していくことができないステージに入りつつあるのではないかと思っています。そういう意味では、TELLA先生の言葉は心強く、90%の教育のデザインによってより質の高い教育を実現したいと思います。
ただ、私は日本の教育は質が低いとは思っていません。日本の教育は非常に質が高い教育をいま実際に実現していますし、失礼な意味で申し上げるわけではありませんが、フィンランドの授業に負けない授業をされる日本の学校の先生はたくさんいると思います。ただ、フィンランドも同様ですが、日本社会は貧富の格差も含めてたくさんの問題を抱えていて、フォーマルエデュケーションだけで、ある意味すべての教育に関する問題を解決できない状況になっていることも事実でだと思います。そういう意味で、教育システム全体を再設計し、その中でテクノロジーをどう位置づけていくかということが、様々な国々の様々な人々と対話をしていくべき課題ではないかと思います。
どうもありがとうございました。