UTalk / メンタルヘルスケア・精神医療の「人権モデル」

石原孝二

総合文化研究科 教授

第191回

メンタルヘルスケア・精神医療の「人権モデル」

2月のUTalkは精神医療の哲学を専門とする石原孝二さん(総合文化研究科広域科学専攻 教授)をお迎えします。現在の日本の精神医療では、子どもへの向精神薬の投与や認知症の方の入院の増加、身体拘束率の高さなどがあり、身近なところで「意思決定能力」が否定され、人権が制限される事態が起きているといいます。新型コロナウイルス感染症の際には行動制限などをめぐって様々な議論が引き起こされたのに対し、精神医療となると「自分ごと」として捉えられにくい状況があります。石原さんにはこうした社会の現状を整理いただいたうえで、新しいメンタルヘルスケア・精神医療の潮流としての「人権モデル」の考え方についてご紹介いただきます。みなさまの参加をお待ちしています。

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昨今のストレス社会において、メンタルヘルスケアへのニーズは高まる一方です。しかし近年、現行の精神医療の課題も明らかになりつつあります。私たちは今後、どのようなケア体制を作っていけばよいのでしょうか? 2月のUTalkでは、精神医学の哲学を専門とする石原孝二さんをお迎えし、「人権モデル」というキーワードから、精神医療と社会の潮流についてご紹介いただきました。医療から法律まで様々な関心をもつ参加者が集い、活発な議論から高い関心がうかがえました。

私たちが今、もし当事者として精神医療にアクセスしたら、どのような問題に直面しうるのでしょうか。石原さんがまず指摘されたのは、日本の精神医療の特殊性です。日本には精神科のベッドが全国で30万床ほどありますが、これは他のOECD加盟国とくらべて突出して多いことが知られています。人口1000人当たりのベッド数を比較すると、アメリカやイギリスの7倍以上にもなるそうです。また、体をベッドに固定するなどの身体拘束率も、日本はニュージーランドの約3000倍、アメリカの約267倍高いといった調査結果もでています。そして、日本には精神科医療を受ける人々の人権が十分に守られているかを監査するシステムがないそうです。このような病床数と身体拘束の多さ、患者の権利擁護と虐待防止システムの不備が、時に「滝山病院問題」のような凄惨な虐待にもつながっているといいます。

このような日本の精神医療をめぐる社会構造の問題は、国連からも指摘されています。日本は昨年、障害者を差別してはいけないことを定めた「障害のある人の権利条約」に批准してからはじめての審査を受けました。そこで勧告されたのは、精神障害を理由とする強制入院と強制治療を防ぎ、これを認めている法律を廃止すること、インフォームドコンセントの権利を保証すること、地域で自立した生活を送るための支援を強化することなどです。日本の精神保健福祉法では、強制入院(措置入院と医療保護入院)が一定の条件の下で認められており、現在も13万人ほどが「医療保護入院」をしています。また、国連の勧告と異なり、「精神障害のある人にインフォームドコンセントはできない」と考える人も多いそうです。参加者の皆さまからは、個人の意思決定を公の権力で抑制することがどこまで正当なのだろうか、といった疑問が次々とあがりました。

国連の勧告に拘束力はないそうですが、数年後の次回審査に向けて、いま日本はこれらの問題を解決する道筋を示すことが求められています。石原さんが現在注目しているのは、「人権モデル」に基づいたケアの在り方です。障害を個人の病気に帰属させる「生物医学モデル」に基づく現行の精神医療では、診断と薬物療法への過度な依存が問題になってきました。疾患ではなく「人」を支援の中心に据え、障害を持つ人の人権を保障し、インフォームドコンセントや地域での生活における支援などを保障することを前提とした実践的なアプローチが「人権モデル」です。支援を担う人的リソースの不足などが課題ですが、例えばイタリアでは、人権モデルの実現に近い法体制が整備されており、日本の精神保健体制もヒントを得ることができるかもしれません。

それでは、このような精神医療と社会の問題に、哲学ができることは何なのでしょうか?まず、法整備や社会構造を考えるうえで必要な「精神疾患や自由意志、意思決定をどうとらえるか」などを考察することも哲学の役割です。加えて、石原さんは特に科学哲学の強みとして、「エビデンスの問題にメタな視点からアプローチできること」を挙げられました。例えば、統合失調症の(薬物療法の)維持療法を有効とする「エビデンス」は、そのほとんどが比較的短期間のデータで構築されてきたことが明らかになってきています。このように、一歩俯瞰して精神医療の実践を捉えなおす視座は、科学哲学的アプローチの強みと言えそうです。一見現実離れしていそうにも思えた「哲学」が、社会実践をもその射程におけることを強く感じた瞬間でした。

当日のカフェは満員で、この時期には暖かい晴天の下、石原さんと参加者の皆さまのやりとりが尽きることはありませんでした。哲学の知と社会が出会う場として、また、メンタルヘルスケアの世界とパブリックライフの接点として、新しいアプローチができていたらうれしく思います。石原さん、ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。

[アシスタント 加藤千遥]