東洋文化研究所 特任研究員
第136回
鵜飼敦子さん(東洋文化研究所 特任研究員)のご専門は19世紀の日仏文化交渉史で、美術史のジャポニスムについて研究されています。19世紀末、フランスのナンシーを拠点に活躍したエミール・ガレは、一人の芸術家としてだけでなく、100人あまりのスタッフを抱える工場の経営者、アートディレクターとしても活躍していました。意外性を持たせた作品を次々生み出し、パリ万博でも活躍し、一世を風靡したエミール・ガレとはどんな人物だったのでしょう。土曜の午後のひととき、コーヒー片手にガレの時代に想いをはせてみませんか。みなさまのご参加をお待ちしております。
2019年7月のUTalkでは、鵜飼敦子さん(東洋文化研究所 特任研究員)をゲストにお招きしました。鵜飼さんは19世紀の日仏文化交渉史をご専門にしていて、今回のテーマは19世紀のフランスで活躍したエミール・ガレでした。会の前半では講義形式で鵜飼さんからエミール・ガレや彼の作品についてご紹介があり、後半は参加者との質疑応答で会が進みました。
エミール・ガレはフランスのナンシーで生まれました。彼の作品は日本でも非常に人気があり、ガレは自ら作品をつくる「作家」のようなイメージを持たれています。しかし実際にはガレは職人を100人以上抱える工房を持ち、自身はアート・ディレクターとして職人たちへの指示書を書いたり、作品の解説書を書いたりしていました。鵜飼さんが見せてくださったイラストには、ペンを持って机に向かうガレの姿が描かれていました。
ガレの工房ではガラス作品に限らず、木工製品や陶磁器も製作されました。ガレのガラス作品の特徴は、ガラスに透明度・純度を求めるそれまでの流れと異なり、気泡や鉱物を混ぜたり表面を削ったりすることで様々な色・質感が表現されていることです。初期の北斎の漫画をそのまま写したような作品から晩年の漆塗りのような表情を見せる作品まで、日本風の作品を多く生み出したガレですが、彼が取り入れた異国の要素は、日本のものに限りませんでした。しかし鵜飼さんの研究などから明治・大正期の日本画家、高島北海と交流があったことがわかっているなど、ガレと日本のつながりは確かにあったようです。
ガレはアート・ディレクターであっただけではなく、意匠登録や特許の申請など、ガレのブランドを守るための事務的なことも行っていました。19世紀当時から現在に至るまでガレの作品の贋作がつくられていて、作品をつくるだけではなく、ガレが開発した色や技法を守る努力もありました。
参加者からはガレの作品やガラス作品についての質問が多く出て、日本でのガレの人気が見て取れました。ガレの作品は量産されていたがそれでも高価だったこと、工房は父親から引き継がれて拡張されていき、ガレの死後30年弱でなくなってしまったことなどを知りました。フランスで「ガレの作品の値段を高くしたのは日本人だ」と思われていて、日本人の印象があまり良くないことも伺いました。
また、鵜飼さんの研究の進め方についても質問があり、作品と向き合う作品論的な進め方では推測するしかない部分について文字資料を読み解くことで知見を生み出したい、というお話がありました。ガレと日本のつながりも作品を見ているだけでは作風から推測するしかありませんが、高島北海とガレのやり取りが明らかになれば、より確実な議論をすることができます。メールやLINEが普及し紙媒体が減った現代を未来の人が研究できるのか不安だ、というつぶやきが個人的に印象的でした。
会を通して、日本では知られていないエミール・ガレの姿が見えてきました。鵜飼さん、参加者のみなさん、ありがとうございました。
[アシスタント:石井秀昌]