情報学環 教授
第135回
吉見俊哉さん(大学院情報学環・学際情報学府 教授)のご専門は文化研究やメディア研究で、東京文化資源会議の幹事長としても活躍されています。東京文化資源区とは、都心の北東部である谷根千、根岸から上野、本郷、湯島、神保町、秋葉原、神田に至る地区を指しています。江戸以来の伝統が残るにも関わらず、高度成長メインの戦後の開発によって忘れられてきた北東部。文化資源として価値が高く、半径約2kmの徒歩圏として実はひとつづきであるこの地域の一体性を取り戻し、文化の中心としての役割を取り戻そうという想いをこめたプロジェクトが2014年から始まっています。土曜の午後、コーヒー片手に東京の未来について想いをはせてみませんか。みなさまのご参加をお待ちしております。
2019年6月のUTalkでは、社会学・メディア論を専門とされている吉見俊哉さん(東京大学大学院情報学環 教授)にお越しいただきました。今回のテーマは「東京文化資源区」です。東京文化資源区は、吉見さんが幹事長としてかかわる東京文化資源会議が進めている、東京の北東部にある都市の文化資源を再活用して新しい文化の中心地をつくっていくプロジェクトを指します。
今の東京の基調となっているのは1964年の東京オリンピックを期に進められた都市改造です。速さを追求する都市づくりのために都電の代わりに地下鉄が建設されたほか、新幹線、首都高、空港へのモノレールが新しく建設され、渋滞のない速い東京が目指されました。
しかし現代社会を考えてみると、より速く、より高くという成長モデルの都市よりも、むしろ生活がより楽しく、より災害に対してしなやかで、環境を考慮した持続可能性を持った都市が求められているといえます。つまり短期スパンに建設を繰り返していくスクラップアンドビルドではなく、長期的な時間軸にもとづいて都市を再利用する仕組みをつくっていくことが新しいテーマとして浮上してくるのです。都市の文化資源を再活用し、リノベーションなどを施すことで都市に再び価値を与えていくことが重要だといえます。
東京の歴史を振り返ってみると、戦前に東京文化の中心であった神田、銀座、上野、浅草といった銀座線の街から青山や原宿、六本木といった港区・渋谷区に東京の文化の中心が移ったと指摘できます。この転換は戦前日本陸軍の場所をアメリカ軍が占領し、そこを中心としてアメリカンカルチャーが発達して若者が集う場所に変貌したことによってもたらされました。
ただ、東京都心の北東部に位置する「東京文化資源区」に再び目を向けると、東京の南西部とは異なる下町や江戸以来の文化、最先端のアニメカルチャーからアジアとのつながりまで見出すことができるのです。
この地域は上野と神保町という2つのコアを有しています。上野は幕末から明治への転換がもっとも鮮明に見ることができる場所の一つです。次に上野公園に行くときには是非上野東照宮に行ってくださいと吉見さんは呼びかけました。寛永寺の伽藍や彰義隊の墓地が江戸時代以来の土地の記憶をとどめています。上野戦争に伴って寛永寺が焼けたあと、新政府は徳川家の聖地に上野公園を設置するとともに博覧会を開催して西洋文明の展示場となしていきました。その後も新政府は博物館など近代文明の象徴を上野に設置していくことで上野の場所が有していた意味を大きく変えていったのです。
もう一つのコアである神田神保町は日本で最初の大学街となった場所です。今では明治大学がその名残をとどめていますが、実は東大発祥の地でもあり、一橋大学、学習院大学も当初は神田に立地していました。そして大学を中心にして出版社や書店街が形成されていくようになります。こうして神田神保町は近代日本の学術文化の中心地となりました。そこをめがけて孫文や魯迅といった中国人留学生がつどい、明治・大正期には5万人近い中国からの留学生が来ています。このようにして神田神保町はアジアとの強いつながりを有していくようになるのです。
東京文化資源区はこのように上野や神保町、あるいは秋葉原や神田を含む千代田区、台東区、文京区にかかる2.5キロから3キロのエリアにおいて、そうした空間をつなぐバーチャルな区をつくってしまうという取り組みです。森鴎外が『雁』で東大医学部から秋葉原、小石川を毎朝散歩して回っている日々を記述しているように、明治時代の人にとってこの周辺は歩いて訪れることができる街として存在していたのです。
そもそも、東京文化資源区の原型は戦後直後にまでさかのぼります。1945年の敗戦によって、これまでの軍事国家から文化国家に転換する必要が指摘されるようになりました。それはすなわち軍都としての東京から文化都市としての東京をつくるということでもあったのです。その計画を具体的に立案したのが都市計画家の石川栄耀です。石川は文化都市において大学に重要な役割を与え、本郷や早稲田、三田を大学街として形成することを構想していました。本郷に位置する東大は、総長の南原繁の協力を得つつ都市計画家の高山英華のもと若き日の丹下健三が具体的な文教地区の設計を担当していました。しかし、1950年の朝鮮戦争勃発とともに文化よりも経済成長に焦点が当てられるようになり、文化都市の構想は失われていったのです。東京文化資源区の構想は、これらを現代の文脈の上で蘇らせるということでもあります。
具体的な提案として3つのプランを吉見さんは提示しました。1つ目が東京都心部に路面電車を復活させることです。地下鉄や自動車という時速40キロで走る乗り物は町と乗っている人を別の空間に切り離してしまいます。しかし、時速15キロで走る路面電車は乗客に街の変化をよく見せるインターフェースとなることに加え、多くの人が路面電車から降りて街の店を訪れることで地域経済の活性化にも資することが期待されます。具体的には南千住、隅田公園、浅草、上野、秋葉原を新たに路面電車でつなぎ、なおかつ現在の都電荒川線と接続することを構想しています。
2つ目が東京文化資源区に位置する宗教施設をつないでいくことです。この地区には仏教寛永寺のほか、儒教の湯島聖堂、神道の神田明神、ギリシャ正教のニコライ堂や、御徒町にはモスクもあり、さまざまな宗教が集う一大中心地になっています。この宗教の拠点としての価値を再評価し、新しい時代の地域社会との結びつきの在り方を考えていく必要があります。
そして3つ目が上野の不忍池を変えることです。今の不忍池の夜は電灯も人も乏しく寂しい場所になっていますが、明治・大正時代は不忍池が華やかな盛り場として成立していたのです。この賑わいを取り戻すため東京文化資源区が考えているのが上野ナイトパーク構想です。不忍池におしゃれなカフェやレストランを開くことで夜も人が集まる空間を創出し、夜の不忍池をデートスポットにしたり、観光客が訪れることのできる場所にしたりしていくことが重要なのです。
参加者の中からは、路面電車を中心に質問が集まりました。吉見さんは路面電車を実施する上で一番の障害になるのは道路交通法だといいます。現行の法律では車道と歩道というカテゴリーしかないため、新たに軌道というカテゴリーをつくる必要があるのです。そもそも東京から都電が消えた理由として、自動車の交通量が増加したためにもともと存在していた軌道の規制が撤廃されたということが挙げられます。その結果、自動車が路面電車の軌道にも侵入できるようになり、ますます路面電車が遅延するようになって路面電車は不便なものになりました。だからこそ車の入らない専用軌道を設ける必要があるのです。
また、路面電車の車体のデザインについても質問がありました。吉見さんは最も重要なのは圧倒的に窓を大きくすることだといいます。乗り物は速度が速くなるにつれて窓が小さくなるという反比例の関係にあります。路面電車を単なる移動手段ではなく町とのメディアにするためには、乗客を街に開くための窓を最大限大きくする必要があるのです。
吉見さんは東京文化資源区のプロジェクトについて、東京の中における地域の記憶や古い建物の価値を再評価し、路面電車や文化資源を活用していくように、都市に単線的ではない時間を入れていくということが重要であると何度も強調していました。
吉見さん、参加者のみなさま、どうもありがとうございました。
[アシスタント:中川雄大]