UTalk / イギリス紳士のインド愛憎

冨澤かな

附属図書館U-PARL [アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門] 特任准教授

第116回

イギリス紳士のインド愛憎

冨澤かなさん(附属図書館U-PARL [アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門] 特任准教授)はインドをめぐるオリエンタリズムの研究をされています。オリエンタリズムというと、東洋に対する西洋側からのステレオタイプでマイナスのイメージと思われがちですが、植民地化初期のイギリス側には、インドに共感を覚え、深く理解しようとしていた人たちもいたそうです。西洋から東洋にやって来た彼らはインドという他者をどのようにとらえていたのでしょうか。土曜の午後、知的好奇心を刺激するカフェでのひととき。みなさまのご参加をお待ちしております。

U-Talk Report U-Talk Report

2017年11月のUTalkは,附属図書館U-PARL[アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門]特任准教授の冨澤かなさんにお越しいただきました.宗教学が専門の冨澤さんからは,インドに関するオリエンタリズムをテーマに他者との向き合い方についてお話いただきました.

オリエンタリズムとは「西洋が東洋を,西洋に都合の良い形で否定的に語り支配する仕組み」のことです.他者を「異物」として支配・差異化・蔑視することで,自分を確認し肯定しようとするオリエンタリズムは,インドを植民地化したイギリスにも見られました.しかしその一方で,植民地時代のイギリス人のインドへの関わりをよく見ていくと,「支配・差異化・蔑視」だけには収まらない、複雑な面があったことがわかります.

例えば,判事としてインドにやってきたサー・ウィリアム・ジョーンズ(1746―1794)は東洋学者としても知られ,サンスクリット語とギリシャ・ラテン語等のヨーロッパ諸言語との類似を指摘し,印欧語族説をたてた人物です.彼は,インドにおけるサンスクリット文献とバラモン(ヒンドゥー教の司祭.ブラーフマン)の権威を重視し,従来の「東洋は王の専制支配により停滞・堕落している」というオリエンタリズム的な認識とは違う,ヨーロッパとつながりのある高度な宗教文化というインド像を示したのです.

では,ジョーンズが全くオリエンタリズムから抜け出していたかと言うと,そうとも言えません.彼はバラモンに共感を覚える一方で,例えば当時のヒンドゥー教の女神崇拝は「堕落したもの」と捉えていました.ジョーンズは確かにインドに共感と賞賛を寄せていましたが,そうした「共感できる」ことにはどこかに「共感できないもの」を生み出す限界があるのです.

共感の限界は,同じく親インド派として知られる、ウォレン・ヘイスティングズ(1732-1818)とエドマンド・バーク(1729-1797)の「けんか」にも見られます.バークはベンガル総督であったヘイスティングズのインド統治が専制的で野蛮で堕落したものであったと厳しく批判し,その弾劾裁判を主導しました.この背後には,当時イギリス社会で「ネイボブ」と揶揄されていた,インド帰りの成功者への反感があります.インド的な奢侈に慣れた彼らは成金趣味で堕落しているというのです.ここにはインドへの思いの奇妙な歪みがあります.バークはインドに共感を寄せる一方で,ヘイスティングズを批判する際には「専制」「野蛮」「堕落」「パシャ」「ハゲタカ」等々,まさに「オリエンタリズム」的な語彙を駆使します.これは共感と反感の線引きの調整であって,実は旧来の「東洋的専制」イメージなどのオリエンタリズムから脱却していたわけではないと思われるのです.

冨澤さんは,異文化に向かう姿勢は,「共感」と「相対主義」に分裂してしまうと指摘します.共感は大切ですが,どこまで拡げてもその外側に「わからない」ものが残ります.また,「みんな同じでみんないい」という態度が,他者を一方的に飲み込む「包摂主義」に至る危険もあります.では,「みんな違ってみんないい」と文化相対主義でいけばよいかというと,その正体は「実はみんな同じでみんないい」であることも多いですし,徹底すれば,最終的には異なる存在の間の理解や対話の可能性自体を閉ざしてしまう「文化相対主義の陥穽」にぶつかることになります.どちら側にも行き止まりがあるのです.

だからこそ,「わかる」と「わからない」の境で,ジリジリと向き合い続けていくことしかできないのではないか,するとお互いが少しずつ変化して,今日「わからない」関係が「わかる」ようになることもある,それが希望ではないか,とお話しくださいました.

これに対して,参加者の方から「それでも,基本的な姿勢として共感がないと,向き合っていくモチベーションにはならないのではないか」という質問がありました.冨澤さんもその通りとおっしゃったうえで,「第一歩は共感だと思うけれど,そこから,好ましくない部分や,居心地の悪い側面にも関わっていられるか,それは共感というより『愛』だと思う」とお答えになりました.

異文化や他者を「好き」と言うことは簡単ですが,「好きではない」ことも含めて関わり続けることは大変なことです.でも,共感には限界があることを歴史的に知った以上,これからを生きる私たちにできることは,関わり続けようと挑戦することではないかと感じました.冨澤さん,参加者のみなさま,ありがとうございました.

[マネージャー 杉山昂平]