工学系研究科建築学専攻 助教
第98回
5月のUTalkは、初田香成さん(工学系研究科建築学専攻助教)をお迎えします。商店街ともひと味違う昭和の横丁、都心の雑居ビルによくある地下の飲み屋街。そのルーツは闇市と深く関わっています。闇市はどのように生まれ、何が売られ、どのような人が営業していたのでしょうか。そこからはどのような都市の使い方の知恵が学べるでしょうか。たくさんの地図や写真をみながら考えます。 みなさまのご参加をお待ちしています。
2016年5月14日のUTalkは、工学系研究科建築学専攻助教の初田香成さんをお迎えして行われました。初田さんには戦後日本で大きく広がった闇市の内情、また闇市に見られる都市空間の使い方についてお話しいただきました。
初田さんが闇市に興味をお持ちになったのは、闇市を身近に感じたあるきっかけからです。なんとご自身のお祖母様が戦後物を売ろうと闇市に出向いたことがあるそうです。しかし結局怖そうなお兄さんが出て来て、売らずに帰ったとのことです。売らずに帰ったとはいえ、普通の人でも物を売りに行こうと思えるような雰囲気が闇市にあったのだ、と初田さんは驚いたそうです。
闇市とは何らかの流通統制下で公式ではないルートを経た物資が出回る市場のことです。闇市は終戦直後から各地の駅前で発生しました。東京では1万8千人もの人が闇市で商売をし、特に活気があったのは新橋や新宿などの国鉄の駅前でした。これらの地域は今でも飲み屋街として有名です。駅前に闇市が発達した理由は、戦中に駅前の人々が強制疎開をさせられたため、駅周辺に広場ができていたことが大きかったそうです。闇市の多くは終戦翌年の春頃が一番にぎわいましたが、その後、流通事情が回復し周囲の商店街も復興してくると、区画整理などによって多くが昭和25年くらいまでには消えていきました。また全国の自治体史を総覧すると、闇市は東京だけでなく全国の主要な町のほぼ全てで発達していました。しかも戦災がある、ないに関わらず見られたそうです。
闇市と言うと一見怖そうな雰囲気もありますが、闇市で商売していた人たちはどのような人たちだったのでしょうか。当時の記録によると、その8割が素人の露店商でした。女性が出店していることも多く、軍人の遺族や戦争で焼け出された人たちも多かったそうです。闇市は、戦争で生活が苦しくなったような人が開業でき、生計を立てていくことのできる場となっていたのです。8割が素人ということでしたが、残る2割が「テキ屋」と呼ばれるプロの露店商です。テキ屋は露店商から場所代をとり、市場全体を仕切っていました。闇市が見られなくなると、テキ屋の多くはもとの露店商に戻っていきますが、なかには都議会議員になったり闇市があった場所にビルを建ててビルのオーナーになっていくような人もでてきました。
闇市の立地に注目すると、今では不思議に思うような場所を見ることができます。例えば神社の境内や川など何らかの水面の近くなどです。現在ではそのような場所で商売をすることはあまりありませんが、近代以前の日本ではそういった場所での商売はよく見られました。この点で、闇市は都市空間の伝統的な使い方を継承していたと言うことができそうです。また、江戸時代から路上で商売する人々は見られ、テキ屋の一部は近世までさかのぼるものもあると言われます。闇市が隆盛した背景にはこうした伝統的な都市空間の使い方がありました。現在ではそのような都市空間の使い方は一見、失われてしまったようにも見えますが、例えば東日本大震災の被災地では、神社の境内に仮設の店舗を出すケースがあったそうです。これからも必要な時にそのような回帰の現象が現れてくるかもしれません。
初田さんのお話しを受け、参加者から闇市のあった場所の土地の権利関係はどうなっていたのか、という質問がでました。闇市には国鉄や都などの公有地に立つものと民有地に立つものの両方があり、公有地にできたものの方が残りやすかったそうです。闇市ができた当初は露店商たちは土地に関する権利は持っていませんでしたが、現在まで商売を続けているようなところでは、どこかの時点で権利関係を整理したために現在まで存続したと考えられるそうです。
今日のお話しを聞き、闇市が非合法な存在だったにも関わらず、戦後の人々にとって非常に身近なものであったことを知ることができました。また現在目に見える都市のあり方とは少し異なる都市のあり方が存在したことに気づかせていただきました。興味深いお話しをしてくださった初田さん、お越しくださった参加者の皆様、ありがとうございました。
[アシスタント:東秋帆]