「なりきりEnglish!」は、企業向けの人材育成用の英語教材である。特徴的な点は、学習者の英語利用の文脈にあったストーリーがそのままリスニングのスキットになっている点である。つまり、「あなたが将来耳にする英語」を携帯電話で学んでもらうことになる。他にも反復学習をしたり、携帯電話とワークショップを結びつけるといった工夫をしている。
従来のビジネス英語の教材は、1日目は経営者の立場で、2日目は人事部の立場で、3日目はコピー機の修理屋さんだったりと言った具合に、立場がコロコロと変わるものが多い。広い意味ではビジネスであるが、これでは本当に自分の業務に必要な英語を身につけることは厳しいだろうと考えた。そこで、我々が提案するのは「CESP: (Contextualized English for Specific Purpose)」、つまり「あなたが将来耳にする英語:あなた仕様の英語」をリスニングのスキットに用いるという方法である。まだ十分に検証はされていないが、CESPを用いることで学習効果が高まるという仮説を立てた。リスニング能力の向上、学習継続率、英語不安の低下、英語での自社の説明能力などが向上すると考えられる。
CESPの開発に際して、まず、教育学者、経営学者、英語教育学者のチームが役員と人事部長にヒアリングを行い、事業概要と今後の予想、経営戦略と英語利用文脈の調査を行った。次に、ストーリーを作成したが、内容を若手社員にチェックをしてもらうことによって、「うちの会社ならあるかも度」を向上させた。作成されたストーリーを、最後にカリキュラム化した。
今回のケースのベネッセ社のCESPは、東アジア地域で事業立ち上げのための視察に使う英語で、教育行政官に話を聞く、保護者に話を聞く、現地の教員に話を聞く、聞いた内容を報告書にまとめる、帰国してプレゼンを行うといったことが必要になる。このような英語を、スマートフォンを使って「すきま時間」に学習を行ってもらった。
今回は、ベネッセ社員23名に対して1週間、形成的評価のための実証実験を行った。検証目標はシステムが稼働するかといったことで、学習効果は2008年度に検証する予定である。今回は山田氏にどのようなシステムなのか、島田氏にどんなコンテンツなのか、その背後にどのような理論があるのか、北村氏には評価について発表をしていただく。
「なりきりEnglish!」実現のためのシステム要件を検討したところ、必要なのは以下のような「文脈」「質」「すきま時間」「簡易性」「きっかけ」であると考えた。
クライアント側は、Adobe Flashで開発を行った。動画と音質については高品質なFlash Videoを採用した。学習進捗管理は、基本的にサーバで行うが、電波が入らない場合でも利用できるようにローカルでも管理でいるようにした。
コンテンツ構造と内容はXMLで管理することにより、編集時に開発ツールを不要にし、メールを朝と夜に配信することでメールから簡単にシステムを起動できるようにした。
まず参加者全員に集まってもらい、ワークショップを開いて学習する文脈を与えた。次に、スマートフォン(W-ZERO3)を持ってもらい、1週間、文脈に沿ったコンテンツを学習してもらった。コンテンツは学習者によって異なるコンテンツを与えた。
1週間後にもう一度ワークショップを開き、学んだ情報を交換することによって学習の成果を確認した。
最初のワークショップで与えられる学習の文脈は、まず上司から重要な任務を与えられるという、実際の業務でも想定されるシーンから始まる。任務は先輩と一緒に議事録係として調査のために出張することである。これによりリスニングを行わなくてはならない機会の設定をする。次に業務に関する基本的背景知識を調査する。最後に議事録作成・報告書作成をする状況になる。これはリスニングの成果を出す機会の設定である。
「ひとりで学習」は、まず受信したメールの添付ファイルを開くところから始まる。添付ファイルを開いてからの学習の流れは以下の通りである。
最後のワークショップでは、ひとりで学んだ成果を持ち寄って、グループ全員で最終プレゼンを行う。「ひとりで学習」は他のメンバーとは違うスキットが流れているので、情報交換をしなければならない状況を設定でき、メンバー間の活動を活発化させることが可能である。
言語のコミュニケーションは、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことの4つの機能で成り立っているが、日常生活における「聞くこと」の割合は40%~50%と言われている。。「聞くこと」つまり「聴解」が、コミュニケーション活動の中心となっているといえる。
Ellis(1995)の「第2言語の習得過程」によると、個人で学ぶ方法が違っても、習得過程はある程度共通していると言われている。「理解できるインプット」を得ることにより、言語習得は進む。
「理解できるインプットを得ること」が学習者の運用力につながり、その運用力を使ってアウトプットすることができるようになる。まず英語学習では、理解できるインプットを増やすことが重要である。つまり、聴解学習には、「言語習得のためのインプットを得る」という大切な働きがあるのである。
聴解というのは、理解できないインプットを理解できるようにする過程であると考えられる。理解するためには文脈や場面、背景知識によって予測や推測をする必要がある。それに加えて、文法や単語などの言語知識も必要である。これらの言語知識を利用して、我々は意味と形式を照合しながら理解しているのである。聴解の過程は、言語知識を活用し、また、文脈・場面や背景知識を手がかりにして、音声から意味を構築する、アクティブな活動であるといえる。聴解練習ではインプットを理解できるインプットに変える過程を経験させることが必要になってくる。
聴解を行う上で、言語知識を用いて意味と形式を照合する過程は、ボトムアップ処理といえる。インプットを言語知識を用いて、単語→文章→全体の順番で大きな単位で全体を理解する過程をボトムアップ処理と呼んでいる。 聴解における音声によるインプットは聞いたそばから消えていってしまう。よって、ボトムアップの処理は記憶の中で行うしかない。聴解は読解と比べて、ボトムアップ処理の負荷が大きいと言える。
聴解を行う上で、文脈や場面、背景知識を用いて予測と推測を行う過程は、トップダウン処理であるといえる。理解できないものを含んだインプットを、理解できるインプットに変えるためには、トップダウン処理が重要な役割を果たす。
聴解とは、ボトムアップ処理とトップダウン処理によって、インプットを理解できるインプットへ変化させる過程である。
ここからが「なりきりEnglish!」の教材設計に用いた理論の話になるが、聴解指導法の中には効果的な聞き手は、トップダウン処理を最大限駆使し、必要に応じてボトムアップ処理で補っているという研究がある。
「なりきりEnglish!」では、トップダウン処理を最大限駆使し、必要に応じてボトムアップ処理で補うという、効果的な聴き方を教材でストラテジーとして埋め込んで提供できないかと考えた。
「聴解ストラテジー」とは、聞き手が音声言語を理解しようとするときに、聞き取れない部分の理解を補うために用いる意識的な計画である(Rost, 2001改)。「聴解ストラテジー」を意識化する聴解指導法については、複数の研究者が効果があると述べている。
Mendelsohn(1994)は、聞く練習をいきなりするのではなくて、プレリスニングの段階で学習者に動機付けをはかったり、学習者がすでに持っている知識の活性化をすることが必要だと述べている。また、聞く練習をする際には、目的を持って聞かせることが必要で、聞く目的に応じて必要なストラテジーをどのように使ったらいいかを意識させることが重要であるとも言っている。さらに、聞いただけで終わるのではなく、聞いた後に聞いたことについて反応させることが重要で、ポストリスニングの活動が必要であると言っている。
横山(2005)は、Mendelsohn(1994)が指摘する点に加えて、学習者が自分が理解したかどうかを確認しながら聞くことが重要であると述べている。
「なりきりEnglish!」では、これらの研究成果を踏まえ、聴解ストラテジーを意識化する指導法をとっている。
「なりきりEnglish!」では、「聴解ストラテジー」を意識化する指導法を目指したが、次の点をシステムの要件として考えた。
山田氏のプレゼンテーションの中にあった、「ひとりで学習」の流れに合わせると、1〜3がプレリスニング、4〜7がリスニング、8〜9がポストリスニングと位置づけられる。
「なりきりEnglish」の教材構成とストラテジーをまとめると、以下のような表になる。
トップダウン | ボトムアップ | 理解の確認 | ||
プレ | 1.今日の目標 | ◎ | ||
2.知っていますか | ◎ | |||
3.今日のキーワード | ◎ | ○ | ||
リスニング | 4.おためしリスニング | ◎ | ||
5.ざっくりリスニング | ◎ | (○) | ○ | |
6.つかんでリスニング | ◎ | ○ | ||
7.じっくりリスニング | ◎ | ◎ | ○ | |
ポスト | 8.今日のまとめ | ◎ | ||
9.おやすみリスニング | ◎ |
評価の観点としてまず挙げられるのは、モバイルの利用について=モバイルでやってよかったのか、という点である。次に、学習教材なので学習効果=「なりきりEnglish!」で学習すると効果があるのか、を検証した。最後に、文脈について=文脈にあったストーリーだとどうだったのか、について検証した。
なお、今年度は形成的評価で、教材として適しているかを中心に評価した。詳細な学習の効果についての検証は来年度以降の課題である。
評価の方法は、1週間の実証実験を行った。今回はベネッセ社員23名、データが取れたのは20名である。
モバイルでやることのメリットとしては、いつでもどこでも好きな時間に学習することができるということが考えられる。そこで、事後質問紙で「なりきりEnglish!」をどこで使用したかを調査した。徒歩、電車・バスなどを待っているときと乗っているとき、会社にいるとき、出先にいるときに使用したかを訪ねたところ、最も多かったのは電車・バスなどに乗っているときで60%であった。また自宅外のいずれかの場所で使ったと答えた人が80%で、モバイルであったことのメリットが示されたと言える。フォローインタビューで実際にどこでやったかを訪ねたところ、終業後の会社の図書館や、お昼休み、通勤電車の中、自宅という答えがあった。
メールで起動するシステムについては、やらなくてはという気持ちになるという答えがあった。
一方で、こちらで設定した時間で行ってもらったので、生活時間と合っていなかった人が若干いたようだ。
ストーリーと同じ文脈のリスニングテストを行ったところ、事前テストに比べて事後テストの方が有意に得点が高いことが確認された。
一般的な英語力テスト(CASEC)では、大意把握を行なうリスニングテストでは、事前と事後で有意な差がなかった。しかし一方で、具体情報の聞き取りに関するリスニングテストでは、事前テストに比べて事後テストの方が、10%水準で有意に得点が高いという結果が得られた。これは、スペシフィックなリスニング力だけでは無く、一般的なリスニング力にも学習効果があったことを示唆している。
英語に対する自信のなさを質問紙で測定したところ、学習後には、英語使用に対する不安が有意に低下していることが確認された。これは「なりきりEnglish!」で学習することによって、英語使用に対する自信を持つことができるようになったことを示している。
「ベネッセの事業内容を英語で説明してください」というテストを事前、事後で行い、語彙・表現、正確さ、わかりやすさを各4点満点で採点した。事前テストに比べて事後テストの得点は有意に高かった。「なりきりEnglish!」はリスニング教材ではあるが、自社の事業内容を説明するような表現に関する英語力についてもプラスの寄与があることが確認された。
「なりきりEnglish!」はさまざまな場所、時間帯で学習が行なわれた。また、1週間であってもリスニング力の向上に効果があり、英語不安の低下という学習効果が見られた。自社の事業内容に関する説明力向上は、文脈の効果を示している。
次年度は「なりきりEnglish!」の学習効果の検証実験を行う。リスニング学習における「文脈効果」の検証を本格的に行いたい。実証実験に参加していただける企業1社を募集している。3週間で30名の社員のご参加と、ストーリーメイキングへのご協力をいただきたい。携帯電話とコンテンツ開発費は東京大学が負担する。たとえば、現在はインド企業へのオフショアが流行しているが、IT企業向けに「インド英語」教材を開発するのも面白いかと考えている。