UTalk / ボクシングジムの社会学—スポーツの経験を分析するということ

藤 杏子

情報学環 特任研究員

第220回

ボクシングジムの社会学—スポーツの経験を分析するということ

8月のUTalkでは、スポーツ社会学・文化社会学を専門とする藤 杏子さん(情報学環 特任研究員)をお迎えします。ボクシングと聞くと、勝敗や強さが重視される、激しいトレーニングを伴うスポーツを思い浮かべる方も多いかもしれません。しかし、街のボクシングジムには、プロを目指す人だけでなく、健康や趣味を目的として通う人、年齢や経験もさまざまな人たちが集まっています。 藤さんは、ご自身もボクシングジムに通いながら、フィールドワークや練習場面の映像データの微視的な観察をもとに、ジムに集う人びとがどのように一緒に練習し、その場を作っているのかについて研究しています。パンチを打つ、ミットを受ける、声をかける、順番を待つ。こうしたひとつひとつの実践を通じて、人々はボクシングジムという場をどのように作りあげているのでしょうか。今回のUTalkでは、ミット打ち練習のやりとりを手がかりに、一瞬で過ぎ去ってしまうパンチを、コーチやボクサーたちはどのように捉えているのか、藤さんと一緒に考えていきます。皆さんのご参加をお待ちしています。

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8月のUTalkでは、スポーツ社会学・文化社会学を専門とする藤 杏子さん(情報学環・特任研究員)をお迎えしました。藤さんが研究対象とするのは、人々が日常的に楽しむ「街のボクシングジム」です。一瞬で過ぎ去るミット打ちや身体の動き、声かけ、順番待ち。コンマ数秒の単位で詳細に記述された「無意識の実践」を紐解く藤さんのアプローチにより、ジムに集う人々が日々の微細な相互行為を通じて、いかにして心地よい場や秩序を作り上げているのかが、新鮮な切り口で描き出されました。

藤さんはもともとITエンジニアを目指す中で、暗記ではなく「参加の仕方や振る舞いが変わること」を学習と捉える状況的学習論に出会い、それをにっかけに心理学、ひいては社会学の道へ進みました。修士時代には、SNSで話題の「レンタルなんもしない人」というサービスを社会学的に分析しました。その後、会社員時代に自身の「居場所」となったのがボクシングジムでした。自由にメニューを組めて雑談が多く、自分のパンチに対して常にコーチから反応が返ってくる空間。ジム特有の「ゆるさ」が人々を引きつけるコミュニティを形成していることに藤さんは着目しました。

マクロな社会構造を語る従来の社会学に対し、藤さんのアプローチは、その場で人々が当たり前に行っている無意識の実践を説明するエスノメソドロジー・会話分析です。ビデオ撮影した練習風景から、特殊な記号を用いて「トランスクリプト」と呼ばれる書き起こしデータを作成し、発話だけでなく身体動作、沈黙の長さ、笑いを含んだ声(smiling voice)までを精緻に書き出します。AIによる文字起こしが進化する現代でも、こうした細やかなニュアンスの解釈は、人間だからこそ出来るのではないかと語ります。

後半は、コーチとボクサーがマンツーマンで行う「ミット打ち練習」のビデオデータを見ながら、ジムの「場」が作り上げられるプロセスに迫りました。まず、コーチがパンチを教える際に「1、2、3、4、5、6」と数字を発話する場面です。これは動作に順序性を強調してリズムを与えるもので、コーチとボクサーが言葉に頼りすぎず、ともに「良いパンチ」を作り上げるための実践です。さらに、身体が傾いてしまうなどの失敗が起きた際、コーチは笑いながら咎めます。この笑いを交えた発話によりトラブルのシリアス化を回避し、失敗を笑いに変えてやり直せる環境を作っています。練習の最後には、コーチが「いいね、最後ガンだね」と声をかけます。褒める際にも、具体的にどのようなパンチがどのように良かったかを発話で示すことによって盛り上がりを作り出し、リングを降りた後の雑談や交流へのスムーズな移行を促していました。

質疑応答では、他のスポーツのコミュニティの実践や、年代が異なる場合の相互作用などについて、参加者と活発な意見交換が行われました。また、プロとアマチュアが共存するジムにおいて合同練習をうまく成り立たせる技法や、無意識に行われている「楽しみの技法」を記述する意義、研究例の少ない「趣味学習」の可能性について、深い議論が交わされました。

今回のUTalkは、ボクシングジムのビデオ分析を通して、人々が「無意識の実践」によってどのように場づくりを行っているかということを実感させられる会となりました。暑い日にもかかわらず多くの方にご参加いただき、それぞれのスポーツ経験や趣味に引き付けて考えておられる様子でした。藤さん、そしてご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

[アシスタント 大島 早瑛]