UTalk / 男と女の消費者金融史

小島庸平

経済学研究科 専任講師

第131回

男と女の消費者金融史

2月のUTalkは、経済史を専門とされている小島庸平さん(経済学研究科 専任講師)をお迎えします。私たちはお金を借りながら日々の家計をやりくりし、家庭を維持しようとします。では借金を通して、男と女はどうやって共同生活を成り立たせたり、時に失敗したりしてきたのでしょうか。小島さんには経済史×ジェンダー史という観点から、日本の「消費者金融」の歴史についてお話いただきます。お金を借りたことのある人も、ない人も。金融をきっかけに、家計の「これまで」と「これから」について考えてみませんか。

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2019年2月のUTalkでは、経済史を専門とされている小島庸平さん(経済学研究科 専任講師)にお越しいただきました。小島さんはもともと農業経済学という立場から農村における無尽講など相互扶助の慣行についての歴史的研究に取り組んでいました。その立場から農村ではなく都市におけるお金の貸し借りに関心を持つようになり、消費者金融に注目するようになったそうです。
 
そもそも、これまで経済学の領域においては家計と金融機関との関連についてはほとんど明らかになっていませんでした。戦前は家計が銀行からお金を引き出すということがほとんどなく、そうした方面に対する研究もあまりなされませんでした。そのため、小島先生は金融機関がどのように家計にお金を貸していたのかということを歴史的に明らかにするという試みを始めるに至ったそうです。
しかし、家計という捉え方にも注意を払う必要がありました。なぜなら家計という捉え方は、しばしば家計の内部に踏み込まず、家計の中の夫と妻の経済的不平等を把握してこなかったからです。そのため、家計に注目しつつもその内部のジェンダー格差などにも目を向けることが必要なのです。

さて、そもそも消費者金融の源流は戦前の「素人高利貸し」に遡ることができます。戦前は親戚や職場の同僚など私人間のお金の貸し借りが主流だったのですが、銀行が個人にお金を貸すことがほとんどなかったため、多くの人が親戚間などであったとしても利子をつけてお金を貸していたのです。そのなかでも、給与をほとんど貯蓄に回し、同僚が金欠に陥った際に高利でお金を貸すことで、素人ながら多くの利益を得るような人がいました。こうした素人高利貸しを消費者金融のルーツに位置づけることができます。

そのような素人高利貸しのなかから1960年代に団地金融という商売を始める人が登場するようになります。その当時、団地とは最先端のライフスタイルを象徴する場所であり、家賃の5~9倍の月収という入居条件をクリアした住人は一流企業の社員に限られていました。このように返済に対する信頼が保証されている家庭の主婦に対して「夫に内緒で」現金を貸すようなサービスが始まりました。これが「団地金融」です。

このようなサービスは次第に広がりを見せ、さまざまな競合他社が生まれました。その中で、むしろ主婦ではなく男性のサラリーマンを対象にお金を貸すような会社が生まれていくようになります。それが現代に通じるさまざまな消費者金融の会社でした。

しかし、当時は高度経済成長期です。非常に景気の良い時期になぜ消費者金融のようなサービスが成長していったのでしょうか。その理由は、当時の会社の人事査定のシステムと男女役割分業主義に求めることができます。

当時の日本の人事査定は今とは異なる「情意考課」と呼ばれるものでした。つまり仕事の純粋な成果によって評価されるというよりも、全人格的に評価がなされるような仕組みでした。そのような評価システムの中で出世するためには「付き合い」が重要であり、しかも信頼を守るためにはかつてのように同僚から借りることができないのです。とくに中間管理職は付き合いのための麻雀やゴルフにかなりの支出を行っており、そのために消費者金融からお金を借りる必要があったのです。

加えて、戦後の家族においては、夫は稼ぎ主として外で働き、妻は専業主婦として家庭を守るという性別役割分業主義が強く信じられていました。そこでは財布のお金は妻が握っているために夫の小遣いは少ないのです。そうした状況下で夫は部下に対する体面、夫として父親としての威厳を保つ必要がありました。その結果、交際費は膨らむ一方なのに妻からはお金を借りることができないという構造があったのです。

ところが、このように男性のサラリーマンを対象としていた消費者金融も次第に女性の顧客を取り込んでいくようになります。その一つの理由が、資本の自由化による外資系の消費者金融会社の日本進出です。年利が日本の企業よりも安い外資系の会社と戦っていくために顧客を増やす必要がありました。

加えて1970年代には石油危機が生じ、経済状況が一気に暗転します。その結果、交際費ではなく生活費目的にお金を借りる人が増加することになります。性別役割分業主義のもと、生活費を管理しているのは女性でした。だからこそ、「奥さま」向けのサービスが提供されていくようになります。

しかし、このようにサービスを拡大していった結果、資金が焦げ付くようになりました。77年には大阪で始めてサラ金被害者の会が結成され、消費者金融の社会問題化が進んでいきます。70年代後半から80年代前半に消費者金融は第二の公害と目されていました。そのようななか、多額の負債を抱えてしまった人たちが最終的に採る行動にも男女の差を見出すことができます。

自殺を選択する人のほとんどは男性でした。借金から自殺を試みたことがある人の証言からは、自殺をするのは「男らしい」というような価値観を見出すことができます。他方で、女性の多くが家出をするということが明らかになっています。「額が大きすぎてとても言い出せませんでした」という証言からは家庭の中での地位が低いあまり自分の失敗を言い出しにくいという構造を、「妻として、母親として視覚なんかないのです」という証言からは家計の管理能力のないことが女性としての資格がないと見なされるという価値観を見出すことができるでしょう。このように「追い詰められた」ときに選んでしまう方法にもジェンダー差が見られるのでした。

参加者の方からは都市部ではなく農村部での貸金の仕組みはどのようになっているのかという質問が挙がっていました。小島さんによれば昔は無尽講が機能していたけれど、経済恐慌のときにお金を誰も出すことができなくなり、次第に解消されていったということです。その後は農協がそうした役割を担っていたのですが、消費者金融に自動貸付機が登場すると、顧客の規模を拡大するために農家に対する貸付も可能になるようになっていったということです。90年代以降にはロードサイドに自動貸付機が設置されるようになり、農村地域や地方においても消費者金融は拡大を見せるようになったそうです。

小島さん、参加者のみなさま、どうもありがとうございました。

[アシスタント:中川雄大]