UTalk / イスラーム教の聖なる血統

森本一夫

東洋文化研究所 准教授

第96回

イスラーム教の聖なる血統

3月のUTalkでは、イスラーム教の預言者ムハンマドの一族とされる人々について研究している森本一夫さん(東洋文化研究所 准教授)にお話を伺います。ムハンマドの子孫を称するこの人々は聖なる血統として特別視される一方で、何気なく街角で出会えるほどありふれた存在でもあります。「本当にこの人が子孫?」と疑問を抱いてしまった時、一体何がその証拠といえるのでしょう。具体的な事例を交えつつ、人間味溢れる聖なる一族の実像に迫ります。

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20163月のUTalkは、東洋文化研究所・准教授の森本一夫さんにお越しいただきました。森本さんにはイスラーム史の観点から、ムハンマド一族がイスラーム社会にしめる位置と、そこから見えてくる人々への洞察についてお話しいただきました。

ムハンマド一族は、中東に限らず全世界に、少なく見積もっても数千万人規模で存在しています。17億人というムスリムの中に遍在する彼らは、イスラーム社会の中ではあまりにも存在が自明視されており、ことさら注目されることはありませんでした。とはいえ、例えば、IS指導者であるバクダディ氏がカリフを自称するとき、ヨルダン国王アブドゥッラー2世が王としての根拠を挙げるとき、そこにはムハンマドの子孫であることが大きな意味をもっています。森本さんは、イスラーム社会とムハンマド一族が血統にいかに向き合っているかを見つめることで、イスラーム社会、さらには人間社会への洞察が引き出されるとおっしゃいます。

なぜ、ムハンマドの子孫は、イスラーム社会において大事にされるのでしょうか。それはひとえに、ムスリムたちがムハンマドに抱く崇敬の念があるからです。森本さんはイランでとても流行したというムハンマドの肖像をお持ちくださいましたが、そこに描かれているのは、純粋そうな色白の青年でした。ひげを蓄えた精悍な男性を想像していると面食らってしまいますが、ムスリムたちにとってのムハンマド、そしてその子孫たちは「本質的に清らかな人たち」というイメージを持たれているのです。イスラーム社会において血統というものが今でも忘れられず重要な意味をもっているのは、ムスリムたちが血統に徳を見出してきたからでした。

ムハンマドの子孫は、庶民の中にも存在しています。森本さんのご友人の中にもいれば、インドネシア・ジャワ島のムスリムの中にもいます。ムハンマドの子孫であることは、「この人ならば信頼できる」という印象を与えるそうです。ムハンマドの子孫である物乞いがいれば、そうでない物乞いよりも施しをする気にさせるのです。

ここまで大きな意味をもっている「ムハンマドの血統」、それはどのようにして証明されるのでしょうか。その答えの一つとして、系譜学の伝統があります。系譜学者にたずねることで、ムハンマドから自分へと至る血統を知ることができるのです。ただ、実際に「完璧に」系譜が追えるのかというと、やはりそれは不可能です。そこで、イスラーム社会では、「系譜が有名であることを周囲の人々から知られているか」が、効力をもっているのです。系譜学者の仕事を前提にしつつ、人々の証言によって、個々のケースでの血統が証明されていきます。

このような証明の仕方は「いい加減」に見えるかもしれません。しかし、私たちが日々生活するなかで「ある人は本当にその人なのか」をどのように判断しているかというと、やはり「みんながその人だとみなしているから」以上の根拠はもてないことに気づきます。イスラーム社会は、人間がつくる社会の一つであるに過ぎないのです。

そして、「ウソ」をつく人が出てきたり、証言が対立したりするのも、人間社会の常です。森本さんが現在、研究してらっしゃるのは、1920年代のイランで作られた文書で、そこにはある男女の間には婚姻関係はなく姦通があったことの証言が集められています。これは、ムハンマドの子孫である同じ子孫をもつ本家と分家のうち本家側が、分家は正統な子孫ではないことを示そうとして作成したものです。その背後にあるのは、財産争い。両家ともに、自分たちの正当性を主張しており、「血統を示す」ことが一筋縄ではいかないことを示しています。文書自体は、イスラームのルールに則り、血統や姦通といったことを問題にしていますが、似たようなことが別の形で、私たちの社会にも起きていることは容易に想像がつきます。

イスラーム社会は、イスラーム独自のルールで動いているように私たちは感じがちです。しかし、イスラームのことを勉強・研究することで、「同じ人間が、少し違うやり方で社会を営んでいる」と考えられるようになると、森本さんはおっしゃいました。

質問の時間では、「ムハンマドの一族じゃないことが判明してしまうことはあるのだろうか」という問いをいただきました。森本さんの答えは、色々なところで起きている、というもの。ただ、いったん「一族である」とみなされた人々が、「本当に一族でない」となることも困難で、信じている人が多いか少ないかの問題になるとのことでした。むしろ、血統の対立があることは理解しているが、わざわざそれを問いただす必要はない、という考えをもつ人が多いそうです。こういうこと、私たちの身の回りにもありますよね...

森本さんのお話は、イスラーム社会を出発点にして人間について考えていくもので、「これが人文知か!」と、興奮しながら聞いていました。UTalkの醍醐味を味わったように思います。森本さん、参加者のみなさま、どうもありがとうございました。

〔アシスタント:杉山昂平〕