2012年4月14日のUTalkは、新藤浩伸さん(教育学研究科・講師)をお迎えして行われました。
新藤さんは子どものころ、自分の故郷に文化ホールができ、チェンバロがやってきたことに対して、地元の市民が本当にチェンバロを聞きたいと思っているのか疑問を覚え、文化振興には良い面と悪い面があるのではないかと考えたそうです。そして、大学で人が集まって文化的な活動を行う場所について研究を始め、日比谷公会堂を中心とした歴史的研究で博士論文をまとめられたそうです。
日比谷公会堂ができる前、東京には芝居小屋や野外演説の場所はあったそうですが、しっかりとした市民の集まる建物はなかったそうです。そこで、昭和4年にできたのが日比谷公会堂です。当時の公会堂は市民の集会はもちろん、コンサートや新曲の発表会場など様々な用途で使われていたそうです。ちなみに、公会堂とは、市民が議論するための場といった意味だそうです。フランス革命時の国民公会も市民が議論する議会という意味で名付けられたそうです。
そんな日比谷公会堂も戦時に入ると、戦争の影響を避けることはできませんでした。当時は戦争に関する集会がたびたび開かれていたとのこと。公会堂で人が一堂に会する図は、戦争に対する一体感や熱気などを伝えやすいため、メディアも扱いやすかったそうです。ただ、そんな中でも公会堂において娯楽が完全になくなったわけではなく、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の日には、なんと公会堂ではボクシングの試合が行われていました。
新藤さんによれば、日比谷公会堂は「舞台を通して時代が見える」場所であるそうです。戦前には戦争関係の集会が多かった日比谷公会堂も、戦後には戦犯弾劾の集会が行われることもあったそうです。完成当初から、左右のどちらにふれた集会でも、どんなジャンルのイベントでも受け入れてきた日比谷公会堂。その舞台は時代の移り変わりをその目で見てきたといえるのでしょうね。
新藤さんのお話のあと参加者の方から、公会堂のこれからの存在意義は何か、ということについての質問が挙がりました。その質問に関して新藤さんは、地域の公会堂に対する愛着が必要ではないかと答えました。新藤さんによれば公会堂などで過去公演のチラシを集めようとした際、公演が終わるとそのチラシは捨てられてしまうことが多いことに驚いたそうです。新藤さんは、日本には公会堂が地域の歴史が積み重なっているという発想が欠けているのではないかといいます。そういう発想があれば、公会堂は市民に愛される「ハコ」になって、残っていくことができるのではないか、と話されていました。
最後に新藤さんは公会堂という人が集まる場が現代にもつ意味について話されました。戦後、テレビの登場によって人が集まるという場のもつ意味は薄れてきたそうです。そして、現代はネットの発達によってさらに人が集まらなくてもよい環境になりました。しかし、新藤さんは逆にそのような時代だからこそ人が集まることの積極的意義を考えてもいいのではないかと参加者に問いを投げかけて会を終わりました。
チラシを集めて研究をされているというお話を聞き、その地道な活動も面白いと言える新藤さんが羨ましく思えました。
興味深い話をしていただいた新藤さん、雨の中お越しくださった参加者の皆様、ありがとうございました。
[アシスタント:中野啓太]