iPadやKindleの登場で電子書籍の情報流通プラットフォームが整いつつあります。このように技術的基盤が整い、教材流通がオンラインで本格的にできるようになった時代に、我々は一体何をすべきなのでしょうか?具体的には次の2つの問いについて考えていきたいと思います。
教材が電子的に流通することによって、例えば、自然科学や文学の専門家が直接、教材を作る可能性や、大学の研究グループが草の根でコンテンツを作る可能性が出てきました。つまり、参入者が幅広くなることによって、誰が教材を作るのかというルールが変わる可能性があります。また、既に流通しているオープンコンテンツと有料コンテンツはどのような関係になるのかも重要な課題です。
教材は、元々、本の形に加え、放送の形でもコンピュータを使った形でも存在していたのです。本が電子流通の基盤に乗ることによって、教材は様々に変わる可能性があります。どのような形の教材が生まれていくかは、この数十年で決まるのではないかと考えられます。
グーテンベルクが印刷技術を発明し、コメニウスが教科書を発明したのに匹敵することが今、起きていると考えられます。電子教材について、短期的ではなく具体的かつ長期的なビジョンを持つ必要があります。そもそもどのようなサービスやプラットフォームがあれば、学習者が幸せになれるのか?それを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
iPadの登場を、単に新しいガジェットの登場とみなす風潮があるが、もっと本質を見るべきである。電子書籍という新しい配信システムが我々の社会にどんな文化的インパクトをもたらすのかが重要な問題である。
15世紀までは写本の時代であった。1冊の本の部数は数部から数十部にとどまり、多くの読者に流通する仕組みはなかった。当時と今との間の重要な違いは、書き写すか印刷するかということではなく、そこに物流が伴ったか否かである。
物流は大きな変化をもたらした。「紙のような脆弱な媒体にコピーするとは何事だ」と怒った人もいたが、これは、「電子書籍は長年の保存に値しない」と言う昨今の「紙至上主義者」と何ら変わらない。だが個々の媒体は脆弱になったが、それでも本は無くならなかった。それは、羊皮紙の本は堅牢であってもコピーされた部数が少なかったのに対し、紙の本は脆弱でも多くの部数が印刷・配本されることによって全体での堅牢さを保ったためである。
紙の電子化も同じで、個々の電子書籍の媒体の堅牢性は紙よりも低くても、あちこちで保存され、最終的に堅牢性は高まる。そこまで見通さなければ、電子書籍化の問題はきちんと見渡せない。
また、手書きの筆写という工芸文化が消滅したのは事実だが、その損失を補って余りある大きな文化的変容をもたらしたのも事実である。例えば、写本時代では、一般信者が聖書を読むことは許されなかったが、聖書が印刷されることによって信者が直接神の言葉を聞けるようになった。このことが宗教革命を引き起こしたのは有名な話である。同様の例は数多くある。
このように、宗教・技術・科学・文化・政治に対し、印刷が引き起こした影響は極めて大きい。
では書籍の電子化は何をもたらすのか?これはなかなか想像するのが難しい。答えはなく、皆さんとこれから考えていくことだが、いくつかの材料がある。
フロー | ストック | |
線的コンテンツ | 新聞雑誌 | 書籍 |
リンクコンテンツ | ウェブ | ? |
このようなマトリクスで考えてみたい。情報にはフローとストックがある。フローは日々流れていく情報である。ウェブの世界はフローの情報で溢れている。一方でストックの情報は、蓄積されるべき情報である。ジャーナリストとしてフローの情報を毎日大量に集め、取捨選択しているが、新しい情報にのみ詳しいだけで、そこに深みがないのは良くない。例えば、iPadの登場が我々の社会、産業界、生活文化にどのような影響を与えるかをきちんと考えるためには、フローの情報だけでは全く物足りず、歴史書、哲学書、批評等のストックの知見が必要である。
もう1つの軸は、線的コンテンツとリンクコンテンツである。線的はsequentialとも呼べる。小説等1つの世界観で、第1章から最後まで直線的に提示されるコンテンツがこれに当たる。これらは拾い読みに適さない。一方で、情報にはリンクコンテンツがある。ウェブではこちらが圧倒的である。新聞や雑誌等パッケージで書かれていたものも、今やバラバラの記事ごとにマイクロコンテンツとなり、リンクだけで読まれている。記事を読んでいる途中で外部のサイトに移動することも可能であり、ハイパーリンクによって縦横無尽につながっていく。
以上の2つの軸で、テキストコンテンツを考えてみると、新聞雑誌は線的コンテンツである。読み手はともかくとして、少なくとも作り手は線的なコンテンツとして雑誌を作っているが、フローの情報は線的に読む必要はなく、情報収集はリンクの方がしやすい。ゆえに、線的コンテンツであった新聞雑誌はハイパーリンクをベースとしたコンテンツであるウェブに、少なくともフローの情報の局面では取って代わられた。
これに対し、書籍は線的なコンテンツでありストックの情報である。ならば、ストックでありながらハイパーリンク化されるというコンテンツはありうるのか?これはかなり重要な問題である。これこそが、「リンク化される本」というよくわからないイメージだが、あるのかどうかはよくわからない。
雑誌はアプリ化するとよく言われている。実際にiPadでは、CondéNast Publicationsの日本法人がVogueとGQの雑誌コンテンツを既に開発しており、アメリカでもWIREDを初め様々な雑誌社が独自に雑誌コンテンツのアプリ化を狙っている。雑誌の世界は今後コンテンツ+開発技術という2つの領域になるのは間違いない。
今後の雑誌競争は、コンテンツの競争であると同時にアプリケーションの開発競争になる可能性も極めて高い。これは、雑誌がリンクのコンテンツと親和性が高いフローの情報だからである。ハイパーリンクを持ち込むことによって、今までの雑誌よりもさらに読みやすく情報収集を的確にすることが可能になるだろう。
書籍はどうなるのか?はっきり言って答えはない。
少なくとも言えるのは、参考書、教科書、辞書、地図、事典、絵本がアプリ化していく可能性が高いということである。これらのコンテンツはsequentialに読まれる必要がなく、アプリケーションとして読まれる方が利便性が高いからである。実用書やエッセイ集はばら売りされる可能性もあるが、小説や文芸書等はパッケージ、コンテンツとしてひとまとまりとしての強度が極めて強いため、おそらくマイクロコンテンツ化はしないだろう。
もちろんいくつか例外はある。
「三層モデル」を、2009年7月に出した『2011年 新聞・テレビ消滅』(http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166607082)の中で説明した。
メディアは常にコンテンツとコンテナとコンベアである。コンテナは流通システム、コンベヤはそれを流通させる媒体のことである。新聞で言えば、コンテンツは記事であり、コンベヤは紙、コンテナは新聞をパッケージにして1カ月4000円で販売するという流通システムのことである。そう考えると、書籍の場合には、コンテンツは本の中身、コンベヤは紙、コンテナは印刷(正確には印刷物流)になる。それでは、昔はどうだったのか?
コンテンツが本の中身であることは今も昔も変わらない。ただし、当時コンベヤは羊皮紙であり、コンテナは写本であった。ではもっと以前はどうだったのか?
コンテンツは本の中身、コンベヤは石板である。この時代のコンテナは、やはり写本である。つまり、15世紀に印刷が発明され、印刷物流という流通システムが起きる以前は、長きにわたり、流通システムはずっと写本だった。では電子書籍はどうなっているのか?
コンテンツは本の中身である。ただし、コンテナはデジタル配信、コンベヤが電子機器になるという変化が起きている。
それぞれのレイヤーを見てみると、コンテンツが本の中身であることは不変である。これに対し、コンベヤは目まぐるしく変わっている。粘土板がパピルスになり、竹簡になり、紙になり、今やiPadになり、今後また第三の媒体が出てくるかもしれない。一方で、コンテナはあまり変わっていない。コンテナ、すなわち流通システムは、写本→印刷→ネット配信の2回しか変わっていない。写本が印刷物流に変わったのと同じぐらいのインパクトが起きていることは、そこで理解して頂けると思う。
そうすると、一番重要なのは、下のコンベヤが変わっていくことではなく、実は真ん中の流通システムの変化の方が、知の流通、知の共有というインパクトでは強いのではないかと思う。
流通システムの変化こそが最も大きいことを考えれば、どの媒体で読もうが、それがデジタル配信されたことが重要であり、電子書籍と同じインパクトをもたらすものだと考えられる。
コンテナの変化は上のレイヤーにあるコンテンツそのものにも大きな影響を与え、さらにその上のコンテキスト、つまり本をどのように読むのかという文脈の共有、さらには読者にも影響を与えるだろう。今後は、このレイヤー構造の中で本は読まれていくだろう。
電子書籍化によって、書店営業や取次営業の力は徐々に弱くなる。直接読者に対して情報を提供することが可能になる。これこそが電子書籍における新しい力学である。
一方で、電子教科書の場合、その間に教育委員会と学校という形で取次の営業が入ってくる。現状ではここの突破が難しい。いくら子どもたちがiPadを求め、それに対するリテラシーが高かったとしても、その前提として政治的に教育委員会や学校をどう乗り越えていくかが問題である。
本はあくまで読者が読むものであり、関係は一対一である。ところが、教科書というのは一対一ではなく、教科書というコンテンツ/先生/生徒という一対一対一の関係なのである。その三角形の中で1つの電子教科書が共有され、何らかの働きかけが行われる。そこで先生が果たす役割が重要だが、多くの先生のITリテラシーが低い状況の中で、この状況突破は難しく、かなりの時間がかかると考えられる。ある意味ここが突破されれば、日本がITを利活用できる時代に移行する最初のきっかけになるだろう。
実際に現場で制作してきた立場から、どのような考え方で制作者はものを作っているかという話をしたい。今回お話しすることは基本的には私個人の意見である。
佐々木さんが長期的な視点でメディアのことを話されていたが、私の立場からは、学校教育の話として、学校という場でどのようなメディアがあったかについて紹介したい。
こちらの画像は、長野県の山辺学校歴史民俗資料館のホームページ(http://www.city.matsumoto.nagano.jp/tiiki/sisetu/kyoiku/yamabe/No1/index.html)にあるもので、江戸時代の寺子屋を描いた図である。これをメディアの立場から見てみると、今の教室と異なるのは、先生が黒板のような子どもたち全員に対する伝達手段を持たないという点である。子どもたちの方も、ノートを持たず、硯を磨って墨を使うしかなかった。 このように、先生と子どもたちがいて、そこである種の授業が行われていることに今も昔も変わりはないが、そこにあるメディアによって伝える方法は制限される。逆に言えば、伝える方法が変われば、様々なことが変わっていくのではないかと考えられる。
今度は未来を見てみたい。こちらの画像(http://www.japet.or.jp/senshin/ict-model/6-2-4.html)は、日本教育工学振興会が文部科学省の委託事業を受けてまとめた、2007年時点での2015年の教室イメージである。教室の中に、大きなプロジェクタと電子黒板がある。子どもたちの方には、グループごとにペンタブ型のパソコンがある。そして担任の先生とサポートの先生の2人がいる。
「大きい画面」と「小さい画面」があるという構造は、黒板の頃からそれほど変わっていない。だが従来の黒板に加え、電子黒板やプロジェクタ等の「大きい画面」によって、テレビの放送や録画、インターネットを見ることが可能になる。子どもたちの手元にあるPC等の「小さい画面」によって、子どもたちが学習したことを確認したり、さらに追究して調べたり、あるいは子どもたち同士で調べたことをまとめたりつなげたりすることも可能になる。その時に映像の果たす役割は大きくなるのではないかと思う。
ここからは、学校向けの「NHKデジタル教材」(http://www.nhk.or.jp/school/)を紹介したい。これは、「『大きい画面』と『小さい画面』がある環境」としての小学校・中学校・高等学校を対象としたものであり、基本的には学校の授業とそれに関係する活動の中で使ってもらうことを目的としたサイトである。この先、電子書籍時代を考えていく時の1つの材料になるのではないかと思う。
これは、小学校3年生向けの番組で、かわいらしいキャラクターが出てきて、野原に探検に行ったり、様々な実験をしたりするという話である。注目してほしいのは、単にテレビの番組を見るだけではなく、インターネット上の教材を見ることで、より学習を深められる仕組みになっていることである。
番組自体は15分で、テレビで放送しているのに加え、放送終了後はインターネット上で見ることもできる。番組はインデックス化され、途中で再生することも可能な構造になっているが、佐々木さんの喩えで言うと、リニアなコンテンツであり、制作者の立場としては、15分全体を1つのストーリーとして見てもらうことを想定している。
リニアなコンテンツにマルチメディアを加えるために作ったのが、「クリップ」である。 小学校3年生は昆虫の成長のことを学ぶ。青虫が蛹になり、羽化してモンシロチョウになるということを15分のテレビ番組でも見るが、それに関連する学校内外の活動と合わせた学習の流れに必要な短い映像も、インターネット上のマイクロコンテンツとして提供している。
例えば、外に虫を探しに行くこと場合、初めて虫眼鏡を持つ子どもたちに向けて使い方を教える必要がある。そのために60秒程度の映像を用意しているが、これを面白く見せるには、映像を見せる前後に何らかのデザインが必要である。例えば、映像を見てから虫眼鏡を持って遊びに行こうという目的を持たせる、虫眼鏡を上手く使えなかった子どもたちをフォローするために映像を見せる、といった使い方をして初めて意味を持つ。
通常のテレビ番組は、15分の番組の中で、蝶に羽化する瞬間を見せ場として、あるストーリーラインに基づくリニアなコンテンツを作り、見ている人に「面白い」「わかった」と思ってもらうのが筋である。しかし、マルチメディア教材を考えた場合、ストーリーラインには乗らなくても必要な映像があるということである。先生が1人、テレビ1台、子どもが40人という今までの学校の状況に対しては、15分の番組を提供するしかなかったが、先の2015年の教室イメージであれば、このような形のコンテンツもありうる。
今ご紹介したのは、先生が、リニアなコンテンツとは別に授業の中で必要な映像を見せるという文脈で使われるタイプである。これに対し、子どもが自分で見られるものも用意している。例えば、モンシロチョウを勉強した小学校3年生が、「一番大きい蝶は?」「一番小さい蝶は?」という疑問を持った時に見られる映像を用意している。
また、1つの番組の中で問題の答えを提示しなければならないテレビ番組と異なり、「この幼虫はどのようにして大きくなるのでしょうか?」というように、疑問形で終わる映像も用意している。答えを出さない部分を残して投げ出す形の映像も、マルチメディア教材だからこそ提供できるようになったものである。
では、なぜ投げ出すことができるのか?というと、普段1人でTVを見ることと、教室でTVを見ることはやや異なるのではないかと思う。
1人でテレビを見る場合には、視聴者は早くて正確な情報や、楽しい情報、分かりやすい情報を期待している。これは、制作者側から見ると、それぞれニュース、ドラマ/ドキュメンタリー、教育番組/教養番組に相当する。
これに対して、教室でテレビを見る場合、先生が間に入ることで矢印が交錯してくる。子どもたちが映像を受け取るということは変わらないが、先生がTVを操作することができる分、双方向になる。また、子どもたちに映像を見せるだけではなく、「この後虫眼鏡を使おう」と先生が子どもに働きかけることもできるし、子どもがそれに対して反応することもできる。子ども同士の意見交換も可能になる。
さらに子どもたち側に端末があれば、子どもたちが端末を操作するやりとり、子ども同士のやりとりも生まれる。ただし、いずれにしても、教室で行われる限り、全体を見ている先生がいるという構造ではないかと思う。
今日お話ししているのは、iPadや色々な話題があるが、これらについてもう少し引いた目で考えるべきではないかということである。その時に、こういう整理が必要ではないかと思う。最後に、2つの問いにお答えする形でまとめたい。
この1つのパターンとして、「NHKデジタル教材」がある。これが完成形というわけでは決してなく、番組は、それが使われる環境に非常に依存するものである。よって、子どもたちがグループで1台PCを持つ環境、1人で1台持つ環境、というように、少しずつ先を見越しながら、対象となる環境に合わせて制作に取り組んでいる。その1つのイメージがNHKデジタル教材であり、リニアなコンテンツとマイクロコンテンツを組み合わせることも成立するのではないかと思う。
これについては、NHKの取組みをもう1つご紹介したい。「NHKクリエイティブ・ライブラリー」(http://cgi4.nhk.or.jp/creative/cgi/page/Top.cgi)を昨年の10月から行っている。これは、NHKアーカイブスの中から映像をダウンロードし、編集して自分自身の作品を制作することができるというサイトである。公開する場合、非営利であることと、引用元がNHKであることを表示することが約束である。あるいはダウンロードしなくても、画面上で編集することも可能である。
教材を誰が作るのか?という時に、学校教育では先生方ご自身が作る教材も、子どもたち自身の作品も世の中には数多く存在する。ただ、それを誰でも見られる形で公開できるかについては、機材の面からも著作権の面からもいくつかの制約がある。誰が作るのかという時に、その1つの方法として、NHKとしては、NHKの持っている素材を提供できるのではないかと思う。
以上、制作者の立場から、マルチメディア教材をどのように作っているかをお話しした。
メディア論の立場から、出版・書物・編集及びそのデジタル化をめぐるさまざまな変容についてお話ししたい。メディア論にもいくつかの立場があるが、私の場合は、メディアの問題を産業や技術の変容という話だけでなく、社会学や現代の思想の課題として捉えるスタンスを取っている。
技術決定論というのは、新しい技術やサービスの登場によって、今まであったものがすっかり変わるというタイプの議論である。1950年代にテレビが登場した時も、1980年代にパーソナルコンピュータが登場した時も、1990年代にインターネットのアクセスが容易になった時にも全く同じ議論が起こった。表面上の様々な違いはあれ、本質的には同じ議論が今も繰り返されているように見える。
落ち着いて考えるとよくわかるが、既存の紙でできた書物と電子書籍は技術的にも物質的にも無関係であり、何の連続性もない。それを連続的なものとして捉えることで電子書籍という発想の枠組みが出てくる。両者をつなげるのはメタファーである。メタファーは私たちの認識そのものであり、そう考えると、いわゆる電子書籍は、ほぼ例外なく既存の書物の発想の枠組みから一歩も出ていないのではないかと私は思っている。
また、電子書籍をめぐる言説のほとんどは、実はマスメディアをめぐる言説と非常に似ている。つまり、送り手あるいは業界側の発想の枠組みで語られている。「電子書籍の登場によって流通が変わる」というのも読者の見方ではなく、業界や送り手側の見方である。
例えば、書物をめぐる実践のタイプ、身体の振舞いのタイプを分けると、「書く」「編む」「形を与える」「手渡す」「読む」という5つのフェーズに分かれる。このフェーズの産業化を通して産業の枠組みが決まる。「書く」は文筆業、「編む」「形を与える」は出版編集・印刷製本、「手渡す」は流通であり、「読む」だけが産業化されないまま残っている。今述べたような5つの身体的な実践のパターンを3つのフェーズに分けて、それぞれを産業が押さえている状態である。この分け方は歴史的に形成されたものであって、絶対的なものではない。よって、それは変更する可能性が残されている。
例えば教科書は、一般的には、ある分野の専門家や権威のある人が執筆し、それを書物の形にして初学者が読んで勉強するものであると思われている。これは、知識というのは正しく記述することが可能であるという前提と、その正しく記述された知識は何らかの技術的手段によって伝達可能であるという前提に基づく。
しかし、教科書の考え方もいろいろある。例えば私は若い頃に編集者をしていたが、その時につくづく思ったのは、教科書を編集している時に一番勉強しているのは、読者でも著者でもなく、編集者自身であったということである。つまり、何かについてよく理解したければ、そのことについて本を書くことが一番勉強になると今でも信じている。
ということは、教科書は「与えられて勉強する」という発想そのものも、いつの間にか作られていた枠組みだと言える。
以前に担当していた半年間の授業で、授業で勉強したものをもとに学生が自分で教科書を作るという活動を行った。出版に関する授業だったが、自分たちが勉強したことを載せた本を作るにあたり、前からも後ろからも読めるような本のスタイルを考えた学生もいた。
書物というものは、紙を束ねて綴じるという冊子の形であり、今の電子出版はこれを電子的にシミュレートしているだけだが、これ以外の形もありうるのである。現に、アーティストブック等の分野では様々な形の本がある。一般的な本であっても、巻物のようなスクロール状のものもある。また、ノンブル(ページを表す数字)、見出し、柱といった本の中の様々な装置も200年をかけて徐々に作られたものであり、最初からあったものではない。初期の本も、全くリニアな構成になっていない。
編集にも様々な方法がある。例えば、四角い紙で綴じなくてもよいのではないか?内容と形に柔軟性があっても良いのではないか?私の授業の中でも、人間をシミュレートするロボットを通して人間について考えたいと考えた学生たちが「人型の本」という本を作った。この本の形は、リニアかハイパーテキストかという二分法を超えて円環状になっており、そこに始まりも終わりもない。
ということは、電子書籍のフォーマットが入ったから本が変わるという話ではない。私たちが与えられた枠組みの中に棲みついてしまっているだけで、紙を使っても十分新しいスタイルを考えることは可能なのである。電子書籍の話も、私たちが棲みついてしまっている枠組みをどう変えていくかという話であって、Appleに与えられた枠組みの中でどうしようか、という切ない話ではない。
このように考えると、既存のある関係性、つまり、送り手がいて、途中が産業化され、受け手がいて、本は買うものだという関係は当然変わっていく可能性がある。大事なことは、それは技術によって一方的に変えられていくのではなく、私たちの一挙手一投足によって私たち自身が変えていけるということである。
そして、もう1つ指摘しておきたいことは、iPhone等のデバイスが、私たちの日常生活のあらゆる襞の中に浸透してくることがどういうことかということである。
思想家の清水幾太郎は1957年に「テレビジョン時代」という論文で、家庭生活は一種のアジールであったということが述べている。「アジール」とは、資本主義社会での一種の逃げ場で、そこでは何をしても良いという場所である。清水幾太郎は、機械が入ってくることによってその自由さが奪われるということを非常に心配していた。つまり、機械あるいはテクノロジーの背後には必ず資本が関係しているのである。単純に企業がいるという話ではなく、経済的なことを通してある種の政治的な力関係が我々に作動しているということである。
具体的な例としてSNSを挙げたい。ソーシャルメディアネットワークのサービスが目指しているのは「のべつまくなし接続してくれること」である。何故か?答えは簡単で、「個人の行動理由をキャプチャすることによって、1人1人をより精密な広告のターゲットにしたいから」である。「マスメディアが終わった」ということが言われるが、それは広告媒体としてのマスメディアが同じ情報を一度に大量にばらまく方法から、1人1人の趣味や嗜好に合わせてピンポイントの情報を送り届ける方法に変わったということである。
電子書籍の領域でも当然ながらそういう力学が働く。人間がデータとして再構成され、そしてデータによって再構成されたものによって現実が再編成されていく。その傾向は、当面は緩むことはなく、ますますシビアなものになっていくことだろう。1個1個のサービスは魅力的で、使ったらやめられない。しかし、そうしてのめりこめばのめりこむほど、「私の情報」という形でそれは電子的に吸い取られ、再構成され、「私」に送り届けられ、「私」はますますそれによって作り変えられていくのである。
このような時代に、人間あるいは教育をどのように考えるかということが、最も本質的な課題であり、それを抜きにしては社会学や人文学としてのメディア論ではなくなると言わざるを得ないだろう。
北村:皆様のディスカッションの内容を整理して、皆さんのご関心に合ったものを抽出しながら質問を投げかけていこうと思います。
宇治橋:正確に言うと無料ではなくて、皆様からいただいた受信料を基に作っている。NHKデジタル教材とNHKクリエイティブ・ライブラリーはやや狙いが違う。NHKデジタル教材の方は教育目的で、学校教育の中で映像を使った授業を支援するためのものであり、ここ10年ほど続けている。これに対して、NHKクリエイティブ・ライブラリーはやや新しい考え方で、ここ半年ぐらいでやっている。これは、映像がどう編集されているかを実際に体験してもらうことで、映像について多くの方に知っていただくのが目的である。
山内:まず「今」の話をしたい。ご存知のように、著作権法では、厳密には学校教育法上の「学校」の正規の授業で使う場合のみ特例になっていて、逆に言うと授業以外は特例に入らない。アメリカの場合には、比較的フェアユースの概念が進んでいるため、大学や放課後までフェアユースで使って良いことになっているが、日本の場合には、かなり限定して規定されているのが現状である。
宇治橋:若干補足したい。今山内さんが話されたことは、NHKのホームページ(http://www3.nhk.or.jp/toppage/nhk_info/copyright.html)にも載っている。教育目的でNHK番組の利用をお考えの方に向けて、権利許諾を必要としない「学校」と「授業」が明確に定義されている。将来的にどうなるかについては、個人的な考えになるが、学校教育の中の授業で、子どもたちが色々なものを見ていくことでより豊かな生活を送れることが必要だと思う。その意味では色々なものが学校の中で使えるようにするべきだと思う。ただ、単純に学校だから全部OKというのではなく、なぜそれが使えるのかということも、教育の課程の中に組み込んでいかなければならないと思う。
長谷川:答えにくい質問だと思う。普通に考えれば、デジタル時代の著作権は当然必要である。今の著作権という考え方自体は18世紀に確立している。著作権の概念は、勝手に複製させないために生まれた。これは、今であれば「著作者の権利を守る」という言い方で表現されるが、歴史的な経緯から見ると出版者が自分の利益を確保するためである。今は、著作権は国によって規定が違う。例えば、去年大騒ぎになったGoogle Book Searchのような形で、アメリカの著作権の考え方、フェアユースの概念が拡大解釈された。このように、一種の契約という形で著作権がいろんな問題をバイパスする動きがある。著作権は単純に権利を守るというのではなく、それ自体が大きなお金を生むかもしれないものであるため、なかなかどうなるかという1つの見通しを申し上げるのは難しい。
宇治橋:最初にNHKの立場でいうと、学校の先生方に映像を活用していただくため、私自身の今の仕事として、学校の先生方が集まる研修会や教員養成系の大学等で、制作者としてこのようにコンテンツを作っているというお話をさせていただいている。この先は、個人的な実感になるが、学校現場に行っている立場からすると、学校や先生に全部求めるのが本当に良いのか?と感じることがある。つまり、授業の中で子どもたちが何かを理解する活動が目的として先にあるのであって、それに対してある種のデバイスを使うというのはその次ではないかと思う。
山内:よくこういう時には、日本の学校の教員はやり玉に挙げられる。ITリテラシーは確かに諸外国に比べたら低いが、極端に低いわけではないことは誤解しないでいただきたい。そして、隠された問題があるということをお話ししたい。1つは、もともと日本の教員は諸外国に比べて有能であり、自分で教材を作ってカスタマイズするという文化がある。アメリカの教員が教材屋から教材を買ってそのまま使うのに対して、日本の教員は心のこもった教材を作るという文化があるため、流通している教材を使う場合にも、カスタマイズしなければ気が済まない、つまり、パッケージというよりも素材として使いたいと思っているということがある。あまり注目されていないが、こういったことが1つの要因としてあるのではないかと思う。もう1つの問題は、これもあまり認識されていないが、日本の教員は、諸外国、例えばフィンランド等と比べると極端に忙しい。つまり自分でカスタマイズして使いたいと思っているのにかかわらず、その時間がないことから、悪循環が起きている。これは、「教員は給料をもらっているんだから頑張れ」という単純な問題ではなく、学校のシステムそのものを比較した時にどうしていけばいいのかという、より生産的で建設的な議論に広げて考えていくべき問題なのではないかと思う。
宇治橋:私のプレゼンの中で、「大きい画面」と「小さい画面」という喩えを使って紹介したが、その意味では、黒板の登場が学校教育の歴史の中で重要だと思う。大きい画面でシェアし、小さい画面で確認する・まとめるという大きな構造は実は変わらないのではないか。その構造の中で必要なものはこれから考えていくべきだが、学校の枠組みの中では、僕は、電子教科書のようなものが手元に来たという見方よりも、この構造の中で、マルチメディア、リンク的なもの、映像が使えるようになったという整理の仕方をすべきではないかと思う。
山内:いわゆるone-to-oneコンピューティングといって、ノートPCを1人1人に渡して個別学習を実現するということが、イスラエル、アメリカ、韓国等で試行錯誤されている。今注目されているのはプレイリスト方針、つまり、学習者1人1人にプレイリストが用意され、それぞれの学習課題が違うというものである。このような極端な個別学習と、プロジェクト学習のようなグループ学習を組み合わせるという新しいタイプの学校が出てきている。これは試行錯誤している段階なので、今すぐ日本に採り入れられるかどうかはかなり微妙である。先ほど宇治橋さんが仰ったように、日本は共同体的であり、隣の座席の学習者が違うことをやっているという状態は、そもそも日本の教室になじまないため、急に普及するのは難しいだろう。それでは個別学習はどこに行くのか?今回のテーマ設定にあまり「学校」や「教科書」をはっきりと入れていないのは、こういったiPadのようなデバイスによって、家庭学習と学校教育が連結される可能性があると考えたためである。その場合、家庭学習は個別学習になる。例えば、家庭学習でプレイリストを、共同体主義的な学校の授業で協調学習を行うといった形で連結できる可能性もあると思っている。
長谷川:それはどのレイヤーで考えるかによると思う。素朴なレイヤーで考えればメディアを道具だと考えれば良い。その場合、どれだけ使い倒すかということになる。それよりももっと素朴なレイヤーとしては、その道具で与えられたことをどれだけ上手にやるかということがある。私としては、あまり学校教育の皆さんにそのように考えてほしくない。せめて、与えられた道具をいかに使い倒すか。与えられた道具の枠組みをどれだけ使い手が乗り越えられるか。そういったことを学校教育の現場で実践し、発見してくれたら素晴らしいことだと思う。
(補足)メディアをいくつかのレイヤーで考えることが必要だと言ったが、もちろんこの2つしかないというわけではない。メディアを道具だと捉えるのが素朴な見方であり、そのレベルで考えてもこういうことが言えるということである。「メディアが何か」と言えば、それはわからないが、はっきり言えるのは、メディアは私たちのものの理解の内容ではなく、理解の仕方に関わっているということである。それが一番大事なレイヤーだと思う。
山内:「教科書」をセミナーのタイトルに入れなかった理由の1つになるが、いわゆる教科書は、350年ぐらい前にコメニウスが子ども向けに初めて絵入りの「世界図絵」を出したのが最初である。それ以来、形はいろいろ変わってきたが、基本的には知識を体系化してメディアの中にパッケージングして、それを正しい知識として参照するというのが1つのスタイルであった。これは、本というメディアに関してはよく機能したモデルであったが、iPadになると、どこまで「本」である必要があるかということになる。今の教育は、教材や教科書と言えば、そこに正しいものが書いてあるというのが前提だが、別にその枠を外しても良いかもしれない。教科書は検定もあるので、この5年10年ぐらいでは簡単に変わらないことは理解しているが、今は、それを相対化する時期に来ている。ソーシャルメディアの話で言うと、iPad等は、学校外の専門家やボランティアとつなぐ窓になる可能性がある。学校の外の知識や文脈がiPad等を通じて子どもに流れ込むことになれば、それは今までの教科書とは全く異なるはずである。一番怖いのは、これだけ大きいことが起ころうとしているのに、昔自動車が出てきた時に馬車にエンジンを積もうとしたのと同じことをやろうとしているのではないかということである。答えはこれから数十年で考えていきたいが、昔のメディアのメタファーに固執して、それを強く使いすぎるのは怖い。加減を考える必要があるのではないかと思う。
宇治橋:少し違う方向からお話をしたい。私は教育メディア学会で活動しているが、その中で、ラジオが学校に入ってくる時期にどう受け入れられたかについて今、調べている。端的にいうと今と似ているところがあって、大騒ぎになったわけである。昭和10年前後の紙の教科書しかない学校に、初めて音でリアルタイムで届くメディアであるラジオが入ってきた。「これは画期的だ!」「全ての学校にラジオを入れるべきだ!」「ラジオによって日本の学校教育は大きく変わるんだ!」という論調もあれば、逆に、「新しい機械をどう使えば良いのか?」「そんなものがなくても紙とノートと教科書で良いじゃないか?」という論調もあった。結果としてどうなったかを考えてみると、ラジオの教育番組は完全に無くなったわけではなく、今でも語学や日本語の教材の形で残っている。新しいメディアが出てきたときに教育が考えるべきこと、という大きな話題を考える際には、それくらい引いた目で見ることも大事なのではないかと思う。今議論されている、電子書籍がどうなるかという問題についても答えはないが、今までどんなメディアがあり、それがどのように残ったか、残らなかったかを考えるのが大事である。
宇治橋:メディアを発信できる人は誰でも教材を作れるが、教材が学校の中で使われるという特性を考えると、その枠組みに入ってくる人は、誰でも、というわけにはいかない。しかし、特別なことが起きるわけではないだろう。ある一定の国の基準を満たすものを作る人たちも必要だろうし、その枠組みの少し外側からその基準に沿ったものを作る人も必要だろう。比喩的に言うと、前者は教科書であり、後者には副教材やテレビが含まれるだろう。
。ただ、若干変わってくると思われるのは、学校の外側にいるが、そのすぐ近くにいる人たち、例えば博物館のような公的なものに限らず、地域のことに詳しくて、ある種の作品をまとめているような人たちが教材を作っていく可能性も出てくるということである。マイタウンマップ・コンクール(http://www.mytownmap.or.jp/)というコンクールで、私も山内さんも関わっているが、地域の教材化を進めている方がいる。その地域の歴史・文化・環境について調べている方々の教材が、より学校に入りやすくなってくる。その時に、新しく学校に入ってくるデバイスがそれを上手く受け止めてくれるといいなと思う。そういう意味では、国が作るもの、先生が作るものに加え、学校の周りをゆるやかに囲っている人が教材作りに参加できるようになる可能性があるのではないかと考える。
長谷川:今、皆さんはメモをとっていらっしゃる。言葉が通じない状況で「教材というものはどんなものですか?」と聞かれた時、どんな絵を描かれるだろうか?そのイメージをもっとずっと多様に、厚みのあるものにしていければ良い、そうなってもらいたいと思う。
山内:『デジタル教材の教育学』(http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-052079-9.html)では、「デジタル教材」を「教育目標の実現のためにデジタル化された学習素材と学習過程を管理する情報システムを統合したもの」と定義している。なぜこの定義をしたかというと、つまり“教育的素材”と“教材”は違うという話である。おそらく、教育的素材は皆が作れるし、どんどん作った方が良い。
。そこはオープンにして、社会に蓄積し、オンラインで教育的素材が展開されていくべきである。ただ、そこを学習につなげるために編集してパッケージ化する部分はかなり難しい部分で、ある種の専門性が必要になると思う。それは、教育、編集者、あるいは研究者の役割になるかもしれないが、その知恵の部分が教育的素材と教材の段差になるだろう。教材を誰が作るのかという話は、基本的には2つレイヤーがあると思う。教育的素材は、できるだけ多くの人が作り、社会からできるだけ多くのリソースが学習者に届くようにすることが第一に必要である。そして、そこにある種の教育的配慮を付け加えることも必要である。つまり、二重に流通させる必要があると思う。なので、そのシステムをどれくらい作れるかということが重要である。一番危惧しているのが、デバイスだけ普及しても学習は起きないだろうということである。先ほど述べたような、人々の知恵や営みが教育的素材としてiPadのようなデバイスの中でつながり、さらにそれが学習につながるような教育的配慮のネットワークがデバイスの中に埋まった時点で初めて教科書に代わるものに化けるだろう。それには結構な時間がかかると思うが、逆に、それが本当にできれば、今のように国がトップダウンに教科書を決めるのではなく、iPadのようなデバイスを教科書として使うガイドラインを民主的に合議することも可能になると思う。そんな時代が、50年後ぐらいに来れば良いと思う。
Apple社のiPadやAmazon社のKindleなど、電子書籍の流通基盤になる個人用デバイスが普及し始めています。アメリカでは多くの教科書が電子化され、教材の流通に革命的な影響をもたらす可能性があります。
当面、教科書や参考書などの電子化が進むでしょう。しかし、長期的に考えれば、電子環境への移行によってもっと大きな変化が起きる可能性があります。
このセミナーでは「誰が作り、学習者にどう届けるのか」という流通システムの変革と「電子環境ならではのマルチメディアとの統合」というテーマをとりあげ、電子書籍時代の教材の新しい形について議論を深めていきたいと考えています。みなさまのご参加をお待ちしております。