私たちの情報メディア環境は「ドッグイヤー」と呼ばれるほどに急激に転変し続けています。2015年には未成年者はすべてWindows95の登場以降に生まれた人たちになります。インターネットや携帯電話が当たり前の世代です。このような世代に対して、どのような学習環境が必要であり、また提供可能になるでしょうか。
今回のBEAT Seminarでは、「2015年の学習環境を考える」と題して、2015年の生活環境、社会状況の予測・洞察をふまえながら、将来の学習環境について考えていきます。
イノベーションについて語る機会が多いが、そこで最近衝撃を受けたことがある。明治大学の学部生にiPodの写真を見せて、これはイノベーションだと思うかと聞いたところ、ほとんどの学生がそうは思わないと答えた。産業界では、iPodはイノベーションの代表例として取り上げられている。しかし、20歳ぐらいの人たちにとって、「子供のころからあるから」という理由で、もはやイノベーションではない。時代によって技術の位置づけやメディアは大きく変わるものだと認識した。
メディアを生活者側から捉えて、それがどのように生活者の価値観や行動に影響を与えていくのかということについて、近未来を考察してみる。
最近のメディア接触時間に関するデータを見ていて、面白い傾向を発見した。
となっており、2年間で「16分」減少している。
詳しく分析してみると、「PCからのインターネット接続」は2006年から2007年は増えているが、そこから1年たつと若干減っている。それとともに他のメディアも順調に減っている。特にそこでインターネット接続が減っていることに驚いた。また、男性のメディア接触時間は、40代に分水嶺があり、40代未満は順調に減っている。女性に関しては、各年代とも減っていく傾向が見える。
これまでは、よりリッチに、より速く、よりインタラクティブに、という文脈の中でメディア技術が進歩し、そのメディア技術に乗るようなコンテンツが出てくるという図式が続いてきた。しかし、これらのデータが示すようなメディア接触行動の変化をもう少し深く探索してみなくてはならないと考えた。
例えば、メディア業界の人たちは、自分たちの業界のことはよくわかっているけれども、境界を接するような業界、たとえば、情報通信業界でどういう動きが起こっているのかは、あまり知らないことが多い。
さらにその外の世界については、そこで何が起こっているかということを「知らないということ」すら「知らない」という領域がある。実は、ここが未来に対して非常に大きな不確実要素を提供していると思われる。
未来を予見するためのアプローチとして、「インサイド・アウト・アプローチ」と「アウトサイド・イン・アプローチ」の2つがある。
インサイド・アウト・アプローチとは、自分たちの内側、すなわち自らの技術やビジネス領域に関する知識・常識から、外との関わりを考え、新しい技術やインテグレーションを含めて、将来起こりうるのではないかという事情を考えるアプローチ方法である。
アウトサイド・イン・アプローチとは、「知らないということ」すら「知らない」領域から、内側、すなわち自分たちに対してどのようなインパクトが生じうるかを考える方法である。アウトサイド・イン・アプローチの具体的な方法はスキャニングである。スキャニングとは、「広く漁る」という意味を持っている。通常、未来を考える時、今起こっている事象と関連づけて、それが次にどのようになっていくのか、ということを考えていくので、発想としては、非常に「線形」になる。基本的には連続な未来を想定するので、そこに「破断」は存在しない。
しかし、実は私たちの世の中に影響を与えているのは「破断」の部分である。連続にはならないところ、「非線形」に変化するところが、未来の一番大きなインパクトがあるところである。そこに私たちは打つ手がなく困ったりしている。
だから、「何かよく分からないが、こういう事象が将来、こっちの流れ(本流)に大きな影響を与えるのではないだろうか」というようなものを集めデータベース化し、そこから帰納的に未来を考えてみる。具体的には、以下のような観点を持ってデータ選定を行っている。
スキャニングの方法を使って、これまで近未来のメディア生活のシナリオをいくつか考えてきた。
総務省からの受託でKDDIと東大が行った「ユビラ(Ubila) 」プロジェクト(2002年)で製作したビデオでは、共働きをせざるを得ない状況が社会全体に広がっていく中で、親が自分の手元で子供を育て上げることに関しては、そのうち破綻がくるだろう…というような予測を盛り込んでシナリオを作成していった。これは明らかに、これまでの技術主導の未来ビジョン作りと異なるアプローチであることを理解いただけるのではないか。
今までメディアというものはコンテンツと一体で考えられていたのではないか。私の世代だと、映像は繊細で、きれいで大きなスクリーンで見たい、だからYouTubeは「なんだこれ」という印象が未だにある。しかし、若い世代はそうではない。何かザッと確認したいと思った時、サクッとみられる…そんな簡単な検索と再生という仕組みをもっているものがあればそれでいい。だからYouTubeでよい。
つまり、メディアとコンテンツは、1対1で結びつく必要はない。テレビや映画、DVDやブルーレイのためにコンテンツが作られる必要はない。むしろユーザがどういう場面でどれくらいのコストを払ってみるのかというトレードオフの上に成り立つのではないかと考える。
コンテンツというのは、必ずしも自身のパーソナルな趣味や嗜好だけではなくて、社会の情勢や、自分がある種その中でしかふるまえないような社会のアーキテクチャに影響を受けて存在し、利用される。
富士通研究所と共同で行ったショッピング支援に関する実験(2006年)では、お客様がどのようなコンテクストの中で買い物をしているかを詳細に観察し、その中で一番効果がある瞬間を特定して、それに合わせたサービスを作ろうと考えた。ここではお客様のコンテクストの中に入って行って、新しいコンテンツアクセスの経験を発見することを重視していた。これが、メディアの在り方に有効ではないかと考える。
コンテクストという考え方に基づいて、今、注目されているメディアを2つ紹介する。
このメディアは、雑誌を購読するというより、この「GOOD」というコミュニティの中に自分が入っていくという仕組みがうまくつくられていることである。さらに面白いのは、不況で広告が激減する中、この雑誌に関しては、大手企業が軒並み広告を出稿する事態となっている。
「GOOD」はもともと雑誌ではなく、ブログから出発している。ブログの中で書かれていることを雑誌にするというステップを踏んでいる。もともとはっきりとした(マーケティング的な)編集方針があって作っているわけではなく、「GOOD」という概念を巡る旅に読者が参加するような成り立ちに見える。
近未来を予見するプロジェクトを行っていると、特にここ数年は「自立しなさい」という言葉が重要になっていることに気付く。これは「リスク社会」の出現と同義だろう。「あなたが選んだことは、すべてあなたが責任をとりなさい」ということがこれからどんどん出てくるだろう。
自立を求められる世の中で、どうやってメディアやサービスを選択し、(さらには)教育に関わりを見出していくのかは非常に困難な選択をはらんでいる。その困難な選択の中で、ユニークなアプローチではないかと私が思うのが次の3例である。
これらのアプローチに共通しているのは、入り口としてメディアがあって、その裏側に個人の自発的な学びが存在していることである。また、コミュニティへの関わりを創出していく媒体としてメディアが大きな意味をもっている。メディアと教育の未来を予測する場合、これらが重要であると考える。
1998年の春、失業率が初めて3〜4%代になるというエポックメイキングな出来事があった。終身雇用が崩れ始め、政府の雇用政策が規制を強化し始めたことに対して、何か物申そうという動きのもと、「リクルート ワークス研究所」がつくられた。
労働市場全般の現状・展望をリサーチし、経済マーケットを形成している個人の視点・キャリア動向・行動に目を向け、働く場である民間企業の人材マネージメントの動向、雇用政策の動向、未来の教育の形という観点から研究を行っている。
人材マーケットを予測するにあたり、我々は「人口動態」と「サービス経済化の動向」などをデータをもとにまず大きなグリップを握る。しかし、個人の志向がどう変わるかは、データを引っ張っただけではわからない。 そこで、ショートストーリーのようなシナリオを作成することで、個人の意識変化をイメージしていく。
2003年では、労働力人口の中に2つのピークがある。団塊世代のピークと、団塊ジュニアのピークである。
2015年は、団塊の世代の退出が最後の過渡期である。すべてがリタイヤするわけではないが、2015年にはかなりリタイヤしている。団塊ジュニアが労働力人口のピークである。これによって以下のような構造の変化が起こる。
雇用者に占める正社員の割合は減少する。2015年に正社員比率は45.2%となり、あとは多様な「非・正社員」で占められる。
また、自営業は、1992年から2002年にかけていったん減少しながら、5年後・10年後にかけて微増していく。地元の商店街のお店のような旧来の自営業が今後も増加しないが、法人を顧客とした個人事業主などの新しいタイプの自営業が増えていくのではないか、と考えている。
2015年には、15歳〜24歳のNew Comer層の5人にひとりが、毎年職場を替える。しかし、この層の労働人口が減るため、人材マーケットの中で若い人たちが増えるわけではない。
また、「転職35歳限界説」は崩れ、今後動き出す。労働力人口が大きく、特に35歳〜44歳のMiddle Ageの労働力人口は急増するので、5年後・10年後の人材流動量は大きな波を形成する。人材流動に対応する術が社会の中になくてはならない。産業をみると、人材流動化に関しては、小売サービス、非正規雇用の比率が高い。この業界が、人材マーケット流動の中核となる。
正社員の雇用が保障されているとする。これをネガティブに言うと、仕事を選べず、どこで働くか選べない。つまり、かなり会社中心主義であり、不自由な働き方である。多くの日本人は望んでいるが、半数を割ろうとしている。
正社員のイメージは、男子・新卒・日本人という、実は日本全体のことを見ているようで全然見ていない人たちである。これまで日本は、彼らが定年を迎えるまでの便利なシステムが中核となっていた。年金問題も健康保険のシステムもそこから出来上がっていた。女性は専業主婦で「奥様」になるのが標準である。
このような概念は破綻をきたしている。労働市場においてもそれが退潮していく。これに伴っていろいろなことが変わってくる。
メーカー・製造業の仕事において、例えば営業はとてもステレオタイプに、形のあるものを売っていた。商品を値引きせずに売るのが仕事だった。しかしそれでは今は誰も買ってくれない。あなたの会社のニーズは何か、何に困っているか、トータルソリューションを提供します、という個々のソリューションシナリオが無ければ売れない。つまり、営業がサービス業にシフトしている。
広い意味でのサービスは、モノからコトへ関心が移行している。それは個々人の志向に大きく依存する。1対1のコミュニケーションに近い。個々の傾向を読み、対応できる人材が必要になってきている。
小売、サービスへの人材流入が増える。小売やサービスに関しては、ホスピタリティが必要になるが、その教育コンテンツが対応していない。資格をつくろうにもうまくいかない。この領域での仕事は非常にある意味でダイナミックなものである。サービスは瞬間的にニーズが生まれて、瞬間的に供給する、その場で発生するものである。どこでどのように学べばよいのか非常にわかりにくい。
例えば企業において、サービスの現場にたくさんの職員がいて、それぞれが日々お客さんと接する中で、コミュニケーションをすべて管理することは不可能である。それぞれ小さな問題、いろいろな問題が生じていて、フロントにいる人間は、全部その場で問題解決をしている。ある意味で非常に高度なビジネスになっている。
そのフロントに、どのように学びを埋め込んでいくのかというワークプレイス・ラーニングについて、我々はかなり前から目をつけていた。このような点に関して、さらにニーズが高くなってくることは、この現状からはっきりしている。
正社員がどんどん減っていき、優秀な大卒の争奪戦が熾烈化している。今年の就職環境はぼろぼろと言われている。
しかし、企業のニーズが激減しているかと言えば、中途採用マーケットに比べればあまり減っていない。なおかつ、優秀な人材の確保は非常に強い。何をもって優秀と言うのか、これが曲者である。いわゆるIQの議論をしているわけではない。
フリーターを政府は減らそうとしているが、構造的に減らすのは難しい。しかし、今の状態を放置することは、とてもよろしくない。変質しながら増え続けるだろう。
パートやアルバイトを駒で使うのではなく、大切な人材として扱えないと企業は終わっていくだろう。彼らを戦力にしていく、良好なパートナーという関係を結び、学びの場を提供していくことで、正常に変質しながら増え続けると考える。
バブル期に入社した人と団塊ジュニアが、人材マーケットの中核になる。総じていえば、大企業の中に多い。今もまだ、大体昇格すれば課長くらいになれるという年功序列モデルを残している企業が多い。
しかし、労働人口のピークがど真ん中にあることから、全員がマネージャーになることはありえないとわかる。昇進していって、課長になる、部長になるという、正社員的な働き方は主流ではなくなる。ずっと現場に居続けることが増える。これもある意味変化と言えるだろう。
旧来的なお店を作るという独立ではなく、いわゆるひとりでフリーランスに近い、すでにビジネスの中でやったことをもとに起業していく、「インディペンデント・コントラクター」とよばれる人が増えていくと思っている。
(参加者からの質問は用紙にまとめられ、司会に提出された。)
山内:学習環境が何かというのはいろんな人がいろんなことを言っているので、この場所での定義をしたいと思います。
基本的に、なぜ私が教育ではなくて、学習環境という言葉を使っているかというと、教育というのはあるひとつの在り方として、教える人がいて、教えられる人がいるという近代の確立したモデルがあります。
しかし、人間が学ぶこと全体に関して、何パーセントを組織的教育がカバーしてきたか。スタンフォード大学の方が人生全体を横軸にとって、組織的な学習(formal learning)と、それ以外の学習(informal learning)の割合を示しました。そうしたら、組織的な学習は20%しかない。残りはほとんど学校教育以外のところで、自分で学ぶ場合もあるし、自然に学ぶ場合もあるし、働く場所で学ぶ場合もあるのに、そういうものを指す言葉がなかったのですね。
働くところだけだったら、ワークプレイス・ラーニングとよべばいいのですが、幼児のころに学ぶこともあるので、すべてを含んで「主体である人間が学ぶ外界」を学習環境と呼びたいと思います。直接的に教授する人がいなくても学習環境が豊かであって、文化的に埋め込まれていれば、人間の発達と成長というのは促進することができるということができるという考え方をベースにして、人間が生まれてから死ぬまでの全体に関して、学び続ける人を支える外界を学習環境と定義したいと思います。
豊田:多くの人たちが、教育研修を提供したら人が育つと思っているかと言ったら、本音は思っていないわけです。それだけでは人は育たない。職場の中でいろんな気付きだとか、広い意味での学習があってはじめて人は育つ。多くの個人は同僚など周辺的なものから気づきを獲得して、最終的に仕事の成果を出して育っていく。
たとえば昔の職場環境でネットが何もないことをイメージした時に、電話がガンガンなってですね、クレームまがいの話が来てるだとか、先輩社員が打ち合わせをどこら辺でしているだとか、実は学びのコンテンツに満ち溢れているという状況がかつての職場にはあったと思います。新入社員が職場にいながらにして仕事だけでなく耳をダンボする中で、広い意味でのコミュニケーション材料がたくさんありました。それがある意味では技術進歩によって、端的にいえばPCやコミュニケーション環境が整備されることによって、実はブラックボックス化してしまいました。
だから、かなり意志を強く持ってしかるべき目的に指向性をもって獲得していかないと学習ができない。それができる人にはよい環境ですが、多くの人はそこまで主体的ではありません。主体的でない人を残念ながら育てることができなくなってしまっています。他にもかつては上下にたくさん先輩がいましたし、今は、組織のフラット化によって一人の上司が抱える人間が何十人にもなってしまって、育てるどころか仕事をアサインすることすらもうまく回らなくなってしまったところも多くあります。
このような状況で、本人が獲得すべき能力とはどんなものかを考えると、ひとつは、知識を獲得しにくい環境の中で、形式的な知識を自分から取りに行くことだと思います。知識一つ一つはもちろん大切なのですが、ここでは知識を獲得しに「行く」という行為そのものが大切だということです。主体的知識の獲得学習におけるメタ能力が身についているかどうかが、以前に比べ断然重要になってきています。そのために必要な能力が何かは明確に言い切れませんが、専門能力・社会人の基礎力という意味でいえば、(ベタにいえば)コミュニケ―ション能力でしょうし、人を動かす力でしょうし、自分をコントロールする力、そういうベーシックな部分がますます重要になってくることを感じているということです。
もうひとつは、一方でみんながみんな主体的になれていないという中で、企業はどう学習機会を提供ができるのかということです。
われわれの研究所の研究の一環としてワークプレイス・ラーニングを事業化したモデルがあります。
例えば、ある百貨店があったとします。百貨店にいろんなお客さんが来る中で、個々の現場販売員はサービス提供をしている。もちろんここではマニュアル通りのことばかりではうまくいかない。そういったときに個々の気づきやひらめきが必ずあるわけです。この自覚そのものが、サービス業では閉じてしまうのですけど、これをプレーヤーとしての販売員同士が横断的に共有できる仕組みを作っていくと、何かもう少しブレイクスルーが起こるのではないでしょうか。
具体的なビジネスのツール、仕組みで言いますと、気付きが起こった時に、仕事が終わった15分を使って、その気付きを携帯データなどに入れる。単純にプレーヤーが個々人のデータに突っ込むだけです。そのような現場の気付きを集積するといろんなものが見えてくる。プレーヤー同士も共有できますし、上の階層におけるビジネスコントローラーにも有力な情報になります。
これは仕事と学びを同時に回す仕組みであるといえると思うんです。個人の能力と違って企業が場に関して学習環境の中に埋め込む上ではなかなか有効になるのではないかなと感じています。
田村:皆さんの中でハイパフォーマーというとどのようなイメージを持たれますか。僕の中では、イチローみたいな人なのかなって思っていたのです。孤高の人で、技術面とか精神面の強さ、常にコンスタントに高い成績を出せる人って求められているし、そういう人が今までの日本社会の中で最も有用な人材と思われていたのではないかなって、幻想でもそんな気がします。
ところが、コクヨのあるコンサルタントと話をしたのですが、彼はハイパフォーマーの研究をされていて、ハイパフォーマーの属性をいろいろ計った。その結果、ハイパフォーマーとよばれる人は、コミュニケーションを取る頻度がほかの人よりも多いという結果が見えてきたと言っていました。「なるほど」と僕は思ったわけです。
また、ある社会学者と話していたら、子どもたちがどのようなコミュニティの作り方をするのかと聞くと、「すごく強いネットワークを2〜3人でもつ」と教えてくれました。このネットワークの強さっていうのは、携帯メールでいえば1日10通以上のやり取りをするほどの強さを持っていると。しかし、別のコミュニティとのパスっていうのがすごく薄くなっているという話も聞きます。
コミュニティ自体が非常にアイソレートしてしまって、その間のパスが生じないから自分と異なる価値観・観点を持っている別のコミュニティとの接点が極めて薄くなっているといえます。私は、これは危機的状況だと思っていて、この間をどうやってつなぐのかとか、自分と価値観が違うコミュニティ、自分と違う文化背景を持っている人たちと異なるバックグラウンドをもつ集団とどう接するのかがこれから厳しい環境で生き抜くために欠かせない教育上の観点ではないかと思っています。
山内:私の考えを述べるかたちになりますので、アカデミックな予測だと思ってそれに従うと痛い目にあうかもしれないことを忠告しておきます(笑)。
これから大事になってくることは、いかに変わり続けられるか、だと思います。立ち止まらずにずっと変わり続けるというのは、ものすごくハードで難しいことなんです。でもこれだけ外側が動いているってことは、止まったらその場でいろいろな不都合が起こってくるわけで、常に変わり続けられるということは、これから一番のコアになる。
今までこの手の話をすると、コミュニケーション能力とか、プロジェクト遂行能力が大事であるとよく言われました。それが大事なのは誰もがわかりはじめていて、変わり続ける原則からいくと、そこからさらに変わらないとだめだということになってきます。誰でもトレーニングで身につくことは、差別要因にならない。逆にそれを超えて、普通じゃできないことをやりつづける、変わり続けるという話がコアコンピタンスとして出てくるのかな、と思います。
大学が輩出すべき人材っていうのが、結構鍵になるかと思っています。つまり労働市場から大学が要求されることに大学はどう答えるかということです。大学が輩出する人材を変えると、最終的に大学入試を変えて、初等中等教育に大きな影響を与えることになる。大学の上位校は、国際プロジェクトが遂行できる人材を輩出しないと生き残れなくなってきています。つまり英語が出きるっていうレベルじゃもうだめなのです。英語ができるのは自明で、逆に言うと英語は本質ではない。皆さんは国際的なビジネスマンというと、アメリカに飛んでNY出張、と思うかもしれませんが、僕はそうじゃないと思っています。今台頭しつつある新興市場国であるブリックスに飛べて会議ができる人、ブラジルに言ってネットワークが作れて、中国に行って仕事ができてっていう人。アメリカは今からの多極化の中で徐々に衰退していくでしょう。多極化の中でネットワークが築けて、仕事ができる人が中期的、今後5〜10年に上位校で求められる人材だと思います。それに対応する教育体制や入試を考えていかなくてはなりません。
下位校もきつい。下位校に「正社員としてどれだけ就職できましたか」と聞くと、できなくなってくると思うのです。自立してやっていける非正規社員だったり、自営でこんなにキャリアを持っている人を生み出せましたというしか生き残る道がなくて、実学化していかないと生き残れません。そのような動きに対応できる大学とできない大学で成否が分かれてくると思います。
豊田:今、山内先生は多様性という話をされたと思います。以前に、なかなか内定の出ない大学に対して、ある意味でのキャリア教育のプロジェクトを実施しました。結果、見事に良い企業にゴールインできた人と、でもやっぱりできない人がいました。その人たちを私たちの持っているアセスメントツールで、何が違ったのか、うまくテイクオフできた人とできなかった人の差をみると、まさに多様性という指標が大きかったのです。
多様性を一言でいうと、「見ず知らずの人と話ができる」とか「世代の違う人と話せる」といったことです。このベーシックな部分に端を発して人とコミュニケーションができることにつながってくるという話でした。
知り合いがランクの低いといわれる大学でゼミをしているのですが、実は20年、良い企業に学生が就職していくというのです。何が起こっているのかというと、ゼミの中で会話ばかりしているということです。ゼミの見ず知らずの20人が無理やり話をしようとしているだけです。その中でいろいろな力を発揮できるようになります。
田村:こういうメディアテクノロジーが2015年に来る、っていうのは正直わかりません。
ひとつ言えるのは、社会の中で自分の中間コミュニティをつくっていくことができるかがますます必要となっているということです。中間コミュニティとは、家でも職場でもない別のどこかにつくられるコミュニティで、それが結果として非常に厳しい、複雑な社会での自分にとってのセーフティーネットになります。そういう存在が必要です。
「里山長屋暮らし〜藤野プロジェクト」というブログがあって、中央線の相模湖の次の藤野町で4軒4家族が集まってコーポラティブハウスをつくっています。まだ家屋は完成していないのですが、つくっていく過程をブログで紹介しています。里山暮らしをつくっていこうという共通理念があって。炭焼きもやるし山菜とりもやります。中には東京のオフィスまでそこから通勤していく人もいます。一人ではなく他人同士で、共通の志や興味関心を通じてつながっていく中で、何か自分たちが今までできなかったことができるようになったり、少なくとも安心して暮らせるようになります。例えば、子どもがいる家庭では普通に隣の家に預かってもらえる。そういうのは都会ではまずありません。中間コミュニティとメディアを関係づける要求というか、欲求が増えてくる気がします。
山内:ここに来ていらっしゃる皆さんは、新しいすごいメディア技術をみせてもらって2015年にこれが来ますというのがわかって、ひょっとしたらお金儲けにつながるかな、とか思っている人が結構いたのではないかと思います。
期待に添えなくて大変申し訳ないのですが、そういうものの考え方自体を終わらせなきゃいけないんじゃないかっていうのが、実はこのセミナーの裏のテーマなのです。それはどういうことかというと、メディア技術というのはこれからも出てきます。ただ、ネットが出てきたようなことは5年に一回起こるとは思わないほうがいいと思います。実は歴史的に見てみると、ネットの普及スピードは、ラジオやテレビとだいたい同じなのです。ラジオ、テレビ、ネットは例外的に起こった非常に大きなメディア市場革命であって、こういうことがいつも起きるわけではないということです。
学習環境は、メディア技術中心に駆動される時代が終わって、メディア技術をベースとした社会変革の時期に入ろうとしています。学習環境には、ミクロなレベルでは教科書がどうだとか、デジタル化したものがどうだとかということが考えられますけれども、今から来るのはそういう話ではなくて、人との間のつながりを技術をベースにしてどう変わっていくのか、変えていくのか、ということです。
今回講演いただいたお二人ともに、特に田村さんはメディアのことにすごく詳しいにも関わらず、紹介してくださった事例すべてが人と人をつなげている事例であるということ、これが非常に大事なことを示唆していると思っています。
私たちの情報メディア環境は「ドッグイヤー」と呼ばれるほどに急激に転変し続けています。2015年には未成年者はすべてWindows95の登場以降に生まれた人たちになります。インターネットや携帯電話が当たり前の世代です。このような世代に対して、どのような学習環境が必要であり、また提供可能になるでしょうか。
今回のBEAT Seminarでは、「2015年の学習環境を考える」と題して、2015年の生活環境、社会状況の予測・洞察をふまえながら、将来の学習環境について考えていきます。